本当に自分でも困っている。

人を翻弄する立場から翻弄される立場へ、はどうしてそんなすごいことを俺に仕掛けることができるのか。

でもこの感覚は初めての感覚ではなくて、だからこそ俺はに対してどうするべきなのか迷った。

以前も味わったこの感覚、じわじわと他人に浸食されていく感覚、これを心地いいと感じたら終わりだ。



*ちゃぴ 10*



俺は人に愛されもしないしもう人を愛せもしないんだと、彩の件でそういう感情を飲み込んだつもりでいた。

あの女、今は何をしているんだろうか。

こうして時々彩のことを考える自分に腹が立つし馬鹿だと思う。

どうしてあの時本気になってしまったのか、自分を責めたい。

そしてまた本気になるのが怖い。に対して、本気になるのが。

素で接してくれるが、それが例え「ちゃぴ」に対する感情であったとしてもそれを受け入れることが今や当たり前になってしまっている。

俺は愚かで馬鹿な男じゃ。










いつもより早めに部活に来てベンチを陣取った。

携帯電話を取出しバッテリー部分のカバーを外す。

そこに今朝まで貼ってあったあの女と撮ったプリクラのことを思い出して、なんとも言えない感情に浸った。

もちろんあれは捨てられて当然のものだ、そもそも忘れてあのままにしていたことすら笑える。

あれでよかったんだと俺は自分に言い聞かせた。


バッテリー部分のカバーを再びはめたところで、柳生が部室に入ってきた。

絶対に顔には出さないが、多少なりとも今朝の出来事は引きずっている。もちろん、お互いに気まずいはずだ。



「お疲れさん」

「お疲れさまです」


柳生は必要以上にベラベラ話すほうではないから、沈黙なんていつものことだし何とも思わない。

なのにも関わらず今何か話すネタを探している俺は、明らかに平常心ではなかった。



さんは気付いていますよ」

「……何のことじゃ?」

「仁王くんの元彼女の名前は確か彩さん、と言いましたか」

「……」


柳生から彩の名前が出てくるとは思わなかった。

何が言いたい、という表情で俺は柳生を睨みつける。



「本当に彩さんは仁王くんのことが好きではなくなったのでしょうか?」

「……ハッ、俺が彩をフッたんじゃない、彩が俺をフッたんじゃ」


お前さんも知っとるじゃろうと、柳生に答えた。

柳生は静かに眼鏡を押し上げながら視線を上げる。

その視線は驚くくらいに鋭く、いつもの柳生とは違った別の生き物みたいだ。



「ですから、本当にそれらの一連の出来事は事実なのですか?」

「柳生、彩のことは話したはずじゃろ。それとも俺が嘘でもついとると思っとるんか?」

「仁王くんが嘘をついているとは思いたくありません。そして仁王くんと彩さんについても私は口出しするつもりはありません」


ですが、と柳生が話を区切った。

と俺の関係を知ったときせいぜい犬として愛されろと、そんな皮肉を俺に浴びせたのは間違いなく目の前にいる柳生だ。

あの皮肉は俺に対しての「反省したまえ」だったんだと思う。

それなのにと俺のことに関して何か言い淀む柳生、何をそんなにもったいぶる必要があるのか。



「今朝、彩さんがさんに接触したようです」

「……彩が、に?」

「それも偶然ではなかったようです。さんは彩さんに待ち伏せされていたと感じたようですから」


今朝の様子がおかしかったのを思い出して、俺は頭の中で瞬時に最悪のパターンを想像した。

これから柳生の口から紡がれるであろうことが俺の想像と一致してしまうのなら、俺はの誤解を解かなければならない。

怖くなって逃げてきたくせに、の顔を見ているのが辛かったくせに、何を今更と俺の中の悪魔が囁く。



「仁王くんの携帯電話に貼ってあった写真を見て、さんの様子が明らかにおかしくなったのは仁王くんも気付いていますね?」

「ああ、理由はわからんかったがおかしいとは思っとった」

さんの話だけではわからなかったのですが、あの反応を見てわかりました。今朝、さんに接触したのは99%彩さんです」

「彩が何のためにそんなこと……。まさか……?」

「ええ、そのまさかの可能性しか私の頭にはありませんよ。恐らく彩さんがさんに接触したのには、仁王くんが大きく関わっています」


溜息しか出なかった。

それと同時に深く深く吸い込んだ息が凍るような感覚がして、俺は呼吸するのが怖くなった。

このままでは肺が凍ってしまうんじゃないだろうか、呼吸する度にひゅっという音が喉から聞こえる。



「こんなことを仁王くんに言うのは酷である以外の何物でもありませんが」


俺の考えなどお構いなしに、柳生が言葉を続けた。

それは俺にとって喜んでいいのか悔しがるべきなのか、それとも悲しむべきなのか、いずれにせよ全てが遅すぎた。

俺とあいつはもう終わった、なのに今更こんな話聞きたくない。



「恐らく彩さんは仁王くんのことを諦めてなど……嫌いになってなどいないのではないでしょうか」


柳生の言葉は残酷でしかなかった。

これがまだずっと前の、俺が彩のことを好きだったときの話ならば俺は今すぐにでも彩を探しに部室を飛び出していただろう。

でも今はそんなことをする気すら起きなかった。

そんなことよりもに対する罪悪感で胸が苦しい。



「俺とあいつとは、もう終わったんじゃ」

「仁王くんの中では、それで構わないかもしれません」

「終わった……終わったんじゃ」

「確か、あの時の仁王くんは相当まいっていましたね」


そんなに真剣だったのかと正直驚きましたと、柳生は着替え始めながら呟いた。

確かに真剣だった、本当に。

なのにそんな相手からいきなり「雅治のこと、好きじゃない」と言われたときは、目の前が真っ暗になって何も見えなくなって。

俺は大人しく身を引いた、食い下がってまで繋ぎとめておくのは恥ずかしいと思ったからだ。

それでも俺は周りから見て著しく、元気がないように見えたらしい。

詐欺師仁王も、そんなことで周りを欺けないんじゃあまだまだじゃ……。

人に愛されないなんて自分で思っているだけで、本当は愛してほしくてほしくてたまらない。

彩が作った大きな穴を誰かに埋めてほしかった。


彩と別れて1ヶ月、そんなときに俺の前に現れたのがだった。

俺は自分自身ですらも欺いて、自分のしていることは全て自分が楽しむためなんだと言い聞かせていた。

でも実際は愛してほしくて、人に必要とされたいと思っていた。

だからあんな風に、みたいに依存というレベルで必要とされることも全く苦痛にならなかったし、むしろそれが心地よくもあり、喜びだった。

違う違うと自分を偽ってきたけれど結局はいつの間にかのことを愛していて、俺も同じように愛されたいと願っていた。

「ちゃぴ」と呼ばれようがなんでもいい、犬でもなんでもいい、俺がいないと生きられないようになってほしかった。

実際には「ちゃぴ」がいなくなったら死んでしまうんじゃないかと思うくらい、「ちゃぴ」を愛していた。

俺ではなくて「ちゃぴ」を。


厄介なのは、それをに伝えることはできないということだった。

告白してが俺から離れて行ってしまうということをずっと恐れていた。

だから何か都合の悪いことが起きると、俺は今朝みたいにから逃げた。



「本当は俺がに支えられとったんじゃ」

「ええ。彩さんと付き合っている頃よりも仁王くんは優しい顔で笑うようになったと思います」

「お前さんは彩のこと好いとらんかったからのう」

「友人の恋人のことを悪く言うつもりはありませんが、あの方と付き合っている間の仁王くんは少し不真面目でしたからね」


柳生が再び眼鏡を押し上げた。

彩に言われて部活をサボったりしていたことを思い出し、俺は苦笑するしかできなかった。

あの頃はそれが正しいと思っとったんじゃ、許してくれ柳生。



「彩のことはもうどうでもいい。……とにかく今はに謝りたいんじゃ」

さんも落ち込んでいましたからね。特別に幸村くんには言い訳をしておいてあげますよ」


さんに会えたらちゃんと戻ってくるように、と言いながら柳生に背中を押された。

俺は短く柳生に礼を言ってから、携帯を取り出す。

の番号に掛けたまま、じっとしている時間がもどかしくて教室へ走った。



『もしもし?』

「今どこにいる?」

『今?教室横の階段だけど……』


言われて見上げると、の姿があった。

は驚いた顔のまま踊り場で固まっている。

俺は足早に近づいてからを抱きしめた。



「今朝はすまんかった、に、嫌な思いをさせた」

「嫌な思いなんて……」

「嘘つくな。俺にはわかっとる」


が黙り込む。

俺はなんと言えばいいのか、言葉を探した。



「今朝彩に会ったんじゃろ?」

「……名前はわからないけど、ちゃぴが捨てたプリクラの人だった」

「……やっぱりな」

「ちゃぴはあの人のことが好きなの?」


は俺の目を見なかった。

俺はの頭のてっぺんに向かって真剣に理由を説明することになってしまう。



「好き、じゃった。元カノじゃ」

「元?」

「元」

「今は?」

「今は、付き合っとらん」

「どうして?」

「……好きじゃなくなったから」


そこでが顔を上げる。

どこか疑うような目つきなのは仕方のないことなのかもしれない。



「今はちゃぴじゃから」

「?」

「今はのちゃぴじゃから、他の女なんてどうでもいい」


が泣きそうな顔になったのを見たけど、その理由は追及できなかった。

まだ正直には伝えきっていないけど、今の俺にはこれが精いっぱいだ。

本当は「ちゃぴ」としてではなく、ちゃんと仁王雅治としてに伝えたいことが山ほどある。

でもまだ言えない、のことを守るためにもまだ言えない。

今言ってしまえばが悲しむかもしれないし、何か彩が行動を起こしてくるかもしれない。

俺は口に出さず心の中で腕の中のに誓うことしかできなかった。








君の存在は生きる糧だ
(これを共依存と人は呼ぶのかもしれない)

















あとがき

仁王くんの自覚。
こういうのバラバラに書いてアップしていくべきじゃないなと痛感。
違う話でも同じようなこと書いた気がしてなりません……長編書くのほんと下手。
しかも全体シナリオを変更するハメにならないようにしたい……。

2012.04.10