*ちゃぴ 07*
5限の途中、ポケットの中で携帯が震えた。
メールはちゃぴからで、授業が終わったら教室にいてほしいということが書かれてあった。
私はメールに目を通してから一度、黒板に視線を戻す。
少しだけ黒板に書き足された古典の文法を何食わぬ顔でノートに写して、それからまた携帯に視線を戻した。
こうやって適度にやっていれば授業中に携帯を触っているということが先生にバレないということは、入学してすぐに学んだことの一つだ。
わかったと返事をして、私は大人しく携帯をポケットにしまいこんだ。
今隣のクラスで授業を受けているちゃぴは、どんな気持ちなんだろうか。
そもそも何の授業なのかも私は把握していないけれど、それを一人考えるだけで少し楽しい気分になった。
きっとちゃぴは何でも要領よくこなしてしまうんだろうな。
勉強もスポーツも、対人関係だってちゃぴは私の上を行くに違いない。
私には何もないな、何もしてあげられないし何も持っていない。
ちゃぴはいつもこうして、私にいろんなものをくれるのに。
友達に別れを告げて、私は一人教室に残った。
日直も仕事を終え教室を去り、談笑していた女子もいつの間にかいなくなっていた。
完全に教室には私一人。
まだ太陽は沈んでおらず、教室から見えるグラウンドでは陸上部が懸命に走っていた。
私は上からそれをただ見つめるだけ。
時折頑張れという言葉が私の口から出た。
長距離を走っているのだろうか、苦しそうに顔を歪めながら走る陸上部の選手を見ていると、応援しないわけにはいかなかった。
テニス部以外の運動部だって、もちろん立海は強い。
それぞれ部活として背負うものがあり、学校だとか先輩後輩の思いだとかそういうものがたくさん、彼らの背中にのしかかっているように思えた。
この距離感、私とちゃぴみたいだ。
上から見つめて応援の言葉を送るちゃぴ、一生懸命息を切らしながら足を進める私。
応援と言う名の贈り物をしてくれる彼、受け取ることしかできない私。
陸上競技にはゴールがあるけれど、私のそれにはゴールなんてない。
いつまで続くかわからない長い長い道のりを思い、私は顔を歪め、思い切り落胆する。
私はこんなことをいつまで続けるつもりなんだろう。
とっくに自分でも、何かがおかしいということに気がついているはずだった。
「おー、おりこうさんやのう」
ガラガラという音と共に教室に入ってきたのはちゃぴだった。
肩にはテニスバッグをかけている。
普段見かけるちゃぴは手ぶらな確立が高いので、そんな姿がとても新鮮に感じた。
「待ってるくらいできるもん!」
「わかっとるわかっとる」
「そうやってまた子供扱いして……」
「すまんのう」
ぐりぐりと頭を押さえつけられても、私はただちゃぴを睨むことしかできなかった。
ちゃぴはどんな女性に対しても、こうして頭をぐりぐりとするんだろうか。
優しく髪の毛に触れて、壊れ物を触るような手つきで女性を撫でることがあるんだろうか。
見たこともない場面を想像して私は少しだけ泣きたくなった。
どうしてこんなところでみっともない独占欲が出てきてしまうんだろう。
ちゃぴはいつだって私の味方で、私と一緒にいてくれて、私の友達で……そう「ちゃぴ」はいつもそうだった。
目の前でへらへらしながら机に座っているちゃぴを見つめてみる。
あり得るはずのない答えを、しかし一番現実的な可能性を私の脳みそは否定した。
「こんな時間に教室で会うなんて、あの変装のとき以来かな?」
「あの後結局、赤也がうっかり副部長に口を滑らせてしまってのう。まあ証拠不十分でお咎めなしじゃったが」
「また面倒なことになったね……」
「だからしばらくは大人しくしとる必要があったぜよ。副部長がこの件について忘れるまで、俺は真面目くんを装っていたナリ」
振り向いたちゃぴはどこから取り出したのか、ふちのない眼鏡をかけていた。
柳生くんがするようにして中指で軽く眼鏡を押し上げる。
それと同時に顔をぐっと近づけてきて、ニコリと笑った。
「副部長さんが忘れるまでずっと眼鏡をかけてたの?」
「まさか」
私が尋ねると、ちゃぴはつまらなさそうに眼鏡を外して胸ポケットにしまった。
「で、まあこんな話はどうでもいいんじゃ」
ちゃぴは机から降りて、テニスバッグを担いだ。
私も自分の鞄を肩に担いで教室を出る準備をする。
テニスコートまでは一緒させてもらおう。
「、これからどこか行きたい所はないんか?」
「行きたいところ?」
動こうとしないちゃぴに疑問を感じながらも、私はこれから行きたい所を考えた。
お金がないから買い物に行く気にはなれないし、用事もないから絶対に行かなければいけないところもない。
あえて言うなら本屋に寄ってもいいかなと思うくらいだった。
以上の点を踏まえて、私がちゃぴに出した答えは「特にない」だった。
するとちゃぴは少し拗ねたような表情になる。
「は夢がないのう」
「夢がないって……だって学校の帰りだよ?」
「せっかく俺の部活が休みで、しかも放課後フリーだったとしても同じことを言うんか?」
じりじりといつの間にか迫ってきていたちゃぴと机の間に挟まれ、私は身動きができない状態になっていた。
ちゃぴの手が私の頬にゆっくりと伸ばされて私の右頬を静かに優しく掴む。
つねると言うには優しすぎて、頬に触れると言うには暴力的すぎる、そんな行為だった。
ちゃぴが至近距離なことに戸惑いながらも、私はすぐに頭を振る。
「ちゃぴ今日は部活ないの?」
「あったら副部長からとっくに怒鳴られとる」
ちゃぴはクスクス笑いながら言った。
「だから、これから俺と放課後デートするぜよ」
少ししゃがんで目線を合わせつつ、両手はしっかりとちゃぴに握られていた。
男の子からデートのお誘いなんてもらったことのない私は、きっと耳まで赤くなっていただろう。
ちゃぴは少しだけ首を傾げながら小さな声で返事は?と私に聞いてきた。
答えなんて例え予定があろうとも決まっている。
数ある遊びの誘いの候補を断って私との時間を作ってくれたのだと思うと、それだけで自分の顔がニヤけるのがわかった。
「行く……行きます!」
「決まりじゃな」
ちゃぴが肩のテニスバッグを掛けなおす。
そして私に手を差し出して微笑んだ。
私はおずおずと手を出して、それからちゃぴの手を握る。
窓の外ではさっきの陸上部員が走り終わって水を飲んでいるところだった。
* * *
「さて、出てきたのはいいんじゃが」
「どこに行くの?ねえ、放課後デートってどこで何するの?」
うーんと唸りながらちゃぴは何か考えている。
こんな質問をされたらテンションが下がってしまうだろうか。
ちゃぴのことを何も考えず質問してしまったことに頭を抱えたくなった。
「ほー、は初めてか?」
「うんっ、女の子とは放課後遊んだりするけどね、男の子は初めて」
「男の子……」
ちゃぴは小さな声で呟いてからじっと私を見つめた。
また何かおかしなことでも言ってしまったのかと、私は内心ヒヤヒヤだ。
でもそんな私の思いとは反対にちゃぴは笑顔で、よしよしと頭を撫でられた。
学校でされたぐりぐりと違って、少し驚く。
「行きたい所、思いつかん?」
「……あのね、一つだけ思い出した」
「じゃあそこにするナリ。本当は俺が連れて行くのが筋じゃが、今回はに道案内頼もうかのう」
「任せて!」
ちゃぴの優しい手で触れられているといろんなことを思い出す。
私の行きたい所は、そんな思い出の詰まった場所の一つだ。
ちゃぴに提案してから私は自分の家の方向に向かって歩き始めた。
場所が学校外なだけで、話すことも歩くスピードもいつもと変わらない私たち。
こんな時間がいつまでも、ずっとずっと続けばいいなんてのは私の我侭でしかない。
「ここだよ」
「ここは……」
「私の家の近所の公園。ほら、昔よく「ちゃぴ」と遊んだから……」
この公園には最低限の遊具しかなくて、お世辞にも大きな公園だとは言えない。
それでも「ちゃぴ」と私はここがお気に入りの場所だった。
大きな公園ではないから人が少ないということもあるけれど、まだ幼かった私にとってはこの規模で十分だったし、それに全てが自分よりもずっと大きく思えてそれだけでわくわくする場所だった。
「今でも来ることがあるんか?」
ちゃぴの問いかけに私は首を横に振った。
「ちゃぴ」が死んでから1度だけこの公園に来たことがあるだけで、それ以来ここに来たことはない。
その1度きりは「ちゃぴ」がここにいるのではないかと、淡い期待を込めて来たときだった。
そのときに「ちゃぴ」の姿を見つけることができなくて、それ以来私はここに来るのが怖くなった。
思い出の場所なのに、大好きな場所なのに。
ここにいるだけで、目の前の遊具の間を「ちゃぴ」が走り回っている様子が目に浮かぶ。
「あれ、おかしい、な……全然悲しくなんてないのに」
「」
「なんで涙が、出る、んだろ……」
目の前を「ちゃぴ」が走って行った。
どうしてまた出てくるの。
今私の横に「ちゃぴ」はいるはずなのに、どうして私にはここで遊んでいる「ちゃぴ」が見えるの。
「いい思い出を悲しい思い出にすることはないぜよ」
「……うん」
「これからまたここで、楽しい思い出を作ればいい」
「そうだね」
「今日はその一歩じゃ」
ちゃぴに抱き寄せられてそのままちゃぴの胸に顔をくっつけたまま、私は泣いた。
私が泣いている間、ちゃぴは黙って私の頭を撫で続ける。
ちゃぴから聞こえる心臓の音がとても心地良かった。
しばらくして公園を見渡すと、どこにも「ちゃぴ」の姿はなかった。
「……?「ちゃぴ」?」
「何じゃ?」
「ううん、何でもないよ……」
小さなグラウンドに向かって投げかけた言葉の答えは私の右隣から返ってきた。
ちゃぴは不思議そうな顔をしたけど何も言ってはこなかった。
ちゃぴのしたことは間違いではない、だって私が名前を呼んだから。
そう、だって彼は「ちゃぴ」なんだから……?
「すまんのう、泣かせるつもりはなかったんじゃ」
「わかってるよ、だってここに来たいって言ったのは私だし」
ここに来たいと提案したのは私だから本当にちゃぴは悪くない。
今思えばどうしてここを選んだのか自分でも疑問に思うけれど、どうしてもちゃぴと一緒にここに来たかった。
ここでちゃぴと思い出を作りたかったし、「ちゃぴ」の話を聞いて欲しかった。
ちゃぴも言ったように、私は今日からまた新しい一歩を踏み出したんだ。
ちゃぴと作る新しい思い出、きっともう「ちゃぴ」の姿は見えなくなるだろう。
「さすがにこの歳で公園で追いかけっこはキツいかな」
「近所の人に怪しまれるかもしれんのう」
「女の子が男の子に追い回されてますって?」
「そいつは御免じゃ」
ちゃぴの答えに私は噴出してしまった。
まるでそれじゃあちゃぴが変質者みたいだ。
私はこの公園の目玉とも言えるブランコに乗り、久しぶりにブランコをこいでみることにした。
「今日は一緒に来てくれてありがとう」
「構わんよ。俺こそ、放課後デートしようとか言っておいて何も考えとらんくてすまんかった」
「ううん、ちゃぴのおかげでこの公園がいい思い出の場所になったよ」
「ならよかった」
「今度はお弁当もって来ようね」
ここにテニスコートがあったらよかったのに。
そうしたらちゃぴとテニスをするんだけどな。
私の横のブランコに座るちゃぴの髪の毛が夕日に染まる。
きらきら光りながら揺れるそれは、本当に「ちゃぴ」の尻尾みたいだった。
「ちゃぴ」は尻尾を触られるとすぐに方向転換して、私に澄ました顔をしてきた。
ちゃぴの尻尾にも触ってみたいな、どうなってしまうんだろう。
この関係がまた変化してしまう気がして、それだけはどうしてもできなかった。
思い出の行方
(本当はあなたに触れていたいの)
あとがき
楽しく放課後デートさせたかったのがこんな展開に。
ヒロインはなんだかんだで常識人です。
2012.01.28