王様の仰せのままに 02


 東京ヴィクトリークラブハウスへと出勤した私は、花壇の隣で足を止めた。経理担当として採用されたものの、私には花に水をやるという仕事も課せられている。出勤二日目にして水やりを放棄するという考えはなく、事務室に行く前に終わらせてしまおうとむしろ意気込んだ。
 荷物をどこに置くかもたついてしまい不審者のような行動をとってしまったけれど、周囲に人がいなかったのが救いだった。スーツ姿にじょうろはものすごく似合わないのだと、玄関のガラス扉に映る自分の姿を見て笑いそうにりながらも、水やりを開始する。

 スーツに園芸用品という組み合わせは視覚的に違和感しかない。それに加えてとても動きにくいということもよくわかった。一応スーツなので気を遣うし、万が一汚れたりするのも困る。そんなことを考え始めると、やはりこの仕事は私の仕事ではないのではという気持ちがふつふつと湧きあがってきた。新人とは言え二つ返事で引き受けてしまったのを若干後悔する。
 そして水やり以上に困ったのが、当然ながら選手の皆さんがクラブハウスに来ているということだった。昨日も恐らく彼らは練習のために朝からここに来ていたのだろう。選手のスケジュールを全く知らなかった私は、まさか自分の水やりの時間と彼らの到着時刻が被るとは予想していなかった。
 仕事をしに来ている以上、最低限の社会人のマナーとして挨拶は基本だと理解しているし、人見知りだとかそんなことを言っている場合ではないのもわかっている。でも「この人誰だ?」と言いたげな雰囲気を纏っている人達に対して挨拶をするのがなんとも気まずく、恥ずかしかった。想像していたよりも大勢の選手達がひっきりなしに駐車場からこちらへと歩いてくるのが見えて、眩暈がしそうになる。水やりも捗らず、撤収するにはまだ時間がかかりそうだった。

 「ちょっと君さ」
 「はい?」
 「このクラブの関係者の人?」

 奥のほうに置いてあるプランターに水をやろうと四苦八苦しているところに急に声をかけられて、声のしたほうを見るべきなのかまず体勢を整えるべきなのか混乱する。やっとの思いで振り返ると、声をかけてきた選手は何故か口元を手で押さえていて、何というか……今にも吹き出しそうな顔をしていた。

 「えっと、私、昨日入社しましたと申します」
 「昨日入社したさん?でもジャンパー着てないじゃん」
 「……事務室にあります!とってきます!」

 仮に勝手にクラブハウスに侵入して花壇の手入れをしている人間がいたとして、彼らに迷惑はかからないような気はする。それでも明らかに怪しまれている気配を感じてしまっては、無視することもできなかった。
 水やりを中断して事務室に走った後、自分の席の背もたれにかけてあったジャンパーをもぎ取り、玄関までUターンする。普段運動をしない私はそれだけで息が上がりながらも、腕を組んで花壇の横で仁王立ちしている彼の前まで戻り素早くジャンパーを羽織った。

 「これ、私の、です」
 「ぶはっ!急ぎすぎだろ!」
 「不審者扱いは困るので……」
 「なんだ、不審者じゃなかったんだ」
 「ち、違います!」
 「だって君あんな格好でさー……くく……だめだ、ウケる!」
 「……紛らわしいことをしてすみません。次からは気を付けます」
 「いやいや、こっちこそ疑ってごめんね。あー……朝から笑ったわ」

 頭を下げると彼は何事もなかったかのように玄関を通り過ぎて行く。彼の後姿を見送ってから、まだ水やりを終えていなかったのを思い出しじょうろに手を伸ばした。
 ジャンパーの効力に一安心したものの、先程のことを思い出すだけで顔に熱が集まるのを感じる。自分でもスーツ姿にじょうろは似合わないと気付いたところで、あんなにも大笑いされると落ち込むと言うより恥ずかしい気持ちになった。もしかしたらスーツにじょうろ以外にも何かおかしな点があったのかもしれない。だとしても、吹き出すほど笑われるとは余程だ。
 一人で大笑いする彼の顔を思い浮かべる。派手な髪色だったので一方的に選手の一人だと思い込んでいた。どこかで見たことがあるような気もしてくる。じょうろから最後の一滴が落ちるのを見届けながら、選手の名前くらいは知っておいたほうがいいのかもしれないと改めて考えさせられた。


* * *


 「朝から災難だったね」
 「私が悪いんですけどね……」

 顔を見せるや否や必死の形相でシャンパーを掴んで消えた姿が事務室で話題になっていたらしく、出勤した途端に皆さんから心配されてしまった。自分の失敗談だし恥ずかしい話なので気は進まなかったものの、職場に馴染みたい一心で先程の出来事を話す。同僚のみんなは笑うことなく、大変だったねと慰めてくれた。

 「たまーにさ、練習公開日でもないのに侵入するようなサポとかもいるからね」
 「……気を付けます」
 「まあでもそんなことで怒ってないでしょ、持田さんも」
 「持田さん?」
 「声かけてきたの持田さんじゃないの?」

 「あの人ゲラだからなぁ」と誰かが呟く。水やりをしていたらものすごく笑われたと説明しただけなのに、それだけで誰のことだか特定できるのは流石としか言いようがない。

 「あの方持田さんっていうんですね」

 私が呟くと盛り上がっていた事務室が急に無音になった。何かマズいことでも言ってしまったのかと辺りを見渡す。

 「さん、持田さん知らないの……?」
 「あ、はい」
 「いやいやいや!持田さんは知っとこうよ!花森と並んで日本の10番だよ!」

 隣の席の同僚が興奮気味に冊子を取り出す。確かに花壇で声を掛けてきた彼が冊子の表紙を飾っていた。ボールを蹴る姿は真剣そのもので、一人で大笑いしていた彼とは全く雰囲気が違っている。

 「花壇で会ったのこの人です!どこかで見た気がしてたんですけど、この人が持田さんなんですね」
 「持田さんも知らないのはびっくりだなー」
 「すみません、顔と名前が一致してなくって」
 「ははは、さん本当にサッカー詳しくないんだね」

 「よかったら中も読んでみて」と冊子が私の席に置かれた。ぱらぱらと捲ってみると写真だけでなく文字もそれなりに載っているので、休憩中にじっくり読ませてもらうことにする。冊子を捲る私の隣で、隣の席の同僚が持田さんについていろいろと教えてくれた。
 彼曰く持田さんはものすごくサッカーは上手だけど怪我で苦しんでいる時期も長い選手だと言う。普段は明るくてすぐ笑う、そしてよくわからないツボで大笑いしたりもするらしいけど、試合のときはチームメイトに結構キツいことも言うし性格が変わる、とのことだった。
 サッカーに一生懸命で悪い人じゃなさそうだけど、私の友人知人にはいないタイプの人だ。花壇でのことは恥ずかしかっただけで私自身笑われたことを怒っているわけではない。ただ、関わったことのないタイプである持田さんについて考え込んでいると、隣の彼が苦笑した。

 「朝のことは持田さんも深く考えてないと思うしさ、気にしなくていいって」
 「そうだといいんですけど」
 「よくわからないところで大笑いすることなんてしょっちゅうだしさ。王様の考えてることは俺たちにはわからないよ」
 「王様、ですか?」
 「そ、王様。たまにそう呼ばれてるんだよ」

 王様、と心の中で呟いてみる。腕を組んで仁王立ちをしている持田さんの姿が思い浮かんだ。私の妄想の世界でも彼は王様と呼ばれるのにふさわしかった。
 花壇での一件は持田さんが面白がっていただけのようだし、これ以上気にしても仕方がない。これから先、王様と関わることもほとんどないだろう。私の仕事はこのクラブのお金の管理であって、花の手入れでもなければ選手との交流でもない。まだ働き始めて二日目。こんなことでいちいち動揺したり迷惑をかけている場合じゃない、と自分に言い聞かせた。




























2016/06/13
2023/06/03 加筆修正