*ちゃぴ 13*



ちゃぴのために朝食を作って、その後にちゃぴを送り出して、一息ついてから私は学校に行く準備を始めた。

今日はちゃぴは朝練があるから、私よりもはやくに家を出ることになった。

ちゃぴは朝に弱いのか終始目が開いていなくて、ぼーっと足元を見つめながらふらふら洗面所に歩いて行ったり、朝食を食べるときも常に虚ろだった。

昨日よく眠れたのか聞くと、よく眠れたと答えてくれたから、それは信じようと思う。

私が心配そうにしていたせいか、ちゃぴは自宅でも朝はこんなのだからと笑って見せた。






ちゃぴが隣にいない通学路。

私は周りの音なんか聞こえていなくて、ただ考えてしまうのはちゃぴのことだった。

昨日の夜のこと。

私は布団に入ってからしばらくちゃぴと話していたけど、そのうちに眠気が襲ってきて先に寝てしまったんだと……思う。

寝てしまったからよく覚えてないけど、一瞬ちゃぴが何か言ったような気がして。

上手く働いていない脳みそで絞り出した一言は「仁王くん」だった。

ちゃんと仁王くんって言えてたのかはわからない、もしかしたら寝ぼけておかしなことを言ったかもしれないし、聞き取れないほど呂律が回っていなかったかもしれない。

どんな風に私は言葉を口にしたのか、それとも口にしたと思っているだけで本当は口にもできていなかったのか、それはちゃぴに聞いてみないとわからない。

でもそれを確認することは私にはできなかった。

私が何か言った後に頬に暖かな感触。

大きなちゃぴの手が私の頬を包んでいるんだと直感的に理解した。

気持ちいいな、温かいな、そんなことを考えていた後に落ちてきたのは、ちゃぴの優しい唇だった。

今となってはそれも正直唇だったのかわからない、他の何かだったのかもしれない。

でもその柔らかくて暖かい何かは確実に私の唇に触れた。

少し震えているような気もしたけれど、それはきっと本人に聞いてもわからないだろう。

なんでそんなことするの?何が起こったの?そんな気持ちでいっぱいだったけど、そのキスはとても優しくて、驚きで飛び起きるよりも先に私に与えられたのは安心感だった。

一瞬覚醒された脳がとろんと溶けて、私はそのまま再び暗闇に落ちて行った。


ちゃぴの考えていることがわからない。

昨日のことで少なくとも、今朝はちゃぴのことを意識してしまった。

なんだか目を見て話すのが恥ずかしく思えて、ちゃぴに逆に心配させてしまったかもしれない。








* * *








、聞いているのか?……!」

「は、ハイ!」

「体調でも悪いのか?」

「い、いえ……。すみませんでした」


ダメだ、授業の内容が全く頭に入ってこない。

気が付いたらちゃぴのことを考えている、今何しているんだろうとか、なんであんなことしたんだろうとか……。

考えたって答えが出ないのは同じ、私にできることなんて何ひとつない。

もし私のこの疑問の答えを知ることができるとしたら、それはもうちゃぴに直接答えを聞くことしかできない。

私はちゃぴに何を求めてる……?

ちゃぴに何をしてほしいっていうの?私はちゃぴにとってどんどん重荷になってしまうんじゃないの?

ちゃぴが近いようで遠い。



授業が終わっても席を離れられなくて、私は教室の窓から外を眺めた。

外はとてもいい天気で雲一つない、なのに私の中は今台風が上陸しているような状態だ。

何もかも吹っ飛ばされてめちゃくちゃ、風が吹いたり雨が降ったり、何が起こるかわからない。



さん、どうかされましたか?」

「なんでもないよ柳生くん!心配かけてごめんね」

「そうでしょうか、今日は元気がないように見えます。もしかして……昨日の夜、仁王くんがご迷惑をかけましたか?」


仁王くんという言葉に反応してしまっていないだろうか。

その名前を聞いた途端、心臓が飛び跳ねた。



「やっぱり、仁王くんがご迷惑をおかけしたんですね?」

「え、私何も言ってないよ!」

さんの反応を見ていればわかります。あなたは本当にわかりやすいですからね」


柳生くんがくすくすと笑った。やっぱり反応してしまっていたみたいで、私は自分自身に呆れるしかない。

さっきから柳生くんは、ちゃぴが私に迷惑をかけたって言うけれど、これは迷惑をかけたっていうのかな?

ちゃぴがあんなことしたって言ったら、柳生くん怒っちゃったりしないかな?

そもそもあれは本当にそうなってたのかもわからない……もしかしたら、夢だったのかもしれない。

ちゃぴ本人に事実確認をしていないから、何とも言えないのが本音だ。



さんさえよろしければ、私に話してみませんか。さんが望むなら、仁王くんには何も言いませんよ」

「本当に?」

「ええ、このことは誰にも話しません」


私のこともそうだけど、ちゃぴのことも気にかけているんだということがよく伝わってくる。

柳生くんはこういうところが大人だなぁ……つい甘えてしまう。



「じゃあ、聞いてもらってもいい?」

「もちろんです。では、何に悩んでおられるのですか?」

「実はね……」


私は柳生くんに昨日の出来事と、その後のもやもやを話した。

柳生くんは頷きながら真剣に聞いてくれる。でもちゃぴが私にキスしたかもしれないという話のときだけは、頭を抱えていた。



「まず初めに……私が言うべきではないのかもしれませんが仁王くんの行いに関して謝罪します。申し訳ありませんでした」

「柳生くんは何も悪くないよ!謝らないで……」

「確かに私の悪行ではありません。ですが、同じテニス部員として、ダブルスパートナーを組んだ身として、黙って見過ごすことはできません」


柳生くんにきっぱりと言われ、申し訳ない気持ちになった。

柳生くんは何も悪いことはしていない……それは真実だし、ちゃぴの行動に対して柳生くんからでなくても、ちゃぴからも謝ってほしいとは思っていない。

自分の中でそれが一番どうしたらいいのかわからなかった。

今までにキスなんて誰にもされたことはない。所謂ファーストキスだった。

なのに、それを黙ってあんな形で奪われて、それに関してはちゃぴはなかったことにしようとしている。

もしこれが何とも思ってない人間にされたことだったら、私は怒っていると思う。

でもちゃぴからそういうことをされたかもしれないということに関しては、全く憤りを感じたりはしていない。

恥ずかしさはあるけれど、少し嬉しいかもしれないというか……本当にそうされたのだとしたらと考えると、心臓がばくばく煩くなる。

憤りを感じているときの静かな高鳴りではない、別の高鳴りだ。


私は下手くそな説明で柳生くんに全部話した。

話し終わってから柳生くんを見つめると、柳生くんは顎に手をやりながら悩んでいる様子だった。

……おかしなことを言ってしまったんだ。



「困らせてごめんね」

「ある意味では困っています。私は今、さんの話を聞いて一つの結論に達したのですが……その結論をさんに言うべきか否か悩んでいるというのが本音です」

「ど、どうして?」

「一つは、私が今まで生きているうえで結論だとしようとしていることを経験したことがないからです。一般論で言うならば私の出した結論は間違っていないでしょう。しかし、そんな簡単なことではないのです」

「そっか……」

「もう一つの理由は、それはさんと仁王くんの問題であるが故に私が結論を口にしてはいけないのだと考えるからです」

「アドバイスしちゃダメってこと?」

「アドバイスならできるでしょう。しかし、アドバイスする前にさんも仁王くんも自覚することがまず先なのです。最も、仁王くんは自覚はしているかもしれませんが……話を聞いている限り、さんが自覚しているのかどうかが難しいところです」


柳生くんの言葉を聞いて少し泣きそうになった。

柳生くんの言ってることがわからないとかそういうことではない。柳生くんの言おうとしていることが、なんとなくわかるから辛かった。

私も今まで何度か同じ結論に達しようとしていた。でもその度に違うんじゃないかと自分に嘘をついて、誤魔化してきた。

だからオブラートに包んでいる柳生くんのセリフの中身がなんとなくわかってしまって、もう自分に誤魔化しはきかないのだと痛感する。



「私、初めてちゃぴに会ったときね、本当にちゃぴだと思ったの」


見た目の行動も何もかもがちゃぴだった。違うのは……犬じゃなくて、人間の姿をしているのだということ。

ちゃぴも自分はちゃぴだと言ってくれた。それが本当に嬉しかった。



「でも、違う。私きっと、ちゃぴが好き……。ううん、仁王くんのことが、す、き……」


言葉が掠れてうまく出てこない。

机の上にぽたぽたと水分が落ちて、私は泣いているのだと気が付いてから顔があげられなくなった。

顔と机を同時に制服の袖で擦りながら誤魔化そうとする、もう柳生くんは何もかもわかっているのに……。



「隠さなくていいんですよ。それに、女性が顔をごしごしとこするなんていけません」


柳生くんがハンカチを差し出してくれる。私はハンカチを受け取りながら、柳生くんの顔を見た。

柳生くんが切なげな辛そうな表情をしているのを知って、ありがとうの言葉を思わず飲み込んでしまう。



「あなたは……ちゃぴである仁王雅治に好意を寄せているのですか?」

「違うよ。柳生くんは知ってるんでしょ?仁王くんはちゃぴなんかじゃないって……」


柳生くんが目を伏せる。

私は自分が可愛いばかりに、自分の殻に閉じこもって仁王くんだけでなく柳生くんにまで迷惑をかけていたんだ。

私は仁王くんをちゃぴだと思うことに何の罪悪感もなく、むしろ幸福だった。

でもその裏で何人もの人が私に嘘をつくために罪悪感を背負い、不安と葛藤を強いられていた。



「柳生くん、ごめんなさい……私が、私が弱いのがいけないから……」

さんは悪くありません。仁王くんも切原くんも私も、あなたの幸せを願っていたのですから」


私がこぼした涙を柳生くんがハンカチで拭いてくれる。

特別仲がよかったわけでもないのに勝手に巻き込んだ。なのにこの人たちはこんなにも優しくしてくれた。



「ごめんなさい……ありがとうっ……」

「私の口から話すべきことは全て話しました。最後までは話せません。仁王くんは、今の状況を何も知らないのですから……。後は仁王くんに任せます。それに、仁王くんに対する気持ちは、私と話しても解決できませんからね」


涙が止まらない。

柳生くんは私がこんなにも泣くから、おろおろしてしまっている。

申し訳なさと心配してもらっている嬉しさですぐに泣き止むことはできないけれど、言葉が出ないぶん私は精いっぱい柳生くんの手を握った。








僕にできることの全て
(この辛い気持ちも恋、なのでしょうかね……)























あとがき

そろそろ大詰めでしょうか。

12.08.12