*ちゃぴ 14*



昨日の今日の朝練、なんてことはないと思っていたけれども他の連中はそうは思わなかったらしい。

後輩の赤也には「いつものキレがないっスね」と言われた。(キレってなんじゃ)

柳生が無言で俺のことを睨んでいることもあった。

幸村や真田には何も言われなかった。俺自身手を抜いていたわけではなく、いつものように練習しようとしていたからその気持ちは伝わっていたんだろう。

いつものようにしているのにいつものように上手くいかない。人はそれをスランプと呼ぶ。不調気味な動きをする俺を目の当たりにして幸村と真田は俺に同情のような気持ちを抱いていたのかもしれない。


俺自身原因はわかっていた。

そわそわもやもやしている原因が昨日の俺の行動にあるということも。

童貞を捨てた男じゃあるまいし、俺自身笑ってしまいそうになる。

と経験することのほとんどは俺にとって初めての経験ではない。

なのに俺をこんな気持ちにさせる彼女が特別で特別で仕方ない。


学校でと出会ったらいつも通りの対応ができるだろうか。

今朝はなんとか乗り切った。は俺の元気がないようだと心配していたけれど、まともに顔を見ることができなかったのが本音だ。

一緒に寝た夜に俺が黙ってあんなことをしたと知れば、流石のも怒るだろう。

だからあの夜のことは俺一人胸の中にしまっておくことにした。


















ふらふらと歩きながら教室を目指す。

昨日の夜は驚くほどぐっすり寝れた。

の隣であんなことまでしておいて寝られるのか正直不安だったけれど、と一緒に寝るのは緊張と同時に安心もあったみたいで、安らかな寝息を聞いていると自然と顔の筋肉が緩んだ。

ぐっすり眠れたんだ、体力面での疲労はない。

なのにこんなにも朝練が辛く思えるのは、やはり精神面での疲労が原因だろう。

身体よりも頭のほうの動きのほうが活発だったかもしれない。

こうやってまたごちゃごちゃと考え事をしているから疲れるのかもしれないが、考えないわけにはいかない。

これからどうするのか。俺との歩いて行く道について。

はやく教室に向かおう。教室に行って席に座ってゆっくりと今日1日使って考えればいい。

小さく息を吐いてから足に力を入れた。









「雅治」

「……」


階段を見上げると踊り場に誰か立っていた。

逆光で顔が見えない。相手が誰なのかわからない。なのに残念ながら嫌な予感しかしなかった。

それと同時に俺の精神面での疲労がピークに達するような気がした。



「雅治?」

「誰じゃ?」

「もう私の声忘れちゃった?」

「……お前さん」


くすくすと笑いながらそいつは階段を下りてくる。俺の目の前まで下りてきてようやく顔が見えたかと思うと、そいつは俺の顔に自分のそれをぐっと近づけていた。

顔なんて見えなくても、お前の正体は知っている。



「私だよ。彩。」

「久しぶりじゃな」


じゃあ、と俺は短く発して階段を上ろうと一歩踏み出した。

しかし思っていた通り彩は簡単にはそこをどいてくれず、俺の腕を見た目では考えられないほどの強さで掴む。

痛みはなかったが彩のその行動に苛立ったのか、俺は自然と彼女を睨みつけた。



「怖いなぁ。そんな顔しないで雅治」

「やめろ」

「どうして怒ってるの?機嫌直してよ」


俺の腕をつかんでいた手が俺の頬に伸びたとき、俺は反射的にその腕を払いのけた。

一瞬彩が顔を歪めたが、すぐに何事もなかったかのような表情に戻る。



「ねぇ、どうして私たち別れちゃったの?」

「……お前さんが別れたいって言ったんじゃろ」

「そうだね。確かに私がそう言った」

「理由はそれだけじゃ。それ以上でも以下でもない」

「でもね雅治、あれがもし本心じゃなかったって言ったら、どうする?」

「……何が言いたいんじゃ」

「私、雅治に追いかけてほしかったの。もっともっと好きになって欲しかった。だから思ってもいないのにあんな嘘ついたの。雅治なら俺はお前のことが好きだって言ってくれると思って」


血の気がすっと引いて行ったのがわかった。息苦しい。柳生に話をされたときと似たような感覚。

でもあれよりも今のほうがもっと酷い。

なんとなく柳生から話をされたときは間違ってはいないと思っていた。間違っているどころかそうあってほしいとどこか願っている自分もいた。

しかしそれが現実になり、柳生の読みが当たっていて、ある程度の予測と覚悟ができていたとしても今の話は「はい、そうですか」と聞き流せるようなものではなかった。

怒り、そして悲しみが一気に押し寄せてくるのがわかる。



「あの話をしたら雅治、私のこと引き留めなかったよね。」

「食い下がるのは恥ずかしいと思っとった」

「そうだったんだ?私すごく傷ついたんだよ。雅治は私のこと好きじゃなかったんだって。でも、みんなから雅治が私と別れてから元気がないって聞いたからそんなこと吹き飛んじゃった。雅治は強がってただけって」


彼女がにっこりと笑った。

俺の手をとり両手で優しく包み込む。



「だから、しばらくしたら雅治は戻ってきてくれると思ってた。そう信じてたの。……なのに、なのに」


包まれていた手に力が籠められる。

彩はカタカタ震えていた。全身を震わせていた。怒りに狂っていた。

見開かれた目は一転に集中している。俺の目は見ていない。

俺の胸の辺りを穴が空くほど凝視している。



「あの子は誰なの?柳生くんの彼女?ねぇ、そうでしょ?でも、どうして雅治と一緒にいるの?どうして一緒に笑ってるの?雅治あんなにも落ち込んでたよね?なのに、どうして元気になっちゃったの?どうして私のところに帰ってこないの?」


開かれた瞳のまま彩は俺を睨みつけた。

手は彼女の爪が食い込んで出血している。

俺は何も言えなかった。女っていうのはどうしてこう、自分から面倒なことをしておいていざとなれば他人に全てを押し付けることができるのだろう。



「あの子とヤった?気持ちよかった?あの子、雅治のセフレなんでしょ?寂しいから、あの子で紛らわしてたんだよね?私の変わりにあの子を使ってたんだよね?」


やり過ごそうと思っていたけれど、急に話はとんでもない方向へ向かっていった。

と俺が?そんな汚い関係?

気が付けば彩を壁に追いやって思い切り彼女の首を掴んでいた。

もうHRが始まっている時間のせいか、階段を通るものは誰もいない。

俺を邪魔するものは何もない。



「お前にの何がわかる」

「まさは……かはっ」

はお前が思ってるような奴じゃない。今後一切そんなことは口にするな」



自分の最初の愛を今、自分の手で見事に散らせた。

彩はああ言っていたけどもう俺に向けられた愛が本物だったかどうかなんてわからない。


そのままずるずると壁に背中を預けながら、彩は床に座り込む形になった。

床に座り込んだまますすり泣いている。



「……許さないから」

「恨むなら恨んでくれていい」

「……馬鹿だね雅治。許さないのはあの子だよ、恨むのもあの子だよ」


顔を上げた彩の目は怒りに満ちていた。

なのに口元には笑みを浮かべている。

……強がりであることなんて最初からわかっていたことだけど。

だからこそ、こんなときに彼女が笑っていようとも何とも思わなかった。



「強がってもバレバレじゃ。相変わらずじゃのう、お前さんは」

「……そうやってあの子に近づいたんだね。雅治こそ相変わらずだよ。ちっとも変ってない」


彩は立ち上がりスカートの埃を払った。

そして一瞬俺の方を睨んだと思うと、俺のネクタイを思い切り引っ張った。

あまりに急なことだったので何も対処できず、俺はそのまま前のめりになる。

また嫌な予感がする。避けることができそうにない。


に対してこの気持ちを抱いている間、他の誰ともしたくなかったこと。

そう願っていたことはたった数時間のうちに、いとも簡単に塗り替えられてしまうことになった。

笑顔で去って行ったのはこれもまた彩が強がっていたからか、それともそうできたことが満足だったからか。

どちらにしても阻止できなかった自分に腹が立って、俺は罪悪感を抱きながら制服の袖で唇を拭うことしかできなかった。

何度も何度も心の中でに謝り続ける。

の横で笑っていることが当たり前になっていたのに、お前にそんなことは許されないよと誰かに言われたような気がした。








幸せになる権利
(誰かが幸せになれば誰かが泣く)























あとがき

制服の袖で唇拭う男子の話はあまり見たことがなかったので……

12.11.07