ヒュ、っと空気を切り裂いて拳が繰り出される。体が小さいからと侮ってはいけない。白兵戦を経験してきた刹那は力の乗せ方、正確な急所の場所を心得ているので安易に食らうと痛い目を見る。
状況理解ができなくとも体は何よりも早く反射する。アレルヤが咄嗟に掌で拳を包み込むように受け止めると刹那の動きが怯んだ。

「あ、危ないよ刹那!」

バクバク跳ねる胸を押さえてアレルヤは叫ぶ。つい数分前まで自室のベッドの上で穏やかな時間を過ごしていたというのに、突然殴りかかられて訳が分からない。幸い、当の刹那はそれ以上暴れることはなく、しかし瞳は鋭くアレルヤを睨みつけてくる。

「アレルヤが悪い」

拗ねたように唇を尖らせ、声には失望の色が滲んでいた。ますます訳が分からない。
だって本当に突然だった。刹那の方から寄りかかってきて、その柔らかい黒髪を梳いても、ふっくらした頬を撫でても、小さな手を握っても嫌がらなかった。目元をうっすら淡く染めてすらいたのだ。だからアレルヤは唇を寄せて、冒頭に至る。

「・・・・・・そんなにキスが嫌だった?」

もしそうだとしたら立ち直れない。捉えたままの手にきゅっと力を込めると刹那の瞳が微かに揺らいだ。

「嫌じゃない」
「じゃあどうして殴ろうとしたの?」
「八時間後にミッションだ」
「・・・・・・? うん」

刹那は言葉が足りない子供だということは知っていたが、今回はいつも以上に脈絡がない。出会った当初は、彼の中で導き出された結論のみを言うものだから幾度となくティエリアに叱られていた。それが最近では、やはり最初に答えが出てくるのだけれど、その経緯をたどたどしく教えてくれるようになった。ちゃんと最後まで聞けば一本の柱に基づいた言動だと分かる。
少ない語彙のなかからこちらに伝えようと必死になるその姿のなんと愛しいことか。アレルヤは途中で遮って尋ねたくなる気持ちを抑えて次の言葉を待った。

「ミッションは万全の状態で行うべきだ」
「そうだね」
「だが、今アレルヤとセックスしたらミッションに支障をきたすかもしれない」

だから殴ったと顔色一つ変えずに言われた答えに、アレルヤは横の壁に頭を思い切りぶつけた。結構な音がして隣室にまで届いたんじゃないだろうか。刹那はアレルヤの奇行を不思議そうに見つめていた。

「ちょっと待って! どうしてキスをしたらそう繋がるの?!」

がばっと上体を立て直して復活したアレルヤは刹那の両肩を掴んだ。一体この子供はどうしてこんな恐ろしい結論に辿りついたというのか。
歳の割りに初心なアレルヤと非常に淡白な刹那だったから、いつまでたっても手をつなぐだけでしかなかった。勿論アレルヤとしてはその先を考えないでもなかったが、まだ幼い刹那の体を見るとどうしても踏み切れなかったし、同性同士だと受け入れる側がかなり痛いらしいということを調べて知ったので、そんな思いを刹那にさせたくなかった。
顔色を伺うように、刹那はアレルヤの瞳を恐る恐るを覗き込んだ。

「違うのか?」
「違うよ!」

力いっぱい否定すれば幼い顔が翳る。

「・・・・・・俺はそう教わった」

しまった、と思う。
さっきまでの無表情はどこへいったのか、しゅんとして刹那は小さく謝った。
刹那の育った環境が酷いものだと聞いていた。理解していたつもりだった。ソレスタルビーイングにきたばかりの頃は一般的とされる日常生活をまともに送れず、ロックオンが事あるごとに世話を焼いていたのを見ていたのに。
戦場の大人達は生きる術を教えず、こんな子供に何を唆した?
アレルヤは深く息を吸い込んで、手にこめる力を緩める。

「あのね刹那。僕は刹那が好きだからキスしたの、好きって言うのを伝えるためにしたんだ。せ、セックスのためにした訳じゃないよ」
「キスはセックスの合図じゃないのか?」
「そういう場合もあるけど、強制じゃないんだからね」

そもそもそれは愛があることが前提だ。こんなことが当たり前だったらアレルヤは間違いなく世界を嫌いになりそうだった。
ちゃんと伝わっただろうかと不安になる。アレルヤもまともな人生を送ってきたとはとても言えないのに、歪み切った知識を植え付けられてきた子供を果たして諭せるかどうか自信がない。

「・・・・・・じゃあ」

暫く考え込むように顔を伏せていた刹那の口が開く。

「もう、我慢しなくてもいいのか?」

何を、とはとても聞けなかった。
だからアレルヤは代わりに微笑んでやった。せめて自分といる時だけは刹那が怯えなくていいように、暖かいものを感じられるよう。
それにつられて刹那がほ、と息を吐いた。そういえばガチガチに固まっていた肩からも力が抜けている。今更ながら刹那がキスの先に待ち構えている痛みに怯えていたことを知って悲しくなった。
肩から手を下ろして、シーツを握り締めていた刹那の冷えた手の上に重ねる。

「僕は刹那が辛いことはしたくないよ。そりゃあ、そういうのに興味がないと言ったら嘘になるけどさ」
「アレルヤ」

名前を呼ばれた時にはもうお互いの睫毛が触れ合う距離だった。押し当てられた刹那の唇は少しかさついていたけれど柔らかく、アレルヤは瞬きするのも忘れて離れていく小さな顔をじっと見つめていた。
刹那は隠れるようにアレルヤの胸に飛び込んで顔を埋める。憧れた胸板の奥から響く鼓動にそっと目を閉じた。

「ずっと、こうしたかった」

消え入りそうな声がアレルヤにしがみつく。
大きな腕が刹那を包み込み、それは優しいものだと初めて知った夜だった。