| Canto en el Cielo
目が覚めて、小さな瞳に映るのはガラス越しの真っ白な天井だった。 清潔だが、少しも生命の匂いを感じさせない。外界の可照時間に合わせて調整された室内灯は、本物の太陽と違って、少女に何も語りかけてはくれない。 少女は機械の中に横たわっていた。 強化アクリルガラス製のドームを備えた外観は、まるでおとぎ話に登場するガラスの棺のようだ。規則正しく少女の代謝機能を支え、膨大な生体データをサーバコンピューターへと送り返す。生まれつき体が弱く、少しの変調も軽んずることができない少女にとって、ガラスの棺は皮肉にも今日まで彼女を生かし続けてきた命のゆりかごであった。 棺の中から、少女は室内を見回した。いつも少女が“おねえちゃん”と呼ぶ看護士は、まだ来ていなかった。事故防止のため内部からドームを開けることはできない。仮にできたとしても、こみ上げる孤独感が彼女の手を阻んでいた。 誰か。早く来てほしい。 抱っこして、自分はひとりぼっちじゃないと教えてほしい。 不意に棺に近づいた何かで照明が遮られ、目の前に影が差した。 「おねえちゃん……?」 べったりと無遠慮に両手を付けて棺の中を覗き込んでいた人影は、看護士でも担当医でもなかった。 見たことのない浅黒い肌に、黒い瞳。頭頂部から長く編み込んだ黒髪を、原色のクリップが彩る。仕草や風貌にまだどこか幼さの残る少年だ。少女と目が合うと、嬉しそうに笑った。 「起きた! やぁ、おはよう。元気ぃ? って訊くのも変だな……ええと」 「……おにいちゃん、だぁれ?」 「俺? 俺、シエロっていうんだ」 シエロと名乗った少年は、ガラスの表面に指でアルファベットを描いた。 「C-I-E-L-O。俺の国の言葉で、“空”って意味なんだぜ。いい名前だろ?」 「……シエロ。おそら、なんだ」 ちゃんと理解していないのか、少女はぼんやりとした顔でオウム返しに呟いた。 「そ。で、キミの名前は?」 「あたし……セラフィータ。みんなは、セラってよぶの」 「セラ、か。よし、いい名前だ。気に入った!」 そう言って親指を立てて、少年はまた陽気に笑った。 自動ドアが開いて、ようやく女性看護士が姿を現した。思いがけない来客が見知った少年だとわかると、看護士は持っていたバインダーで、少年の頭を軽く小突いた。 「こぉら、シエロ。ここには入ってきちゃダメって言ったでしょ」 「うっわやべぇ。逃げろ逃げろ、怒らすとマジ怖ぇぞ〜」 あまり悪びれたふうもなく棺から離れた少年は、戸惑う少女にウィンクしてみせた。 「つーわけで。またな、セラ。また、遊びに来るよ」 少女はしばらくの間、少年が去っていった扉をじっと見つめていた。 少年は、少女との約束を律儀に守った。 翌日の早朝、コツコツと棺を叩く音で少女が目を覚ますと、あの少年がそこにいた。昨日と同じように棺にへばりついて笑っている。 「セラ、おはよう! ごめんな? 誰にも見つかんないように来るには、こんな時間しかなくってさぁ」 今度は、少女もふわりと笑い返した。 「――ううん。おにいちゃん、きてくれたんだ」 少女は小さな手を精一杯伸ばし、ガラス越しに少年の掌に重ねた。 「ねぇ、おにいちゃんは、なにしてるひとなの?」 「うーん、わかるかなぁ……」 幼い少女に何と説明したものか、少年は腕を組んで唸った。 「俺ね、動物と話ができるんだぜ。あと、遠くにいる人とかもさ。へへ、スゲェだろ。本当だよ。“テレパス”っていうんだ。頑張れば地球の裏側にいたって話ができっかなぁ。やったことねーけど。んで、政府のエラーイ人に招待された、っつうわけ。『太陽と話をしてほしい』んだってさ」 「シエロ、おひさまとおはなしできるんだ。 あのね、セラもね。おひさまとおはなしできるんだよ」 少女の無邪気な返事に、逆に少年の方が驚いて目を丸くした。 「え、セラも? マジで?」 「うん。おひさまはね、すごくまぶしいけど、すごくおおきくて、あったかいんだよね」 「そっかぁ。じゃあ、俺とセラは“仲間”だな」 「……なかま?」 「トモダチ、ってこと」 それを聞いた少女の顔がパッと綻んだ。 「シエロ、セラとおともだちになってくれるの?」 少年は大きく頷いた。 「ああ、もちろん。今日から俺達は大事な仲間で、友達だ」 背後のドアが開き、少年は2度目の退室命令を食らうことになる。少年は諦めずに、「また来るから」と手を振った。 (――……との接触以降、No.19の生体反応に極めて良好な結果が散見されます) 複数のモニターを眺めながら、研究員達が声をひそめて話し込んでいた。 (彼はまだ子どもです。イレギュラーによる個々の作業遅延が予測されますが、プロジェクトの進行そのものに悪影響はないかと) (むしろ、我々にとっても都合がいい、と?) (いかがいたしましょうか、“マダム”) 研究員に呼びかけられた初老の女性は、小さく唇をすぼめた。サングラスで隠した硬い表情の真意は、誰にも推し量ることができない。 (あの子にお友達ができたというわけなのね。……いいでしょう。彼の入室、およびNo.19との接触を特別に許可します。けれど、次の実験は2週間後。予定通りおこなって頂戴) (――はっ) その日の朝、担当医と共に部屋を訪れた少年を迎えたのは、ガラスの棺から起き上がった少女だった。 制約付きながらも2人に与えられた1時間をいかに過ごすか考えた末、少年はこの施設で最も見晴らしのいいラウンジへ少女を連れ出した。少女をおんぶして、廊下にいた職員達の間を駆け足で通り過ぎる少年の横顔は、とても誇らしげだった。 「大人の考えてることは全ッ然わかんねーな。昨日まではあんなにダメだダメだって言ってたくせに、今日になったらアッサリ『セラと仲良くしてあげて』なんてさ。……ま、そのお陰でこうやってセラと遊べるんだし、いっか!」 「うん。セラ、シエロとあそべるの、うれしい!」 2人は窓辺に並んで座り、晴れ渡った空を見上げた。 午前の陽光が燦々と降り注ぎ、もうすぐ夏が近いことを報せている。だが現実には、この太陽の光には生物を石化させる、目に見えない有害な情報が含まれているという。そのため、施設周辺の地域そのものが巨大なドームで覆われていた。 2人がどこへ行こうが、所詮はガラスの棺の中。 それでも、あの孤独な部屋より遥かに、この世界で生きているという実感があった。 「――俺、あの空を飛ぶのが夢なんだ」 少年は空に向かって手をかざした。雲1つない、突き抜けるような青空だった。 「飛行機はここに来る時に乗ったけどさ。じゃなくって、もっと空がよく見えて、ナマで風を感じられるヤツがいい。グライダーとか、そういうの」 「それ、なぁに?」 「あぁ、グライダーっつうのはね。こーんな大きな凧に、こういう棒が付いてて。風に乗ってビューンって飛ぶんだよ」 少年が身振り手振りを交えて楽しそうに説明すると、少女も何となく理解したようだった。 「シエロ、おそらとべるようになれたらいいね」 「ああ、いつかぜってー飛んでやる。そんで、世界一周するんだ。世界中の空を制覇するぞー、ってな!」 「じゃあ、シエロがおそらをとべるように、セラがおまじないしてあげる」 少女は少年の手を取り、ゆっくり、たどたどしく歌い出した。 ――ら ら らららら、らららら ら らららら…… それは歌と呼ぶにはあまりにも稚拙で頼りなかったが、不思議と少年の胸を揺さぶる輝きがあった。 「……俺のハートにジンと来た。スゲェな、セラ。何て歌?」 「『いのり』っていう、おうた。エンジェルがね、おしえてくれたの」 意外なところで、意外な人物の名前が出た。 その研究機関幹部を、少年は1度だけ見たことがあった。整った中性的な容貌を冷酷に印象付ける、シニカルな視線。近寄りがたく、ましてや子どもに歌を教えるなど想像もつかなかった。 「へぇ……あのオバ――ん、ん。オネエサンが、歌を。人って見かけによらねーわ」 「エンジェル、おうたがとってもじょうずなんだよ。……でもね」 少女は急に肩を落として俯いた。 「おうたをうたうとき、いつもかなしいかおしてるの。なんでかなぁ。じょうずなのに。セラ、エンジェルがかなしいかおだと、セラもかなしくなっちゃう、のに……うぅ、ぐすっ。ふぇ……」 話しているうちに本当に悲しくなったのか、少女は顔をくしゃくしゃにして泣き出してしまった。少年は、大粒の涙が落ちる少女の頬をそっと両手で包んで、笑った。 「セラ。泣いてばっかじゃ、ブスになるぜ。スマイル、スマイル!」 少年の言葉につられるように、少女も笑った。 ぽろぽろ泣きながら、笑った。 少年はすぐにメロディーを覚えた。 晴れた日も、雨の日も、朝のラウンジからは2人の歌と笑い声が聞こえた。その光景を、ラウンジに立ち寄る職員達も日常と受け止めるようになって、1週間後。 「――明日、いよいよ太陽と話をするんだってさ」 いつになく落ち着かない様子で、少年は言った。 「何話せばいいかなぁ。てか、やっぱ最初のアイサツが肝心だよな。英語とスペイン語、どっちで話しかけりゃいいんだ? 太陽って言葉通じんのかもわかんねーし。ウッカリ通じなかったら、踊ってみっか。ボディランゲージは万国共通、最強の言語だぜ」 少女は小さな手を叩いて応援した。 「シエロ、がんばってね! セラも、おいのりしてまってるから」 「おう、嬉しいね〜。明日の実験が成功したら、エライ人からたくさんお金がもらえるんだ。真っ先にグライダーを買うって決めてある。そしたら、セラと一緒にあの空を飛ぶぞ!」 少年が得意げに指差す先には、夏の青空が広がっていた。 「ほんと? セラものせてくれる?」 「ああ。一緒に行こう。セラは俺の大事な友達(アミーガ)だからね。俺は、友達との約束は絶対に破らない」 「うん、やくそくだよ!」 部屋の前で別れる間際、少年は少女の頬にたくさんのキスをした。 大好きな俺の友達。 悲しい時こそ、笑うんだ。 じゃないと、もっと悲しくなっちまうよ。 ……約束だぜ。 けれど少年は、2度と少女の許へは戻らなかった。 実験は失敗に終わった。 少年の精神感応能力では、“神”の情報をコントロールすることができなかったのだ。 黒い太陽のヴィジョンに心を引き裂かれ、少年は絶命した。少年の死は少女に伝えられることなく、存在ごと公式記録から抹消され、これが能力者を被験体にしての最後の実験となった。 もう、あの歌声は聞こえない。 季節は巡り、何度目かの夏を迎えた。 神研究機関からカルマ協会が独立し、祈りの歌の意味を少女が知る頃。少女もまた、太陽との対話に臨んだ。少女は唯一の成功例となった。 少女は、だんだん少年の顔を思い出せなくなっていた。少年が語った夢も、陽気な笑顔も、優しいキスも、思い出そうとすればするほど、指の隙間からこぼれ落ちる砂のように消えていく。もう2度と会えないと悟った日に、涙が枯れるまで泣いた罰なんだと、彼女は自分に言い聞かせた。 全てを忘れてしまう前に、少女は自ら作り出した箱庭の中へ、少年の記憶を写し留めた。 目を閉じれば、果てしなく広がる青い空と、眩い陽の光。 その下で、少女は祈り、歌った。 悲しい時も笑顔でいられるように。 ――あの夏の日に交わした、友達との約束を守るために。 <終> 【後記】 |