王様の仰せのままに 03


 私の仕事は花の手入れではない。そう自分に言い聞かせて数日、それでも毎日花の水やりを欠かすことはなかった。いつになればこの仕事から解放されるのか疑問ではあったものの、出勤すれば自然と足が花壇に向かう。日課のようになってしまえば、後は慣れでこなせる仕事ではあった。
 問題は選手達の朝の出勤ラッシュだ。花の相手は慣れてきても生身の人間はそう簡単にいかない。人の気配を察知すると自然と挨拶を口にできるようになったのは目覚ましい進化と呼べるだろう。でも相変わらず名前は覚えていないし、人数が多くて顔も憶えられない。挨拶に続けて軽い世間話ができるようになるのなんて遠い未来のことに思えた。
 緊張せずに話せるようになってきたのは、同じ事務室で働くメンバーくらいだ。まだ数日とは言え職場の雰囲気はよく、今のところ人間関係も良好に見えた。ただ一つ、私に花の水やり係を任命したこと以外は何の文句のつけようもない人たちだった。


 クラブハウスに到着したらまず事務室へ向かう。荷物を置いてジャンパーを羽織れば準備完了だ。持田さんに不審者扱いされて以来、必ずそれだけは守るようにしていた。クラブハウスに出入りする人たちが私の顔を覚えてくれればジャンパーも必要なくなるだろうけれど、まだまだその時期には程遠い。
 準備が終われば後は順番に全てのプランターに水をやっていくだけだった。慣れてしまえば15分もあれば終わってしまう。

 「みんなおはよう。今日は天気がいいね」

 小声で話しかけている相手は植物なので、反応も返事ももちろんない。プランターには色とりどりの花が咲いていて、花の種類や名前はほとんどわからないけれど、見ているだけで日々の疲れを癒してくれるような気がした。
 どのプランターにも花が植えられていて、私の知らないところで手入れをされているのは明白だった。ただ一つだけ、目を引くプランターがある。カラフルな花でいっぱいのプランターの中に何も咲いていないプランターが一つ。土が入れられているだけなのか、何か芽の出るような種が植えられているのかもわからない。
 私が出勤したあの日から、既にいくつか花の入れ替えが行われているプランターもあった。でもそれらは花の咲いた苗と植え替えられているので、色を欠かすことは決してない。ぽつんと一つ、このプランターにだけ色がない。あえて言うと茶色しかなかった。
 花の管理をしている方とは会ったことがないので、どのようなタイミングで花を植え替えるのかも知らないし、増してやこのプランターに何の種が植えられているか尋ねる術もなかった。もしかしたら何も植えられていないのかもしれない。でも、もし何か植えられていたら水をやらなければその種は成長できなくなってしまう。

 「誰かいますか?何か植わってますか?」

 相変わらず返事はなかった。何かここに植わっていたら、こんなことをしている私にも少しの救いにはなるので、できれば存在だけでもしていて欲しい。

 「いつになったら芽が出てくるかな?水が足りない?でもやりすぎたら腐っちゃうよね?」

 プランター相手に全て疑問形で話しかけている自分と、人間相手でなければこんなにすらすらと話せる自分に少し笑えてしまった。

 「返事がないのは仕方ないけど、何か咲いてくれたら嬉しいな。あとどれくらい待てばいい?」
 「ぶはっ!ちょ、何してんの?」
 「!?」

 じゃり、と誰かが地面を蹴る音。聞き覚えのある声。そしてそっと、私の左肩に手が添えられる。嫌な予感しかしなくて振り返ることができなかった。こんなところを見られる(聞かれる)なんて、タイミングが悪すぎる。

 「お……」
 「?」
 「お……おはようございます、持田さん」
 「おはよう言うのにどんだけかかってんの!」
 「……すみません」

 持田さんの大笑いする声が辺りに響いたけれど、幸い周りには他に誰もいなかった。とりあえず挨拶だけ返してみるものの、私の視線は未だにプランターを真っ直ぐに見つめている。パンツスーツでしゃがみこんだまま、私の左後ろにいるであろう彼のことを振り返ることができず、ひたすらにじょうろを握りしめた。

 「あ、あの」
 「何?」
 「いつから、そちらに?」
 「いつからかなー。水が足りないのかって聞いてたとこくらい?」

 言葉にできない絶望が押し寄せてくる。ゆっくりと、ホラー映画に出てくる主人公のような慎重さと確信をもって私は静かに振り向いた。そこにはセットしているのかしていないのかよくわからない髪型の持田さんが私同様しゃがみこんでいた。しゃがんでいるのにどうして上から見下ろされていると感じてしまうのかとか、威圧感がハンパないとか、思っていたより近くにいるとか、もういろいろとパニックになってしまう。

 「お、おはようございます」
 「それ、二回目!」

 一方の持田さんはご機嫌なのか、クククと堪えきれていない笑いを漏らしていた。

 「さんってさ、不思議ちゃんなの?」
 「そんなことは……」
 「だってさぁ、花に話しかけてるとかもう……ククッ」
 「あああ!やめてください!」

 恥ずかしくなって勢いよく立ち上がる。持田さんは不思議そうな顔で私のことを見上げているけれど私は恥ずかしくてもうここにはいたくないし、持田さんと一緒にもいられないと思った。
 私は断じて不思議ちゃんなんかじゃない。ただ日々の癒しを花に求めてしまった結果がこれだ。上手く説明できればいいものの、それができれば苦労はしない。こんな場面で持田さんを納得させられるような理由を口にできる自信がなかった

 「私、戻ります!」
 「え?」
 「すみません!失礼します!」

 それこそ逃げるように私は花壇を後にした。一度も持田さんを振り返ることなく事務室に戻ったので、彼がどんな顔をしていたのかもわからない。
 勢いに任せて事務室に戻ると、既に出勤していた人たちの視線が一気に私を貫いた。気まずくて一瞬固まったところで隣の席の彼が一言「じょうろどうしたの」と呟き、その後部屋は大爆笑に包まれることになる。持田さんがと言い訳することもできず、その場は曖昧に笑ってごまかした。しかし残念ながらこの日を境に事務室で私が天然と言われ始め、働き出して間もないのに変な立ち位置を確立してしまった。




























サッカー選手がクラブハウスに行くのは「出勤する」と言うのでしょうか…
2016/08/21
2023/06/03 加筆修正