岩手県立盛岡第一高等学校の応援練習について

2014/04/23 初版公開

はじめに

偏差値的には岩手県内で一番の進学校、盛岡第一高等学校
一般的には盛岡一高、さらに略して盛一、一高と呼ばれることも多い。

この学校の特色はなんといっても応援である。
校歌のメロディが軍艦マーチだったり、応援団の服装が奇抜だったり…
また、ドカベンの弁慶高校のモデルの一つとも言われている。

こう説明されたら盛岡第一高等学校はキワモノ集団、と受け取られるかもしれない。
確かに表面上はその通りであるし、私としてもキワモノ集団で収まって欲しかった。

しかし、その影にはとても21世紀とは思えない、旧時代的で過酷な応援練習が隠されている。

…いや、正確には隠されてはいない。
当事者はもちろんOBや町の人々、メディアも知っている。

だがそれでも、この応援練習を批判する者はいない。
「厳しいけどいい思い出」「最初だけだから」「社会はもっと厳しいのにこの程度で」
といった具合に、誰もが好意的に受け止めている。洗脳でもされているのだろうか。

文化という高尚な言葉を隠れ蓑にして正当化されているが、悪習は悪習。
「応援練習に耐えれません」と遺書に書かれる前に改善されることを願い、このページを作成した。


資料



説明文によると、これは盛岡第一高等学校創立120周年を記念して放送された番組の映像である。
アナウンサーの声から判断するに、おそらく放送局はIBCだろう。
内容に虚偽はないが、ソフトな部分を多く用いているため誤解しやすい。実際にはもっと過酷なことの方が大半である。
埋め込み再生ができない場合のために、YouTubeへのリンクも貼っておく。

在京白堊44会/想い出/校歌・応援歌
flashで一部の応援歌を聞くことができる。

盛岡第一高校の校歌、応援歌の数々
応援歌のmidiが全曲分ある。
実際の応援歌は太鼓のみでいわゆるブラスバンドなどの出番はないため、このような楽しげな演奏は貴重である。

コミックいわて(1巻2巻
岩手に縁のある漫画家が集まり、岩手をネタにした漫画である。
この中の、地下沢中也氏による「バンカラの恋」という作品が盛岡第一高等学校の応援団をネタにしている。
ギャグマンガなので信憑性を求めてはいけないが、応援団の特殊な雰囲気を知るには手っ取り早いだろう。


予備知識

話を始める前に、まず予備知識として応援団について説明する。
長くなるので、面倒なら次の写真が出てくるところまで読み飛ばしても構わない。
以下にwikipediaによる解説を引用する。

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バンカラの應援團があり、全校生徒による選挙で選出された應援委員が中心となる。
同校では生徒全員を「應援團(応援団)」と位置づけ、その中核を「應援委員」、
全校應援練習の場で新入生の指導にあたる三年生の有志を「團有志」、
クラスで新入生の指導にあたる二年生の有志を「指導有志」と定義している。
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概要としてはこれでよいが、補足する。

まず部活動・委員会の1つに応援委員が存在している。これは20名弱程度で構成されている。
この中のうち3名程度が応援団長などの役職につき、残りはフラットな委員となる。
この役職についている数名は後述するように服装が大きく異なるため、
よく「団の人」などと区別して呼ばれる。(この文章でもそう表記する)
なお応援委員は委員会なので、応援練習だけではなく部活動の応援などの活動も当然ある。

この人数で全体での応援練習を行うわけだが、1学年で8×40=320人もいるのに対して応援団はこれしかいない。
この人数比では個々への指導が行き届かないので、臨時採用を行う。
まず3年生から募る団有志。こちらは応援練習中に声量を確認する見回りを担当する。
そしてもう1つが2年生から募る指導有志。こちらは1年生の各クラスに2名が配属される。
体育館で全体での応援練習があるときは点呼・移動の指示を行い、
クラスごとで応援練習をするときは応援委員・団有志の代わりとなる。

彼らは一般生徒と服装が異なる。
制服は変わらないが、腰に応援団特製の手ぬぐいをつけ、男性は学生帽を着用している。
さらに屋外では下駄を、室内では雪駄を履いている。
「団の人」はさらに別格であり、制服が異なる。
正式名称は知らないが、例えるなら弓道着のような感じである。

百聞は一見にしかず。この写真(朝日新聞社より転載)を見ていただきたい。

これは黒沢尻北高等学校の応援団だが、盛岡第一高等学校とスタイルがほぼ同じなのでこれで説明する。
最前面と左後方にいる2人がいわゆる「団の人」。左側の学ランを着ているのが応援委員。
そして残りの白いワイシャツ姿のが一般生徒である。

もう一度言うが、「団の人」はさらに別格であり、制服が異なる。

…そう、彼らにとってはこれが制服なのである。

この格好で学校生活を送るのだ。さらに学校外、登下校時もこの格好である。
金髪・ピアス・ボタン開けすぎに対し教員は指導を行うことがある。これは私も同意である。
しかし、一番風紀を乱しているこの格好はスルーである。黙認ではなく公認されている。
予備知識無しでこの学校を訪れた者はぎょっとすることだろう。


生徒の名誉のために早めに書いておくが、全員普段は普通の人間である。
春の応援練習の期間、かつ1年生と接するときだけこの人格を演じているのだ。


実際の様子

ここからは、実際の様子を説明していく。
思い出したくもないことのため、記憶が曖昧なところも多い。
細かい部分が間違っているかもしれないが、大きく事実と異なることは書いていないはずである。

初日

まず新入生は最初の登校時に、書類の手続きやガイダンスを行う。
これ自体は至って普通である。しいて言えば学生帽を買わさせられたぐらいである。
しかし、この日のタイムスケジュールの一番最後に応援団とのご対面が組まれている。
各クラス教室待機という指示なのでおとなしく自分の席で待つ1年生。
すると、教室に指導有志が入室、いや乱入する。

身震いがするほど凄まじい音に威圧される。
大声での「オス!」という挨拶、それと全力で開けられたドアと壁の衝突音だ。

ある程度は事前に噂が流れているが、所詮文章での伝達である。
見て聞いて感じた結果、それは予想以上に乱暴なものであった。
戸惑う我々に対し、教壇の真ん中に達した指導有志はまずこう言った。

「返事をしろ!」

なおこのとき我々は先ほどの怒声が挨拶であることを教わっていない。
一瞬で理解して返事をするものの、「声が小せえ!」「間髪を入れるな!」などの理由でやり直すことになる。
何度も入室からやり直した後、次にドスの利いた声で様々なことを話し始める。
挨拶は「オス」で返事は「イス」だということや、応援団のヒエラルキーについて教わる。
ヒエラルキーというのはピラミッド型の図の上から順に応援団、有志、一般生徒というものだ。
なおこのとき「お前らはここだ!」とピラミッドの底辺を叩きながら言われる。些細なことでも威圧は忘れない。
なお、記憶が定かではないが、ここまでのどこかで教壇が一度蹴られていた。
そして最後に、このあと「団の人」達が教室に来るにあたっての注意をされた。
大きく2つの通達があり、1つは「目を開けるな」、もう1つは「返事をしろ」というものであった。
ただし後者については「何言ってるか聞こえなくてもとりあえず返事をしろ」と付け足された。
要するに最悪目を閉じてイスと連呼しておけばよい、ということだ。

指示通り目を閉じて待機していると、他のクラスから聞こえてくる乱暴にドアを開く音。そして5分ほど続く大声。
これから自分たちに起こる事態を想像し、恐怖で心臓に負荷がかかる。
そしていよいよその時を迎えてしまう。やはりドアを強烈に開けて何者かが怒鳴り込んできた。
そして通達の通り、彼らはよく分からないが何か大声で言い始めた。
目を閉じたままひたすら返事を連呼する。「イス!」「イス!」「イス!」「イス!」…
すると突然目の近くに何かが当たり、痛みを感じる。(後から分かったことだが、これは竹刀の小さな破片であった)
うっすら目を開けると団長は教壇で叫び続け、団員は一人一人のもとに行き見回りをしていた。
そしてこの見回りの際、威圧のため竹刀で机を叩いていたのだ。

大音量の中目を閉じて返事を繰り返すこと5分。
もう一度ドアの音が鳴り響く。彼らが次の教室へと移動したのだ。

・・・これが初日である。今日から高校生だ!などと浮かれていられるのも数時間だけ。
最初から一気に攻めることで強引に受け入れさせられるのだ。
まるで動物か奴隷である。

応援練習

指導有志のもと各教室で行うものと、1年生全員が体育館に集合して行うものがある。
ほぼ毎日放課後に行われるが、朝にも行うことが多い。
私はこの応援練習によって相当精神的に追い詰められた。
体育館への移動も普通ではない。裸足になり、廊下を走って移動する。不衛生である。
そして移動する先は、照明を落としカーテンを閉めた暗い体育館。
団の人が前方の台に上がり、挨拶をした後に応援練習が開始される。
純粋に1〜2時間大声を出し続けることも大変だったが、一種のカラオケと考えればそこまで過酷ではなかった。
それよりも特に辛かったのが、見回りである。
見回りとは、団有志や指導有志が一人一人巡回し、声量や歌詞を確認する行為のことである。

ここで声が足りないと判断されると、「発声!」と指示される。
こうなってしまうと、ただひたすら相手が満足するまで大声を出すことになる。
彼らには個人差というものは通用しない。ただ一定のデシベルに達しているかだけが判断基準なのだ。
大声が出せる人はいいが、貧弱な私は「声が小せえ!」と怒鳴られ、何度も叫ぶことになってしまう。
すると喉がやられて声が出なくなり、その後別の有志から頻繁に発声をさせられるという負のループに陥る。

歌詞があやふやだったり間違えたりすると「〇〇応援歌、歌詞」とまたもドスの利いた声で歌詞を尋ねられる。
言われた側は歌詞を正確かつスラスラと言わなければならない。
肝心なのは歌えるかどうかではなく、文章として頭に入っているかである。
しかし、疲れているということに加えて失敗したときのプレッシャーがあるので、そう簡単にはいかない。
途中で3秒でも止まろうものなら「早く言え!」と怒鳴られ、萎縮と焦りで声が震える。
こうなってしまうともうおしまいである。正常な精神状態なら言える歌詞も、出てこなくなってしまう。
「言えないのか!」「覚えてこいって言っただろ!」
腕を引っ張られ、体育館の端の若干明るい場所に連行される。
そこで正座で歌集を読み、歌詞を自習することになる。あまり長くいるとまたも怒鳴られる。
その姿は、近くにいる生徒には惨めな晒し者として映っていたことだろう。

これが3週間、毎日のように続くのである。
苦痛以外の何物でもない。

最終日

最終日も当然、いつものように過酷な応援練習を行う。
しかし、応援練習の最後に、彼らは我々を祝福する。

「おめでとう!」「よく耐え抜いた!」「お前たちは真の一高生だ!」

そして(裸足で)教室へと戻ると指導有志が優しい先輩に変身しており、笑顔でお茶とお菓子を配りだす。
机と椅子を後方に寄せ、皆で地べたに座って和やかに話をする。
試練を乗り越えた者達によるちょっとしたパーティが始まるのだった。

まとめ

アメとムチ、吊り橋効果を巧みに活用している。人心掌握術の実験としては大成功と言えるだろう。
だが、やっていることは宗教の洗脳と同じである。


欠席

応援練習を休むことは基本的に許可されていない。
宗教上の理由と保健室(病人)以外は全員参加である。
多少具合が悪いときは移動時に走らなくてもよくなるが、結局参加である。

仮病という選択肢も確かに存在する。そしてそれを選ぶ人も確かにいる。
毎年春の放課後だけ病人が急増するのだ。保健室もそれを理解していることだろう。
ただ、クラスメイトから逃げたと思われるのが嫌で休めない人の存在を忘れてはいけない。
一気飲みを断れない新人と同じである。

休んだところで、根本的な解決には至らない。
常態化した仮病はストライキと同じではないだろうか。


反論への反論

この程度で危険(笑)社会はもっと厳しいんだぜ、お前が甘いだけだ…
そういう考えを持つことは別に自由だが、私には受け入れ難い。
ここで、あるブログの記事を引用する。

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「新人研修では〜(略)〜独自の社訓を30秒で唱えることをはじめとして、早口言葉をひたすらに行う試験が基本となっている。
そこで早口言葉を失敗したものは、その人格を完全に否定される。心が折れるまで精神的暴力を振るわれ続けるのだ。
完全否定され精神的にボロボロになりながらも、やっとの想いで試験を突破すると、最上級の祝福を受ける。
他の内定者や鬼教官たちから笑顔で拍手を浴びせてくれるのだ。」
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これはある企業の新人研修についての話である。
盛岡第一高等学校の応援練習は、これに近いことを行なっている。

「早口言葉をひたすらに行う試験」として歌詞をつっかえずに暗唱させる。
「早口言葉を失敗したもの」は人格否定こそされないが、怒鳴られ、正座で歌集を読まさせられる。
「精神的にボロボロになりながらも、やっとの想いで試験を突破すると、最上級の祝福を受ける。」
「鬼教官たちから笑顔で拍手を浴びせてくれるのだ。」
この2つは元の文章そのままである。

この記事の終わりが「人間的に成長できる、素晴らしい研修ですね」と締められているのであれば、
盛岡第一高等学校の応援練習もこの企業と同様に素晴らしい、と評価することができるだろう。
では、この記事の次の一文を見てみよう。

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「そこで這い上がった内定者は感動の涙を流すという。まさに典型的な洗脳イベントだ。
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…何も言うまい。

この件について覚えている人もいると思ったためあえて伏せたが、この記事のタイトルはこれだ。
くら寿司の暗い闇が明るみに!?ブラック企業の"人を人と想わぬ企業努力"とは!!
盛岡第一高等学校の応援練習はブラック企業と言われた新人研修と同等である、と気づいてほしかったのだ。

くら寿司の場合、この対象となるのは新入社員、実質的には大学4年生+数ヶ月だ。
盛岡第一高等学校の場合この対象となるのは高校1年生、実質的には中学3年生+数ヶ月だ。
大人に対してこの研修を行ったくら寿司は、世間から批判された。
それでは、子供に対してくら寿司と同等の行為を行っている盛岡第一高等学校が、批判されないことがあるだろうか?

もしこれを疑問と読み取るようなら、古典の追試を受けた方がいいだろう。


体罰

ここまでの文章を読んで気づいただろうか。
肉体への直接的体罰は行われていない
殴る蹴るはもちろん、触ってくることもあまりない。
練習中に歌詞が言えず正座で歌集を読むためのスペースに連行されるときは引っ張られるが、その程度である。
また、自分の場合は竹刀の小さな破片が目の近くを直撃しているが、これも偶然であり直接的体罰にはあたらない。

だが、鋭い方はお気づきだと思うが、体罰とは直接的な暴力行為に限定されるものではない。
以下に時事ドットコムの5月27日の記事(リンク切れ)を引用する。

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学校の運動部活動の指導方法について検討してきた文部科学省の有識者会議は27日、
指導名目の体罰を防ぐためのガイドラインを策定した。体罰に当たる事例として、
「長時間にわたる無意味な正座」や「水を飲ませず長時間ランニングさせる」などを例示している。
〜(略)〜体罰に当たる行為として、殴る蹴るやパワーハラスメントに当たる発言のほかに、
限度を超えて肉体的、精神的負荷を課すことなどを列挙。
正座やランニングに加えて「受け身ができないように投げる」などを例示し、
「指導者と生徒との間で信頼関係があれば許されるとの認識は誤り」と指摘した。
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これは運動部への適用がメインだが、もしこの応援練習が運動部で行われていたらどうだろうか。
正座は確かに長時間でも無意味でもない。グレーゾーンとして扱う可能性はある。
しかし、精神的負荷は限度を超えている。絶対に。

完全に余談だが、私は廊下を移動する際に挨拶が足りなかったと判断されたのか、
普通の上級生から「そこに正座して返事の練習をしてろ!」と階段付近で正座させられたことがある。
この階段の位置がまた絶妙で、下級生の移動を待つ上級生たちの列から視線が飛んでくるのだ。
そんな位置で正座で「イス!」と繰り返す人間。はっきり言って晒し者である。
最終的には、最後に移動したクラスを担当していた指導有志から「何をしている!早く来い!」と言われ移動した。
これは慣習の類ではなかったようであり、おそらくあの上級生の独断だったと考えている。
応援団の制度を悪用されただけなので応援団自体は悪くないが、こちらとしては非常に嫌な思い出である。
…これは先ほどのガイドラインに該当するのではないだろうか。


変わらない、変えられない

もしこの応援練習を大幅に変えようと校長が提案したしても、まず生徒から反対意見が出る。
2・3年生はこれに耐えて虐める側となれたのだから、不公平に感じるだろう。体育会系の部活と同じである。
仮に1年生が生徒総会に持ち込んだところで、過半数どころか3分の2が反対票となる。

そして反対するのは在校生だけではない。
多くのOB達も伝統文化という言葉を盾に反対することが予想される。

私が在籍していた頃、かつて正座によって骨折した生徒がいたという噂が出回っていた。
事実確認は取れていないが、これが本当なら骨折程度の被害には応援練習を変える力はないということだ。
骨折ではないが熱中症は実際に発生した。暑い日に体育館で数時間連続でやるのだから当然ではあるのだが。
これは対策が取られており、暑い日は応援練習前に水を飲むことを推奨させ、体育館の足元の窓が開かれる。
しかし、この対策の元で被害者が出ていたのだ。はっきり言って不十分である。
ハインリッヒの法則によると、1件の大事故の裏には29件の軽微な事故があるらしい。
私のときは熱中症という軽微な事故が5件ほど発生していたので、そろそろ大事故が起こっていることだろう。

悪事でも長いことやっているとそれが普通だ、先輩もやっていた、と主張する人間が必ず出てくる。
人道的観点や正義感という言葉だけでは、これらの反対意見を押しのけるには不十分なのだ。
ならば言葉だけではなく、事件となれば。それも、人命に関わる。
この病はそうでもしないと治らない。もっとも、それでも治らないかもしれないが・・・

それは考え過ぎだ、と思う人もいるかもしれない。
もちろん彼らも人間である。一般常識のもと、異常であることは認識していることだろう。
しかしこのような結論に至ってしまったのは、似たような前例があるためである。
ここでその前例、「猛者踊り」騒動について触れることにする。

上で述べたが、1年生の男子は体育祭で「猛者踊り」という踊りを行う。
猛者と言うとかっこ良く聞こえるが、もともと20年前までは「土人踊り」という名称であった。
このような差別用語を公立高校が用いるのは避けなければならないため、改称したのである。
当然の話なのでこれにプラスの評価を下すことはしないが、マイナスの評価はできないだろう。
ところがこのたった2文字変えるだけで済む単純な話、経緯は複雑であった。
当時在籍していたと思われる人物による土人踊りは今,どうなっているのかという記事があるので、その道のりを引用する。

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昭和63年。生徒総会の「その他のコーナー」で土人踊りが問題になる。その年は,土神踊りとしてそのまま続けられる。
平成元年〜3年。毎年のように問題として学校内で取り上げ,大論争となり,果ては地元新聞にまで載るが,踊りはそのままで続く。
平成4年。とうとう「AERA」にまで取り上げられる。投票の結果,踊りは続く。
平成5年。なんと,「News23」が放送。いろいろあって「土人踊り」→「猛者踊り」となって,黒以外の色を塗ることになる。
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「土人はヤバいらしいから猛者って呼ぼう」そんな程度の問題に思えるが、そんな程度ではなかった。
結局、この問題が最初に出てから猛者に変更されるまでに、5年もかかっている。
AERAやNHKのニュースによって全国の一般人の目に晒されることで、やっと変更したのだ。
全国レベルで問題視されない限り、動かない。彼らに「常識的に考えて」という言葉は通用しないのである。

この事実を踏まえ、応援練習について考えるとどうだろうか。
個人が真っ当に抗議しても解決するとは思えない、と理解していただけるだろうか。

さらに加えると、盛岡第一高等学校は2006年の高等学校必履修科目未履修問題に引っかかっている。
そのうえ、推薦入試の際に大学へ提出する調査書には、未履修だった科目の評定に履修した科目の評定を流用(=捏造)している。
悪事に対する自浄作用が働かないという事実は1つだけではない。

少し話がそれるが、この全員参加の「猛者踊り」は、練習の時点で本番までモヒカン等の変な髪型にすることを強要される。
任意ということにはなっているが、拒否するのは年に1人いるかどうかである。実質的には全員強制である。
さらに、この髪型は本番まで他人に見せてはいけない決まりになっている。(笑われるだけなので見せたくもないが)
そのため、教室の半数以上を占める男子生徒は全員手ぬぐいで頭部を覆って授業を受けることになる。
登下校だろうと家の中だろうと隠すので、盛岡市内では春から夏にかけて手ぬぐいで頭部を覆った学生を見ることができる。
盛岡第一高等学校の卒業生である達増拓也岩手県知事はこれを観光資源として売りだしてみてはどうだろうか。


改善案

批判するだけでは建設的ではない。改善ではなく維持することに頭を使っている彼らのためにも、改善案を示す。

応援団を解体する。

一番雑なやり方であり、賢くない。バンカラを文化として保護したい人々から猛反発されることは確定的である。
だがこの方法なら、悪しき過去を完全に捨て、盛岡第一高等学校は新しく生まれ変わることができるはずだ。
世間へのアピールをするならこれが最も効く。全国レベルで問題視されたときは選択肢に入れてもよいだろう。
ただし、「公式には解体したが、有志が独自に応援練習をさせている」という抜け道には注意しなければならない。
形だけではなく、実質的にどうなったかが大切である。

応援練習を禁止する。

これも乱暴な手段である。
岩手県は全体的に応援という行為が根付いているため、内容はともかく応援練習というもの自体を禁止することは難しい。
もしこの手段を選ぶことができたら、かなりの英断である。
選ばざるをえなくなったのではなく、選んだのであれば。

応援練習の際は、通常の体育の授業と同様にカーテンを閉めず照明をつける。

さらに追加で夏は窓を全て開き、水筒の持ち込みを許可するとなおよいだろう。
熱中症や体調不良といった肉体的不調は確実に減る。
ただしこれは環境の改善であり、体罰的行為の改善には繋がらないことは忘れてはいけない。

不条理な威圧的行為を禁止し、対等に接して応援練習を行う。

鬼教官のような人格を演じることにメリットはあるのだろうか?
役者志望なら演技の練習になるかもしれないが、そうでなければ人格を歪めるだけの行為に見える。
優しくしろとは言わない。せめて普通の上級生と新入生の立場にさせてほしい。
それがお互いのためである。

入試の項目に「声量」と「歌詞の暗記力」を追加する。

声が小さい人間は、真っ先に見回りの対象とされる。そして怒鳴られ、場合によっては連行され、正座させられる。
こんなことをされれば、精神にダメージを負うことは確実だろう。死にたくもなる。
ところが、声が出ていて歌詞もそれなりに覚えられる人間は、見回りに引っかかることはまずない。
そのような人間にとっては、応援練習を苦痛だと感じることはあまりない。つまり、問題視されないのだ。

すなわち、応援練習にクレームをつけるのは声が小さい体格的不適合者だけなのである。
そうなれば後は簡単。求められるレベルに達していない体格的不適合者を入学させなければよいのだ。
内容が社会的にどうかなど知ったことではない。それを容認できる人間だけで行う分には問題はなかろう。

…我ながらバカバカしい。これを選ぶなら「盛岡第一応援専門学校」に改称するのが先だ。


終わりに

この言葉は一般化してしまったため軽く受け止められがちだが、本来の意味で捉えて欲しい。

トラウマになる行為を組織ぐるみで行っている。

上でも述べたが、私はこの応援練習によって相当精神的に追い詰められた。
このままではこれからも毎年320人がこんな目に合わされる。
その中には苦に思わない人間ももちろんいる。だが、私以上に苦痛に感じる人間ももちろんいる。
自分1人が飛び降りるだけで多くの人が救われるのであれば…。
家に帰って自室に篭っては、毎日のようにこんなことを考えた。
人命に関わる事態になればさすがに変わることができると思ったのだ。
嫌なら退学しろという意見もあるが、それは自分にとっても、今後の入学者にとっても無意味である。

私は在校生に「応援練習止めさせたいから遺書書いて死ね」というつもりは全くない。
ここで死ぬのは大富豪で7にジョーカーを使うようなものだ。あまりにもったいない。
だが、これからの人生で8以上が出るという保証もない。実は今が使いどきなのかもしれない。
切り札を使うタイミングは各々の自由である。

今のところ自殺者が出たという話は聞いていないため、どうやら私だけが非常に精神的に弱かったようだ。
しかしいつの日か、私より精神的に弱い人が入学するかもしれない。
それがいつになるかは分からない。来年かもしれないし、一生来ないかもしれない。
ただ1つ確実なことは、犠牲者が出てから対応を打ったのでは遅いということだ。

なお、応援団がこのような格好をしている高校というのは盛岡第一高等学校だけではない。
上で用いた写真の黒沢尻北高等学校もそうだが、他にも岩手県内に奇妙な応援団が複数存在している。
実際に体験していないので分からないが、もし盛岡第一高等学校と同様の行為を行なっているのであればとても残念である。