*ちゃぴ 17*



スランプと呼べるような、呼べないような。

ずっと続くスランプではないと自分ではわかっていた。かなり一時的なもの。精神的不安による、身体的不調。

朝練に引き続き周りが俺を見る目は憐みを含んだものに変わりなかった。どうした仁王、なんでお前が、今までこんなことなかった、散々ペテン師だなどと悪人役をしておいて、これすらもペテンなのか?……お前さんたち、どうしてもっと俺を労わらんのじゃ。コソコソ話になっとらん。

この場に居辛いわけではなかった。こんなことでへこむほどヤワじゃない。

ただここにいてもどこにいても、ヤル気なんてもんは生産されんしモヤモヤが晴れるわけでもない。早退することも考えたが、帰宅したところでこの気持ちに整理がつかないことも理解していた。

に会いたい。会って今自分が弱くなっていると吐き出してしまいたい。そうしたらきっと彼女は俺を突き飛ばしたりせず、優しく、黙って話を聞いてくれるはずだ。例えその原因がにあったとしても、それだけは隠して……矛盾していることは承知の上だ。



それとももういっそ、言ってしまおうか。今まで俺がどうしてと一緒にいたのかを。

元カノの存在を引きずっていて無気力だった俺の目の前に、が現れた。

俺のことを死んだ犬と重ねて、俺を必要としてくれた。必要とされたことが嬉しくて、俺は本来の企みも忘れてに依存していった。

彼女のことを守りたいと思うようになった。の心が折れないように、自分は犬ではないのだということを隠す決意が生れた。

その決意を捨てて、俺は本当は仁王雅治なんだと、ちゃぴではないのだと……。そして、のことが好きなのだと話してしまおうか。

本当のことを言ってくれてありがとう、と微笑むが浮かぶ。でもそのの姿はすぐに消えて、今度は泣き崩れるが現れた。

ちゃぴ、ちゃぴ、どうしていないの、どこに行ってしまったの……彼女の声が脳内にこだまする。

たまらなくなって俺はテニスコートを飛び出した。数人がこちらをみていたけれど、気にならなかった。

俺以外の人間は絶対しない、部活を抜け出すというこの行為。幸村と真田には後で怒られよう。



走り込み途中の陸上部とすれ違い、音楽室からは吹奏楽部の演奏が聞こえ、サッカー部が芝生の上でストレッチをしていた。

俺一人この場に馴染めていなかった。テニス部だからとかそういう理由ではなく、ここにいる意味を持たないからだ。

意味もなく辺りを彷徨い歩き、適当な知り合いに声をかけたり知らない女子に声をかけられたり、あの時と同じだと思った。

抜け殻だったあの時の自分。今度はを失おうとしている……?

カシャンカシャン

思考を途切れさすような音が聞こえて、俺ははっと息を呑んだ。音のした方向を見た。

屋上で女子が二人もみ合っているのが見えて、片方がだということに気が付くまで数秒。相手は確認せずとも予想がついた。

が殺されてしまう。

確信もないのにそんな気がして、俺は屋上への道のりを走り出した。

非常階段は鍵がかけられて閉鎖されているから、屋上へ続くルートは校内の階段を使う道のりのみ。と一緒に時間を過ごした屋上、すぐにたどり着けるだろう。

靴を履きかえる時間でさえも惜しく感じられた。途中数人の教師から怒鳴り声を浴びたが、お構いなしに校内を突き進んだ。






!」


屋上につくなり名前を叫びながらドアを開けると、屋上の端のほうで蹲って泣いているの姿が見えた。声をかけようとすぐに駆け寄るものの、俺の存在に気づき顔を上げたのはではなく、をフェンスに追い詰めていた張本人だった。



は……はどこだ!」

「……知らないわよ」

「お前さんさっき一緒におったじゃろう。本当にわからんのか……!」

「見てたの?雅治も相当粘着質ね」

「はぐらかすな!」


ぐっと胸倉を掴んで引き寄せる。相手が女じゃなかったら、俺はとっくに手が出ていただろう。



「本当に知らないの。あの子とすれ違わなかったの?」

「いいや……」

「そう」


掴んでいた手を放すと、彩はゆっくりと地面に座った。もう彩に用はない。の姿を探すべく、俺は再び元来た道を走り出す。



「私、あの子に負けたわ」


聞こえるか聞こえないかギリギリの声で彩が囁く。そもそも二人がどうして喧嘩することになったのか俺は知らない。二人の共通点と言えば俺のことを考えたが、だとしても何のことで?彩がに、俺に近づくなとでもふっかけたんだろうか。

しかしそれも彩が負けを認めたとなると彩はもう何も手出ししてこないということだろうが、は何を言って彩を打ち負かしたんだろう。





彩を振り返りもせず屋上を出た。もうは帰ってしまっただろうか。

試に携帯に電話をかけてみるものの、やはり繋がらなかった。行きに俺とすれ違っていないとうことは、屋上に行くまでの一本道を通った後回り道をして学校を出たのだろうか。それか、俺がどこかの教室にがいることに気付かず走り去ってしまったか。とりあえず今は近くの教室をしらみつぶしに探すしかない。

どうしても、今、に会わなければいけない。彩に何を言われたのか聞いて、ちゃんと俺が慰めてあげなければ。と一緒にいられるのは俺しかいない。それだけじゃない、俺にはが必要なんだ。





いくつかの教室を回って、ようやくを見つけることができた。その頃には既に俺の息も上がっていて、なかなか声を絞り出せない。

何回か大きく呼吸をしたあと、と名前を呼ぶと、窓の外を見ていたは不思議そうな顔をして俺を振り返った。



「仁王くん、どうしたの?走ってたの?」

を、探しとった」


一人で泣いているかと思っていたが、はいつもと変わらないように振る舞う。どうして?と首を傾げて聞いてくるものだから、俺のほうが動揺してしまいそうになった。



「さっき屋上で、彩と……話とったじゃろ」

「仁王くん見てたの……?」

「偶然サボっとるときに見えたんじゃ。偶然」

「そっかぁ」


はそう言ってから微笑んで目を閉じた。俺が見た喧嘩も、彩から聞いた喧嘩も、そんな穏やかな喧嘩の様子ではなかった。だけが全く関係のない人間のような振る舞いをするから、俺はのことがわからなくなる。



「てっきり、泣いとると思っとった」

「ははは、さっきまではちょっとだけ泣いた」

「……彩にキツいこと言われたか?」

「ううん、違うよ」


予想外の返答に俺はまた動揺した。だったら何故、と聞いていいのか迷う。



「私、彼女も傷つけたんだなって……巻き込んでしまったと思って、申し訳なく思えて」

「……」

「仁王くんと赤也くんと柳生くん、それに彼女。私、何人を巻き込んだら気が済むんだろう。全部自分のために……私がもっと強かったら、誰も巻き込まずに済んだよね」

「言っとる意味が俺にはよくわからん」


さっきから窓の外を見ている彼女がどんな表情をしているのかわからない。それでも、声が落ち着き払っているのが気がかりだった。



、さっきから思っとったんじゃが、名前……」

「名前?」

「俺のこと仁王くん、て……」

「だって、仁王くんは仁王くんでしょ?」


どくん、と心臓が高鳴った。俺はに試されているのか?何と答えればいい?俺はちゃぴだって、そう反論しなければならない?

いつものはここにはいなかった。今まで見たことも会ったこともないがここにいる。



「俺は……俺は」

「もういいよ!」


振り向いたは泣いていて、それなのに俺との距離は縮まらないまま。おかしな距離を保ったまま、会話を続ける。



「本当に、本当にごめんなさい!ごめんなさい仁王くん!」

、一体何の……」

「仁王くんはちゃぴじゃない!ちゃぴはもうこの世にいない!そんなこと、わかってるつもりだったのに、なのに、私は仁王くんの優しさに縋った!赤也くんと柳生くんにも縋った!彼女の希望を奪った!悪いのは全部私……」


両手で顔を隠し、泣きじゃくるをただ見つめることしかできなかった。いつから気付いてた?その疑問だけがぐるぐると頭から離れない。



……」

「私どうすればいいの?どうして私はこんなことしかできないの?私、私……」

!」


の身体がびくりと跳ね上がる。しゃがみこんだの目の前にしゃがんで、ゆっくりとを抱きしめた。抱きしめた瞬間、が息を呑む音が聞こえた。



「誰も、のことを責めたりしとらん。俺はに頼ってもらえて幸せじゃった」

「……仁王くん?」

「彩のことは、きっと、と出会ってなくてもこの先こうなっとったと思う。遅かったか早かったか、それだけじゃ」

「……」

に出会ったとき、俺は彩のことで結構まいっとった。部活も手につかんくらいには。そんなときが目の前に現れて、俺のこと生きる糧にしてくれて、俺もと過ごす時間が生きる糧になったんじゃ。俺と一緒におっても利益もなにもないのにって思ったとき、初めてこれが本当に人のこと好きになるってことじゃと気付いた」


の手が俺の背中に回ってぎゅっと抱きついてきた。その手の感触が心地よくて幸せで、俺は少し泣きそうになる。



「本当はもっと早くに言いたかった。でもは何も気づいとらんと思っとって……俺がちゃぴじゃないって知って、が傷つくのが怖かったんじゃ。それと同時に、俺からが……離れて行ってしまうのも怖かった」

「私ね、最初は本当に仁王くんのことちゃぴだって信じてたんだよ。本当にそっくりだから、信じて疑わなかった。でもそのうちにおかしいなって思うようになったの。犬が人間に生まれ変わるはずないとかそういうのじゃなくて、ちゃぴには感じない気持ちを仁王くんにたくさん感じることがあったから。私、今まで誰かのこと好きになったことなんてなくてわからなかったけど、きっとこれが、恋なんだって思ったの」

「すまんかった。結果的に、を傷つけることになった」

「そんなことないよ。元はと言えば、私が悪いんだから……。こんな姿ばっかり見せてちゃ、ちゃぴに笑われちゃうね」


の表情はもう笑顔で、ちゃぴのことは引きずっているのではなく、いい意味で思い出になったのだと思えた。

俺たちはしゃがみこんだまま額をくっつけあってクスクス笑う。穏やかな時間が流れた。






「仁王!どこにいるんだ!返事をしなさい!」

「!?」

「先生が仁王くんのこと探してる!?」

「さっきのアレか……」


いい雰囲気は先ほど俺を怒鳴ったであろう教師の叫び声でかき消された。まだ距離があるものの、ここが見つかるのは時間の問題だろう。



、先に出て逃げるんじゃ。面倒なことになりかねんぜよ」

「でも……」

『ワン!』

「「!?」」


が逃げるのを渋っていると、教室のドアの辺りから聞こえるはずのない音がして、俺たちは揃ってドアを見た。

そこにいたのは真っ白で大きな犬。直感でわかった、きっとこいつがちゃぴなんだ。



「ちゃぴ!?どうしてここに?」

『ワンッ!』

「おい、どこに行くんじゃ」


ちゃぴに近寄ろうと立ち上がるとちゃぴは教室を出て走って行ってしまった。俺とは手を取り合い、急いでちゃぴの後を追う。

教室から出ると廊下の曲がり角でちゃぴが嬉しそうに尻尾を振って顔だけ振り向いていた。捕まえられるもんなら捕まえてみろ、とでも言いたげないたずらっ子な表情。

再び追いかけるとまたちゃぴは走って行ってしまった。

それを繰り返すうちに教師の叫び声はだんだん遠のき、そのまま校門まで脱出することができた。



「ちゃぴ!どうして……」


校門でがちゃぴに触れようと手を伸ばす。ちゃぴに触れた部分は空を掴んだ。は悲しげな表情を見せたが、もっと悲しそうなのはちゃぴの方だった。クーンクーンと寂しそうに何度も鳴いている。



「私せいで天国に逝けなかったの?そうなの、ちゃぴ?」

『クーン』

「あの時公園にいたのもちゃぴだったんだね。ごめんね、私が弱いせいで……本当にごめんね、ちゃぴ」


の涙をちゃぴが舐めとろうとするもののそれは叶うことはなく、の流した涙は地面にシミをつくった。



「もう大丈夫だよちゃぴ。私は一人じゃないし、もし一人になっても……ちゃぴがいなくても大丈夫」

『クーン』

「だから安心して天国に逝って。ちゃぴのことずっと忘れない。ちゃぴはここじゃなくて、天国から私のこと見ていて」

『ワンッ!』

「いつか私がおばあちゃんになって、死んでしまったらちゃぴに絶対会いに行く。その時はちゃぴも私のこと見つけてほしいの。またちゃぴに会いたい」

『ワン!」』

「ありがとうちゃぴ、さようなら……」


が立ち上がりちゃぴから離れると、ちゃぴはその場でくるくると数回回って、それからゆっくりと見えなくなっていった。は泣いていたけれども笑顔だ。



「最後に本物のちゃぴに会えてよかったぜよ」

「そうだね。きっとこれからちゃぴは天国から見守ってくれるよね」

「俺が何かやらかしたらちゃぴに怒られそうじゃ。悪いことはできんのう」

「そうだね。黙って私にキスするとか、もうできないかもね!」

、どうしてそれ……」

「あー、やっぱりしてたんだ!」


けらけら笑っているに怒っている様子はなかったけれども、本当にこれからは悪いことはできないなと感じた。

笑っているを抱き寄せて強引に頬にキスする。口にしたらちゃぴに怒られそうだから、今はまだおあずけだ。

今でなくても俺たちにはまだまだ時間がある。おじいちゃん、おばあちゃんになるまで、何回でも、何万回でもしてやろう。

天国でちゃぴは悔しがりながら見ていればいい。これからは俺がそばにいて、のことを守っていくから。









さようなら、愛しい君
(もう私一人じゃないよ)






















ついに完結しました。
長編を完結させたのは初めてのことでありまして……(ごにょごよ)途中、何度も大丈夫かと不安になりましたが、未熟ではありますがとりあえず
形にはできて一安心。
ちゃぴが最後出てきたのは本当の意味で主人公がちゃぴを手放すことができたからです。
正直書きはじめるまで最後のあらすじは考えておらず、急に降りてきたネタを採用しました。
仁王との関係の行く先、そして今までちらちらとしか出てきていなかったちゃぴとの最後を書けたことにはそれなりに満足です。自己満足!
もともとはもっと仁王が酷い奴で、最後は冗談っぽくネタばらし(俺はちゃぴじゃない)する予定でしたが、予定通りに行かないのはいつものことでした^^
思っていたよりも仁王が主人公にぞっこんになりすぎて、からかう対象でなくなってしまったという(笑)

驚くほど開始から終わりまで時間がかかってしまいましたが、この作品を読んでくださった方々に感謝申し上げます。
最後、台詞が長くなってしまって読みにくくて申し訳ありませんでした。
もしかしてもしかしたら番外編を書く日がくるかもしれません。それはまたこの二人のお話を書きたくなったときに!




2013.09.19