*ちゃぴ 09*



下駄箱でのありふれた朝の風景。

束になった生徒が次から次へと押し寄せ、人が引っ切り無しに入れ替わった。

私もぼーっとはしていられないので、できるだけ無駄のない手つきで靴を脱ぎ、下駄箱に入れてある上履きと交換する。


上から落とした上履きが片方転がって、見事に裏を向いてしまった。

足で上履きを裏返すのははしたないとは思いながらも、面倒くさいという思考が勝ってしまって、結局は指先でつつくようにしながら裏返った上履きを元に戻した。

その作業がなんだかすごく惨めに見えて、私はふぅっと溜め息をつく。

朝から上履き一つでどうしてこんな気持ちにならなければいけないんだろう。

嗚呼誰か、こんな気持ちを吹き飛ばしてくれないかな。

そんな微かな期待を込めて顔を上げてみても知った顔は誰一人としていなかった。

教室に行けば友人が何人かいるだろうと諦めて、私は静かに下駄箱の扉を閉める。



「あ、すみません」


誰もいないのだと思っていたのに私の後ろには人がいたらしく、振り向いた瞬間誰かと私の体がぶつかった。

謝りながら視線を上げると一人の女子生徒が、口元に少しだけ笑みを浮かべて立っていた。

ここは私のクラスの下駄箱が置いてあるところなのに、私はその女子生徒の顔も名前も知らない。

それに私がぶつかってしまったと言うのにどうしてこの人は笑っているんだろうと、私は疑問を持たずにはいられなかった。



その生徒は静かに私のことを見ているだけで、何も言ってはこない。

怒っているわけではないのかもしれないし、笑顔の下で腸が煮えくり返るような思いをしているのかもしれない。

ただ顔面に貼り付けたような笑みだけ浮かべているので、その人の考えていることは全くわからなかった。

どうしようか、こんなことなら一言怒鳴りつけてくれたほうが楽かもしれない。

私はひたすらその人を見つめ返すしかできず、その人が何か言ってくれるのを待つばかりだ。



「大丈夫」

「……本当にすみませんでした」


返ってきた大丈夫という言葉は、多分「私は大丈夫です」の意味だと思う。

あまりに情報が少なすぎて、「あなたは大丈夫なの」という意味にも受け取れるけど、そう受け取るのはなんだかおこがましい気がして、とりあえず私はもう一度謝ることにした。

女子生徒が口の端を一瞬吊り上げる。

この人はどうしてこんな風に笑うんだろう、とても綺麗な顔立ちに真っ直ぐな髪の毛、もっと綺麗に笑えば私だって顔を赤くしてしまうかもしれない。

この人には何かが欠落している。



さんって言うんだ?」

「え……」

「下駄箱」


いきなり名前を呼ばれて驚くと、女子生徒は私の下駄箱を指差した。

確かに下駄箱には私の苗字が書いてある。

この人は私がその下駄箱から靴を出して履き替えて扉を閉めるという、一連の作業をずっと見ていたんだろうか。

怖いというよりも何のために、という気持ちのほうが私の中では勝った。

この人にその理由を聞くことは簡単かもしれないけれど、それを聞くと疑問が恐怖に変わる気がした……少しでも早くこの人の前から消えたいと、そう思わずにはいられない。

貼り付けたような笑顔、謎の質問、この人はどこの誰?何をしているの?

同じ中学生で同じ学校の生徒なのに、私とは全然違う生き物のような雰囲気だ。



「わからないな」

「?」

「わからないって言ったの」

「あの……」

「じゃあね」


言葉の意味がわからなくて私が首を傾げると、その人は少しイラついたような目線を私に向けた。

私にもあなたがわからないと言いたかったけどその質問が許されることはなく、踵を返してその人は行ってしまった。

知らない人にこんな謎の扱いを受けたことがなくて、私は人でごった返す下駄箱前で立ち尽くすしかできなかった。



「おや、さんではありませんか。どうかしましたか?」


何分私がそうしていたかわからないけれど、気がつくと眼鏡を掛けなおす柳生くんが目の前にいた。

この前のことがあるから、もしかしたらちゃぴなのかもしれないという疑問が頭を過ぎる。

私がじろじろ柳生くんを見ていると柳生くんは困った顔をしながら、仁王くんではありませんよと教えてくれた。

本物の柳生くんだったことに安心しながらも、私は先ほどのあの状況の何をどう説明すればいいのかわからず、黙り込んでしまう。



「その様子ではただ朝日を浴びていたわけではないようですね」

「この時間にこの場所でそんなことしないよ……」


柳生くんが靴を履き替えたところで、私は先ほどの女子生徒の話をしてみることにした。

しらない女子生徒が後ろに立っていてぶつかってしまったこと、謝っても反応がなく、そのあと少しだけ話したあと名前を確認されたこと。

最後に謎の一言を残していったことなど、今こうして柳生くんに話すために思い出してみても不思議なことだらけだ。



「すごく綺麗な子だったんだよ。一度見たら忘れないと思うんだけどなあ」

「でも見覚えはないんですか?」

「ない」


柳生くんも何なんでしょうかと、その人の行動にただ首をひねっている。



「顔は笑ってるんだけど、きっと心から笑ってたわけじゃないと思う。ぶつかったこと、怒ってたのかなぁ……」

「同じクラスではないのにその場にいたということは、少なくとも目的があってそこにいたんでしょう。それに、さんの名前をチェックしていたということがどうも気になります」

「最初からそれが目的だったってこと?」

「大いに考えられます」


柳生くんがとても真剣な顔で考えているので、なんだか申し訳ない気持ちになってきた。

少し朝から知らない生徒に絡まれたくらいで、ぐじぐじ考える必要なんてない。

何かされたわけでもないんだし、余計な心配をさせてしまったと自分の行動を悔いた。



「でも、多分大丈夫だよ!」

「本当ですか?」

「攻撃されたんじゃないんだし、何かされるまでは気にしないでおいたほうがいいかなって」

さんがそうおっしゃるなら私もそうすることにします。ですが、何かあれば教えてください」

「ありがとう柳生くん」


私はお礼を述べてから柳生くんと一緒に教室に入った。

教室に入ると珍しく私の机にちゃぴが座っていて、私と柳生くんは顔を見合わせた。






* * *






「おはよう、仁王くん」

と柳生か、二人とも遅かったのう」


珍しいこともあるものですと柳生くんが驚いたように口にし、それを聞いたちゃぴは失礼じゃと笑いながらいじっていた携帯をポケットにしまおうとした。

一瞬の出来事、ちゃぴが小さくあ、と声を漏らす。

携帯はポケットに入らず滑り落ち、そのまま床の上で弾けた。

衝撃でバッテリー部分のカバーが少し遠くまで滑っていってしまったのに、ちゃぴは少しも気にしない様子で本体を拾い上げた。

私は滑っていってしまったカバーを拾ってちゃぴに渡そうとする。

黒いカバーに何か色が付いているのを見つけて、私は無意識にカバーに貼ってあるのがプリクラだということを確認した。

何気なく目にしたそのプリクラを見て、私は思わず声を上げそうになった。

どう見ても恋人同士が撮るような構図で、頭をくっつけあったちゃぴと女の子が写っている。

いつかちゃぴのこんな場面を見てしまうような気はしていた、むしろ今まで何もそういう場面に遭遇しなかったのが不思議かもしれない。



もやもや、黒い煙のようになって負の感情が渦を巻く。

この感情はちゃぴの新しい一面を知ってしまった驚きとも、ちゃぴに彼女がいることを知ってショックを受けているのともまた違う。

ゆっくりと覚醒する頭、私はこの女の子を知っている。

数分前、謎の言葉を残して私の前から姿を消した女の子。

絶対見間違うことなんてない、あの顔をした女の子が一緒に写っていた。

嗚呼きっとこの子はちゃぴの彼女なんだろうな、そんな思いがして切なくなった。

あれはちゃぴに近づくなっていう牽制だったんだろうか。

おかしい、私にとってちゃぴは一番でちゃぴにとっての一番は私のはずなのに。

ちゃぴである仁王雅治は私のものだけにはなってくれないんだと、そう思わずにはいられなかった。



少し見えてしまっただけのはずだったのに、あまりにもいろんなものが写りすぎていて私はそのプリクラから目を離せなくなっていた。

多分頭のいい柳生くんは何かに気が付いただろう。

私が複雑な思いで今ここにいることも、一刻も早くちゃぴに自分の教室に帰って欲しいと思っていることも、もしかしたらさっき話した女の子だってこともわかってしまったかもしれない。

一瞬で空気が変わって、ちゃぴも柳生くんも一言も話さない。

ちゃぴは何て思ってるんだろうか、面倒な奴って思われてしまったかもしれない。

私の独りよがりな独占欲のせいだ。



「ま、こういうことだってあるぜよ」


ピリっという小さな音の後、カバーに貼られていたプリクラが綺麗に剥がされた。

柳生くんは何も言わないし、私は何も言えない。

ちゃぴは私たちの前でその小さなプリクラを更に小さくくちゃくちゃにして、教室のゴミ箱に捨てた。

クラスの子はただのゴミとしか思っていないと思うけど、数秒前まではあれは確かに女子の争奪戦の対象になるくらいのものだった。



「捨てちゃってよかったの?」

「剥がし忘れてただけじゃ、貼ったままにしておく必要がないじゃろ」

「……そうかな」

?」


駄目、抑えなきゃ、私の馬鹿。

ちゃぴが訝しげな顔で私を見つめている……あんな冷たい返事をしたんだから無理もない。

どうしてこんな態度をとってしまうんだろう。

ちゃぴは何も悪くない、私にはちゃぴの生活や好きなものを制限する権利なんて一つもない。

ごめんねちゃぴ、口に出して言えたらよかったのに私の意地っ張りな部分と、そんな態度をとってしまった恥ずかしさからかとうとう謝罪の言葉が出てくることはなかった。



「仁王くん、もうチャイムが鳴ってしまいますよ」

「あ、ああ……そうじゃな。じゃあ、俺は帰る」

「ばいばい、仁王くん」

「じゃあな」



何か重たいものが私の中に溜まっていく。

どうしてあの子と同じこと言って消えちゃうの?

あの子も私に「じゃあね」って言って消えたんだよ、どうしてちゃぴまで同じことを私に言うの。



ちゃぴはカバーを元に戻すべくかちゃかちゃ携帯をいじりながらその場を去った。

ちゃぴはこんなにも早足だったのかと思うくらい、それはもう一瞬の出来事だった





下り坂の行き着くところ
(あとはもう上るしかない)



















あとがき

一番ツライのは板ばさみの柳生

2012.03.08