ゆびさきに熱



 切らなければ、今日こそ切ろう、絶対切ろう、昨日の部活の時間、私は心に誓った。大層な誓いでもなんでもない、長くて邪魔に感じている爪を整えましょうというだけの話だ。
 ボールに触れる、選手に物を渡す、掃除をする、ドリンクを作る……全てのことにおいて私の爪は短いほうが好都合で、それは自分の爪を守るためでも選手を守るためでもあった。友達の爪のようなある程度長さが保たれていて何だかぴかぴかしている爪には憧れるけれども、今の私には必要ない。
 それは一番自分が理解しているし困るのも自分なのに、面倒くさがって後回しにしたり単純に忘れたりしていたせいで私の爪の長さは自分の中の限界を超えた。にも関わらず結局昨日の部活中の誓いはドラマと予想以上に手こずることになった課題のせいで果たされることはなく、部活が始まってから爪を切るのを忘れていたのを思い出し今に至る。


 「高尾くん、爪切りとか持ってないよね……?」
 「ゴメン、オレは持ってねーわ。真ちゃんなら持ってるんじゃね?」
 「えー、あー、うん、そう、だよね」
 「え、何その歯切れ悪い感じ」


 緑間くんには昨夜ドラマという誘惑と学校の課題が忙しかった……要するに時間がなかったとは言いたくなかった。時間を作ることができるかどうかは全て自分次第なわけで、数学と英語の課題が思っていた以上にできなくて1時間で終わらせる予定が倍かかってしまっただなんてことを話しても緑間くんに鼻で笑われると思う。
 だから半分諦めつつもこうして高尾くんに訪ねてみたものの、思っていた通り高尾くんは爪切りを持っていなかった。


 「真ちゃんと喧嘩でもした?」
 「してないよ」
 「じゃあ何でオレ?そういうことしたら真ちゃん妬いちゃうんだからさー、機嫌悪くなるじゃん」
 「ごめん、悪気はないんだけど」


 高尾くんは頭の後ろに手を持っていきながら口を尖らせた。彼が本気で怒っているわけではないということはわかっている。


 「男っていうのはさ、好きな人には自分を一番に頼って欲しいわけ」
 「うん」
 「で、真ちゃんとちゃんはお付き合いしてんの。どういう意味か分かるっしょ?」
 「……うん」
 「じゃあなんでオレにそんなこと聞いてきたのか教えて?」


 高尾くんがニヤニヤしながら私の表情を窺った。顔の近さに息を呑むけど、私は深呼吸をしてなんとか自分を落ち着かせる。
 少しだけ悩んだものの高尾くんなら話しても大丈夫かと、昨日の出来事とその結果を全て彼に話すことにした。


 「わかんねぇ課題とか真ちゃんに聞けばいいじゃん。ホント、ちゃん頑張りすぎ」
 「緑間くんはそういうのあんまりよく思わないから……」
 「まーそれはわかるけど。で、真ちゃんに怒られたくなくてオレに爪切りのこと聞いてきたわけ?」
 「そうじゃないの。ただ、最近緑間くんちょっとピリピリしてるから、私の所為で緑間くんにストレス与えたくなくて……」
 「なんだ、そっちかよ」


 高尾くんは予想していた通りの優しい言葉を私にくれる。
 頑張りすぎだよって言って頭をポンポンしてくれるなんて絶対に緑間くんはしてくれないからなんだかむずむずした。


 「まあでも今回はしゃーなくね?そのままの爪でで部活やってちゃんが怪我したら真ちゃん発狂しそ」


 高尾くんが私の手を取ってじっと爪を見つめる。少し目を細めてちょっと長いかもなーって呟きながら、高尾くんの指が私の爪先をかすめた。


 「発狂って……緑間くんそういうキャラじゃないと思うよ」
 「まぁそうかもしんねーけど」


 私は手を引っ込めることもできず、高尾くんと発狂する緑間くんを妄想して笑ってしまった。自分で言って可笑しかったのか、高尾くんも発狂する真ちゃんとやらを妄想して声を大きくする。


 「何をしているのだよ」
 「ぎゃあ!」
 「ハハハ!ちゃんビビりすぎだろ!」


 いきなり現れるだけならまだしも、緑間くんが私の手首をむんずと掴むんだから余計に驚いた。高尾くんは私の手を放すと何事もなかったかのようにまた手を頭の後ろで組む。


 「何をしているのだと聞いている」
 「あー、えっと、何だっけ?」
 「えっと、爪切りを、持っていないかなーっていう話を……」


 高尾くんが状況を笑い飛ばしてくれたように思えたけど、緑間くんは全く動じなかった。むしろ1度で質問の答えが返ってこなかったことに機嫌を悪くしてしまったのか、顔がむっとしているように思う。
 一方で質問された高尾くんが全て話してしまうのではないかとハラハラしたものの、彼は何も知らなかったかのように対応してくれた。
 私は歯切れ悪く爪切りのことだけを口にしてみる。緑間くんに気を遣ってこうなったとか、昨日の夜何があったとか、そういうことには一切触れない。


 「使え」
 「あ、ありがとう」


 ポケットに手を突っ込んだ緑間くんは爪切りを差し出した。私は驚きながらもそれを受け取る。
 緑間くんはどうしてこうなったとか、何故家で切ってこなかったのかとかそういうことを一切聞くことなく、私に爪切りを渡すとさっさと踵を返して行ってしまった。


 「よかったじゃん、何も言われなくてさ」
 「……そうだね」
 「高尾、何をもたもたしている」
 「へーいへい、今行きますよーっと」
 「も、さっさと爪を切って合流するのだよ」
 「はーい」


 緑間くんの声は叫んでいないのに体育館によく通る。高尾くんはまた後でな、と言って私の頭をポンポンした後緑間くんに向かって走って行った。今から彼らは外周をすることになっている。
 その間にしなければいけないことを指折り数えながら小さくなっていく二人の背中を見送った。



 パチンパチンと軽い音をさせながら爪がいろんなところに飛んでいく。爪を切っている途中、バタバタと数人の足音がした時だけ私は顔を上げた。
 緑間くんや高尾くん、先輩たちが目の前を走って行く。それから少し遅れて別のメンバーも後に続いた。
 緑間くんの顔は真っ直ぐ前を向いている。私の方なんか一切見ないで、ただひたすらに前を。なのに高尾くんは私の前を通る瞬間こっちを向いて笑うんだから変な感じだ。あの集団の中では後方なので、緑間くんですらもそんな彼の行動には気付いていないだろう。
 さっさと爪切りを終えなければいけないのに、足音が近づくと顔を上げてしまう。普段この時間は私は別の場所で作業をしているからこうしてじっくりと緑間くんが走っているのを見ることはそうなかった。


 爪を切り終えた私は急いでドリンクを準備した。外周が終わればみんなは今準備しているドリンクを飲むことになる。つまり、私がドリンクを準備しなければみんなは干からびて死んでしまう。
 いつもより作業時間はずっと限られていたもののなんとか先頭集団が体育館に入ってくるギリギリの時間に準備を終えた。先頭集団とその次の集団にはだいぶ差ができていて、まだまだ次の集団は帰ってきそうにない。


 「お疲れ様でーす」
 「おー、サンキュー!」
 「……」


 最後にドリンクを渡すのは先頭集団の唯一の1年生である緑間くんと高尾くん。高尾くんは相変わらず笑顔で、緑間くんも相変わらずの表情だ。


 「緑間くん、爪切り返すの練習が終わった後のほうがいいよね?」


 彼は爪切りを使うのだろうか……わからなかったので声を掛けながら手に爪切りを乗せて緑間くんに差し出してみる。すると手ごと掴まれてしまって、緑間くんにしてはかなり珍しい行動に思わず息を呑んでしまった。
 触られるのが嫌なわけじゃなくてただ触れられることに慣れていないだけだ。触れてくる手が本当に大きくて余計に緊張してしまう。


 「見せてみろ」
 「爪を?」


 掴んでいた手を器用にずらして私の爪を見ようと緑間くんが手を引っ張るから、知らない人が見たら私が彼に爪を見せつけているみたいだ。彼の謎の行動に戸惑いつつも、気が済むまではやめてくれないので黙って従う。


 「何だこの爪は」
 「何だと言われましても……」
 「爪がガタガタなのだよ。爪切りを貸せ」


 貸せと言った割に緑間くんは私から爪切りをもぎ取った。


 「長さもバラバラなのだよ」
 「そうかな?」


 爪切りを奪った緑間くんは私に合わせるようにしてかなり前傾姿勢になりながら、右手で私の手を支え左手で長さを揃えようと爪切りを私の爪に当てる。
 休憩をしている他の部員が不思議そうな顔で私たちを見つめていた。「緑間何やってんだ」という声が聞こえる。
 しかし緑間くんの思ったようにいかないのか、だんだんと緑間くんの口がへの字になってきた。いつもそんな口元だけどいつものとは違ってどこか意地になっているような、そういう雰囲気のする口元。少しだけ切ってから、緑間くんはゆっくりと私の手を開放した。


 「切りにくいのだよ」
 「大丈夫だよ、これでいいから」
 「オレが納得できん。来い」
 「!?」


 自分の爪を切るのと他人の爪を切るのでは視点が違う。緑間くんは自分の爪を切る時のように上手くいかない爪切りに対して腹を立てているらしい。
 本日何度目だろうか、私の手首を掴んで緑間くんはずんずん歩き出した。彼は歩いているけど足の長さが違いすぎて私は小走りだ。

 緑間くんは先ほど私が爪を切っていた場所まで私を引きずった。彼を見上げてみても表情からはこの先の展開が全く読めない。


 「座れ」
 「まさかのやり直し……?」
 「バカめ。誰がお前に爪を切れと言った」
 「どういうこと?よくわからないよ」
 「いいからさっさと座るのだよ」


 緑間くんに軽く背中を押されて私はよろめいた。仕方ないので先程と同じ場所にしゃがんで彼から爪切りが渡されるのを待つ。
 直後に小さく溜め息をつく声が耳元で聞こえて振り向くと、私のすぐ後ろに緑間くんが座っていた。もっと滑らかにしろとか、切りすぎだバカめとか横から言ってくるに違いない。監督役をする彼の姿が簡単に想像できて更に気が重くなった。


 「手を出せ」
 「爪切りは?」
 「オレが切るのだからには必要ないのだよ」
 「……?」


 よくよく考えてみると監督役をするにしては距離があまりにも近い。二人きりの時ですらベタベタしたスキンシップを好まない緑間くんにしては近すぎる距離に今更心臓が反応を始めた。
 私のすぐ後ろにスタンバイした緑間くんが足を開いて座っていて、その間に私の体がある。私の脇の下辺りから二本腕が伸びていて、彼の右手は私の右手を支え、左手は右手の爪に当てられていた。
 こうすれば緑間くんは自分の爪を切るのと同じようにして爪が切れる。でも、だとしても、この体勢は、よろしくない。
 どうして私より後ろに座っているのにつま先が私の足よりだいぶ前に置かれているのかとか、そういうどうでもいいことが頭を支配する一方で私は猛烈に焦っていた。これは所謂、抱きしめられている状況ではないのか。


 「どうしたらこんなにガタガタに仕上がる」
 「だって、ドリンクだって準備しなきゃいけなかったし、急がなきゃいけなかったし」
 「言い訳なのだよ」
 「……もっと人事を尽くします」


 言い訳なのだよの一言で昨日の夜のこともその前からずっと爪切りを先延ばしにしてきたことも全て言われたような気がした。


 「全部お見通しなのだよ」
 「!?!?」
 「今日爪を切ってこなければ言ってやろうと思っていた。まさか本当に切ってこないとは思わなかったのだよ」


 いくら私のすぐ後ろにいるからと言って耳元でそういうことを言うのは反則だと思う。もちろん私が考えていたことを言い当ててしまうのも反則だ。
 私は爪を切られているだけなのに手がぷるぷると時々震える。その度に緑間くんの右手に力が込められた。


 * * *


 「真ちゃんもういいだろ?早く帰ろうぜ」
 「誰が待っていろと言った。先に帰ればいいだろう」
 「先に帰るの何かムカつくから無理」


 誰もいなくなった体育館から引きあげてきた私たち3人は着替え終えて帰る準備も万端なのに部室の一部で身を寄せ合うようにしてベンチに座っていた。と言うのも、今私は緑間くんに後ろから抱きかかえられるようにして爪にヤスリをかけられている最中だ。
 部活中先輩たちに散々冷やかされたのにも関わらず緑間くんは懲りるどころか冷やかされるようなことをした覚えはないといった風に冷静だった。彼にとってあの行動は恋人同士のスキンシップにはあたらないらしく、どれだけ先輩に茶化されようとただ爪の手入れをしていただけと真顔で答えるだけだったし頬を赤くして恥ずかしがることもなかった。
 とは言え私は気が気ではなかったのでヤスリかけをするという緑間くんの申し出は丁寧に断ったものの、彼が聞き入れてくれるはずもなく何を言っても「座れ。いいから早く座れ。さっさと座れ」と返されては白旗をあげるしかない。
 高尾くんは何だかんだ言いながらも緑間くんの我が儘に付き合ってくれていた。


 「今度からオレも真ちゃんに爪切ってもらおっかなー」
 「何を言っているのだよバカめ。お前なんかの爪を切る理由がどこにある」
 「じゃあちゃんに切ってもらおっかなー」
 「やめておけ、ガタガタにされるのだよ」
 「酷いよ緑間くん……!」
 「別にガタガタでもいいしー。オレもちゃんに後ろからぎゅっとこう……」
 「うるさいのだよバカ尾!」
 「あぁもうヤスリ振り回すのやめて緑間くん!」


 この状況を何とかして欲しい。
 先ほどのうるさいのだよで腕の力が増した。私は緑間くんの股の間にいるというのに身体は更に密着するし、高尾くんが目の前にいて逃げ場もない。仕方がないのでヤスリをかけられようとしている爪を凝視して、頭上から降ってくる二人の会話を大人しく聞きながら身体を小さくした。


 「そもそもも高尾も気付いていないのか?」
 「え、真ちゃん何の話?」
 「オレは本来爪切りは使わない。常に調整しているのだから、爪切りなどなくともヤスリだけで十分なのだよ」
 「でも今日爪切り……」
 「先程も言ったが、今日切ってこなければオレが切ってやろうと決めていたのだよ」


 指先に集まった熱は私のことを捕えて離さない。













あとがき

緑間が爪切りを使わない人種だと言うことに気付いて途中で内容を考え直すことになりました。

2012.11.15
2022.01.19 大幅加筆修正。……10年か。