狂想曲

 シエロはゲイルの顔を覗き込み、これでよく寝られるな、と感心した。
 夜。ゲイルの部屋に来てみると、部屋の主はスツールに腰掛けたまま居眠りの真っ最中だった。
 腕を組み、上体が微妙な角度で左側に傾いているぐらいで、後はぴくりとも動かない。目を瞑って考え事をしているようにも見えた。
「疲れてんならベッドで寝りゃいいのに。でも、まぁ……いっかな」
 知らず知らず頬が弛んでしまう。シエロは改めて、眠っているゲイルをまじまじと観察した。
 微かな寝息が聞こえる。
 伏せた睫毛は思った以上に長い。
 こんな時まで、眉間にしわを寄せた難しい顔だ。
「ゲイルが笑ってるとこ、見たことないな……」
 シエロは何気なくゲイルの唇に手を伸ばした。普段吐き出す言葉の辛辣さとはうらはらに、そこは柔らかくて触り心地がいい。ヴァーユの顎門(あぎと)で獲物を喰いちぎる感触も、この口が感じているのだろうか。もう一方の手で自分の唇をなぞってみる。
 シエロの中で、奇妙な悪戯心が芽生えた。
 ここと、ここをくっつけたら、どんな感じがするだろう?
 更に顔を近づけ、ゲイルの唇に自分の唇を重ねた。
「――何をしている」
 突然、ゲイルの唇が動いた。驚いて顔を離すと、いつの間にか冷ややかな灰眼がシエロを凝視していた。
「お、お、起きてたのかよ!」
「たった今、覚醒した。飢えているのか」
 シエロは激しく首を左右に振った。胸の鼓動が痛いほど激しく響いている。
 とにかく謝ろうとしたその時。先にゲイルの口から、信じがたい言葉が投げかけられた。
「出て行け」
「あ、あのさ……ゲイル」
 理解することを頭が拒んだ。戸惑うシエロに止めを刺すように、ゲイルは更に言った。
「もうここには来るな、シエロ」

 間の悪いことに、ノックしようとドアの前に立っていたサーフは、ゲイルの部屋から飛び出してきたシエロと正面衝突する破目になった。一瞬、立ち止まったシエロと目が合ったが、シエロはすぐに顔を背け、ひどく慌てた様子で廊下の奥へと走り去ってしまった。
 続いて、部屋の奥からゲイルが悠然と現れた。
「俺に用か、サーフ」
「……シエロ、どうしたんだ」
 サーフに問われたゲイルは、シエロが去っていった廊下には目もくれず即答した。
「瑣末なことだ。それより、用件を言え」
 ゲイルの方に、これと言って変わった様子はない。
(お前にとっては、『瑣末なこと』かもしれないけどね……)
 この男ならほぼ間違いなくそう答えるとわかっていながら、サーフは頭を抱えたい心境だった。
 シエロは、泣いていたのだから。

「何でお前は、いちいち俺んとこに泣きついてきやがる」
 ヒートが肩越しに文句を飛ばすと、ベッドの上で毛布に包まっていたシエロは「えへへ」と苦笑いを浮かべた。それなりに空元気を出してはいるものの、泣き腫らした目はごまかしようがない。
「だって、兄貴はゲイルのとこだし。こんな時間にダラダラしてるような奴っつったら、ヒートしかいないじゃん」
 ヒートはわざとらしく舌打ちした。
「絡まれるこっちの身にもなってみろ。で、今日は何なんだ」
 今日こそは放っておこうと思いながら、つい条件反射的に構ってしまう自分が恨めしい。
「ゲイルに怒られた。『出て行け、もう来るな』って」
「あぁ? とうとう追い出されたってか」
 初っ端から正直に打ち明けてしまったことを軽く後悔しつつ、シエロは語気を強めて弁解した。
「寝てんのを起こしたのは悪かったと思うけどさぁ。でも、だからっていきなり『出て行け』はねーよ。ちょっと触ってみたかっただけなのに。つうか、自分だって俺のこと喰らおうとしたことあるくせに!」
「話が全く見えねぇ。何やらかしたんだか、そっから言え」
 すんなり言えるならこんなに悩まなくて済んだかもしれない。シエロはあれこれと考えあぐねた末、ベッドから下りてヒートの正面に回り込んだ。
「……1回しかやんないからな」
 そう宣言するなり訝しむヒートの赤頭を両手で挟むと、ぞんざいに引き寄せて口付けた。
「…………」
「…………」
 2人の間に暫しの沈黙が流れる。それを打ち破ったのは、額と額がぶつかる鈍い音。
「アイタッ!」
 避けようのないポジションから強烈な頭突きを食らって、シエロは額を押さえながら後退った。
「つぅッ……何すんだよ、この石頭!」
「そりゃこっちのセリフだ、バカ野郎」
 凄みを利かせて上から見下ろすヒートを、負けじとシエロも睨み返す。
「こんなの、喰らうのと全然違うじゃんか。ゲイルもヒートも何で怒るんだよ」
「そうじゃねぇ。俺が言ってんのは――その、何だ。そういうのは、“気に入った”奴にやるもんじゃねぇのか」
「だから! そう思ったから、ゲイルにやったのに。何で『出て行け』って言うんだよ!」
「チッ……俺に言うな」
 ヒートは苛立たしげに前髪をかき上げた。ゲイルが何故、シエロを拒絶する言葉を吐いたのか、その理由がわかったような気がした。
「テメェの何が悪いのか、ハッキリさせてやるよ」
 ヒートはシエロの腕を引っ張り、有無を言わさぬ勢いでアジトの外へ連れ出した。

 宵闇の中に人の気配はなく、申し訳程度の灯りが雨に濡れてムラダーラの外壁を淡く照らしていた。
 雨粒を凌げる場所でヒートはシエロを放した。「一応、邪魔されたくねぇからな」と鼻を鳴らす。
「……どうせまた、俺のことバカにするんだろ」
 シエロは掴まれていた腕を擦りながら、捨て鉢な気分でそっぽを向いた。
「よくわかってるじゃねぇか。そういうことだ」
 ヒートはシエロの顎を鷲掴んで言った。赤い眼が毒を含んで薄く嗤っている。シエロは何か言い返そうとしたが、開きかけた口はヒートの唇に塞がれた。
「うぐ……ん、ん……っ」
 差し入れられた舌先が意思を持った生き物のように口の中をなぞる。息が苦しい。
(な……んだよ、これっ……)
 シエロは本能的に切迫する不安を感じ、ヒートを押し退けようともがき暴れた。
「っはぁ……! ちょっ、やめ……ヒート!」
 相手がヒートでは力で到底敵わない。体全体で圧し掛かられ、あっという間に背後の壁に押し付けられてしまった。
「誘ったのは、テメェの方だぜ?」
 耳元でヒートが底意地悪く囁く。再び口を手で塞がれ、耳朶から首筋へと這うヒートの唇を感じた。
「ん、んぅ……っ!」
 背筋に悪寒が走った。素早くベストのジッパーを下ろされ、アンダーシャツの中を弄られる。ゲイルの手とは違う感触。粗暴で一方的で、心の中を土足で踏み躙られるような感触。それなのに、体の奥で嫌悪感とせめぎ合う熱を否定することができない。ヒートの指が胸の突起を押し潰し捏ね回すと、必死に抵抗する自分を嘲笑うかのように体が熱く痺れた。
「感じてんのかシエロ。そうだ、もっと素直になれよ」
(いやだッ、さわんなぁ……ッ!)
 首筋に噛みつかれ、昂ぶりつつあるそこをファールカップの上から膝でもどかしく責められる。翻弄されている自分がいることを知られたくなかった。悔しさと恥ずかしさで自然と涙が溢れ、口を塞いでいるヒートの手を伝って落ちた。
「それとも、呼んでみるか? テメェを切り捨てたアイツを」
(どうし、て、ヒート……やめろ、や……ッ)
 心の底の最も暗い場所で、何かが音もなく弾けた。
 ヒートの指を渾身の力で噛み砕き、シエロは掠れた声で叫んだ。
「いや……だ……けてッ。ゲイル……ゲイルッ!!」
 ヒートは横目で背後の気配を追った。ヒュッ、と虚空を切る一閃を腕でせき止めると、口の端を吊り上げて嘲った。
「ハッ……遅かったじゃねぇか、ゲイル」
 ゲイルの仕込みナイフは、寸分違わずヒートの頸を狙っていた。
「俺が来ることを見越しての行動だな。どういうつもりだ、ヒート」
 ヒートはあっさりとシエロから離れ、両手を頭の後ろで組んで振り返った。
「さぁな? お前こそ、どうなんだ。シエロにはもう会わねぇんじゃなかったのか」
「事情が変わった。前言を翻す己の愚は理解している」
「そうかい」
 ゲイルの言葉に醒め切った相槌を残して、ヒートは歩き出した。
「どこへ行く」
「白けちまったしなぁ。どこへ行こうが、お前らには関係ねぇだろ。せいぜい慰めてやるんだな」
 それっきり、暗闇の向こうに消えていった。
 2人きりになって、シエロは急にゲイルに助けを求めた自分が情けなくなった。安堵よりもゲイルに対する憤りが強く強く胸を苛む。壁に背を預け、ゲイルから隠れるように俯いていた。
「……シエロ」
「何しに、来たんだよ」
 そんな棘のある言葉に、また自分自身が傷付いている。口の中に残るヒートの血の味がひたすら悲しかった。
「お前を捜しに来た。ヒートがお前をアジトの外へ連れ出すのを見た者がいる」
「お前が『来るな』って言ったんだろ」
 ゲイルはシエロに歩み寄った。
「お前がいると、俺は俺でなくなる。お前1人に執着し、論理的な思考を失う。俺の中の衝動を抑え切れなくなる。先ほど、お前に触れられた時もそうだ。あれは、何だ。何をしていた?」
 ためらいがちなゲイルの声が、ざらついた心に上書きされていく。
「いつかお前を喰らおうとしたように、俺は俺自身の衝動に喰らい尽くされるやもしれん。ゆえに、俺はお前を遠ざけた。……だが、俺を呼ぶお前の声を聞き、所詮は俺の中からお前を消し去ることなど能わぬと悟った」
「ずるいよ、ゲイル……」
 俯いたまま、シエロはゲイルの胸に縋り付いた。
「……それは、確か『涙』とかいうものだったな。どうすれば、お前はそれを止められる」
 ゲイルは覚束ない仕草で、声を押し殺して泣くシエロの頭を撫でた。

 アジトの自室に舞い戻ったヒートを、非難めいた目をしたサーフが待っていた。掌を上に向けてヒートに差し出す。
「おかえり。……ほら、そっちの手を貸してみろ」
「うるせぇな。自分でどうにかすっから、放っとけ」
 鮮血が滴る左手をマントの下に隠し、ヒートは毒づいた。
「それにしても、ヒート。ちょっとやり過ぎじゃないのか」
「バカ言え。あれぐらいやっとかなきゃ、あの甘ったれ共は気付きゃしねぇ。……ったく、面倒掛けさせやがって」
 サーフは小さく溜息を吐いた。
(――そういうの、何て言うか知ってるか、ヒート?)
 不満は多々あるが。サーフは、今はとりあえず胸の内にしまっておくことにした。
「どうでもいいけどよ。お前、あの鉄面皮に何て言って炊き付けたんだ」
 サーフなら確実に首を突っ込み、ゲイルに行動を起こさせるだろうとヒートは読んだ。事実、サーフは業務連絡のついでにゲイルから事の次第を洗い浚い――ここぞとばかりにボス権限を発動して――聞き出していた。
「別に。ただ、『シエロに正直に言え』って。ヒートのお陰で解決して良かったと思ってるよ」
「あぁ? 茶番だ、茶番。くだらねぇ。どっかのボスが使えねぇ奴なんでな!」
 あながち冗談でもなさそうな勢いで指を差される。これ以上彼を刺激しないよう、サーフはそそくさと部屋を出た。
「善処するよ。――おやすみ」
 サーフの背後でドアが閉まる。
 ムラダーラの夜は、静かに更けていった。

<終>


【後記】
サフ&ヒト連携珍プレー→ヒト勢い余って強姦→参謀どさくさ紛れに愛の告白。あれっ、ボスが微妙に黒く……すみませんいろいろバカ過ぎました。
どうも私はシエロを逆境に追いやるのが好きなようです。いえ好きです。