パソコンの電源をが落ちたのを確認してからうんと伸びをする。
同時に出た深いため息は、仕事の疲れとこれから起こるであろう出来事に対してのもの。
着ていたジャンパーを椅子の背中にかけてからお疲れ様でした、と一礼して事務室を出た。



*王様の仰せのままに 22*



今日は選手の人たちは午前中しか練習がなかったようで練習場も駐車場も既にがらんとしている。
持田さんも帰宅済みなので彼のマンションへ向かおうとしたものの、足どりは重かった。
ふと視界にいつも水やりをする花壇が飛び込んでくる。
今日は遅刻しかけたせいで朝に水をやれず、その後も例の熱愛報道のせいですっかり頭の中から花壇のことが抜け落ち、結果的に私は初めて水やりをサボった。
花の手入れをしてくれているという人は今日来たんだろうかと考えながら、一番気にかけているプランターに目をやるものの相変わらず変化はない。
この謎の植物と自分を重ねてしまってまた溜め息が零れた。
もしこれから手入れをしてくれている人を見かけることがあれば、このプランターに植わっている謎の植物をわけてもらえないか相談してみよう。
せめてこの植物が綺麗な花をつけるのを毎日見守りたいと思った。



クラブハウスの最寄駅から自分の家とは反対方向の電車に乗る。
持田さんのマンションの最寄駅へは15分ほどで到着した。
マンションまで歩きエントランスに入りコンシェルジュの方と挨拶を交わし、いつも通りエレベーターに乗って気が付けばインターフォンを押していた。
持田さんはリラックスモードの格好で無言でドアを開けてくれる。
既にその無言の空気が重くて、私は何もわかっていないことを装うようにへらへらしながら彼に声をかけた。


「お会いするのは花壇で会った時以来ですか」
「まぁ」
「あんまり連絡もなかったので、ちょっとだけ心配してました」
「ごめん」


持田さんの口から飛び出た謝罪の言葉にハンドバッグを落としそうになりながら、熱でもあるのかなと彼の顔をチラ見する。
次の瞬間「何か文句あんの?」と小言が飛んできたので、目の前にいるのは間違いなく持田さんだと安堵した。

リビングに入るとあんまり食欲がないから軽い物が食べたいと言われて、私はいつもの部屋着に着替えてから適当に冷蔵庫にあるものを具材にあんかけうどんを作った。
いつ話を切り出そうか迷うものの、持田さんはずっとうどんとテレビを交互に見つめるだけ。
なんとなく彼女のことを聞くのが気まずかった私は適当な話題はないかとうどんを啜りながら考えた。
一人思考を巡らせていると以前お付き合いを断った例の男性とのその後を持田さんに報告していないことを思い出して、恋愛ネタだし丁度いいと報告することにする。


「あの、私持田さんに言ってなかったですよね?」
「何を?」
「友人の紹介で知り会った男性とのその後です」
「……聞いてないけど」


持田さんの視線がテレビから私へと移り、射抜かれるんじゃないかと思うくらい真っ直ぐ見つめられる。
つまらない報告になってしまうけれど持田さんは男性とのことを知る数少ない人なので、今後のためにも彼には報告をして意見を聞きたいと思っていた。


「びっくりだったんですけどね、その人とご飯に行ったお店が前に持田さんに連れて行ってもらったお店だったんです」
「へぇ」
「すごい偶然ですよね、でもその人と何を話してても持田さんと店に来たことが頭を過って初めてを装うの大変だったんですよ。全く会話に集中できなかったです」


失礼な話ですよね、と言うと彼は目線を外してから小さな声で同意する。


「その人を見てると全部持田さんと比較しちゃって。最終的にはお付き合いしてくださいって言われたんですけど……断っちゃいました」
「は?」
「断ったんです。絶対婚期逃しましたよね」
「何で断ったの?」
「悪い人だったとかじゃないんですけど、単純に……持田さんと一緒にいるときのほうが楽しかったので。そんなこと考えながらその男性とお付き合いするのは失礼だと思ったのと、後は気を遣うのに疲れちゃって」
「猫被ったってこと?」
「そこまでじゃないですけど……素の自分ではなかったです。お付き合いしてたらいつかはその人とも素で話すことができるようになるんでしょうけど、それまで窮屈な思いをするって思うと……もう一人でいーやって思っちゃいました。持田さん、私その人とお付き合いするべきだったと思いますか?」
「なんでそんなこと俺に聞くの」
「これからの参考にしようと思ってます」
「ふーん」


持田さんは少し考えてからハッと鼻で笑った。
そんな彼の反応に苛立ちを覚えるどころか、いつもの彼に戻ったような気がして安心する。


さんが付き合いたくないって思ったんなら付き合わなくていいじゃん。って言うかだいたい俺と比較したら他の男なんて霞んで見えるって」
「そ、そうですかね」
「収入あるし有名人だし、まあ見た目も別に悪くないし?」


性格はどうですかね、とは言えなかったけど持田さんはなんだか嬉しそうだった。



* * *



「風呂入ってくるわ」
「いってらっしゃい」


リビングでテレビを見ていた持田さんが立ち上がってバスルームへ行くのを見送ってから、私はテレビを消した。
あの後は重い空気になることもなくいつものように談笑して過ごし、ついに持田さんは彼女のことに一切触れることなくお風呂へ行ってしまう。
私のことを報告した流れで俺も……と話してくれるとばかり思っていたから食事中は少しどきどきしていたけどそんな素振りは全く見せなかった。
お風呂に入ったら持田さんはリビングで少し過ごしたあとそのまま寝てしまうので、この後どのタイミングで彼女の話題を突っ込んでくるのか全く予想できない。
だいたい、持田さんが今日は絶対家に来いと誘ってきたから私もそれなりの心構えをしていたのに、これじゃあただ私の報告をしただけで何のために持田さんから呼び出しがかかったのかまるで意味がなかった。
それにいつもの流れだと私は今晩もここに泊まることになる。
そんなつもりは毛頭なかったし持田さんに彼女がいる今そんなことができるわけもない。
とりあえずここに泊まることはできないので持田さんが寝ようとしたら私から話を切り出すしかないのかな、とこれからのことを思って溜め息が出た。


今日のこの後のことを考えながらソファでごろごろしているとリビングに誰かが入ってきた気配がして、持田さんがお風呂から出てきたんだとなんとなくそっちの方向に目をやる。


「ちょっと!?も、持田さん!?」
「何?」
「ななな、なんて格好してるんですか!?何か着てくださいよ!」


いつも部屋に入ってくるときはスウェット姿の持田さんがあろうことかパンツだけの格好でタオルで頭をがしがし拭きながらリビングにいた。
まさか私がいるのを忘れたわけじゃないし、彼女さんと間違えてるとか……ないないない!
反射的に目を背けてからソファの背もたれに隠れる。


「ちゃんとパンツはいてるじゃん」
「当たり前ですよ!全裸だったら捕まりますよ!」
「いや、ここ俺の家だし」


持田さんがどこにいるかわからずそっとソファから顔だけ覗いてみると、かなり接近していて驚きのあまりソファから滑り落ちた。


「あの、さすがにドキドキするんで!何か!何か着てください!」
「ドキドキすんの?」
「しますよ!」
「何で?」
「何でって……は、裸だからですよ裸!」


そもそも男の人の生身の身体なんて学生時代の体育以来ほとんどお目にかかっていない。
これがもし自分の父親みたいなぽっちゃりとしたビール腹だったら笑い飛ばせるのに、持田さんの鍛え抜かれた身体は男性を意識してしまって恥ずかしさしかなかった。
こんな歳にもなって男性のパンツ一丁姿に騒ぐのもどうかしてるけど、見慣れていないものは仕方がない。


「スウェットどうしたんですか~!」
「知らない」
「知らないってそんなこと……」
「こんなことに反応してくれるなんて良い意味で予想外」
「からかわないでください!」
「えーなんかごめん。じゃあこれで許してよ」
「え?あの、何を……んッ!?!?!?」
「さっき俺見てドキドキするって言ってたけどさ、俺さんが服着ててもいつもドキドキしてるんだよねぇ」


ファーストキスはあっけなかった。
逃げようと思えばどうにかなったかもしれないのに拒むような体勢が取れず、結果的に受け入れるような形であっさりと終わっていた。
既に全裸みたいな格好の持田さんはキスした後そのまま私を組み敷いてこっちを見下ろしているし、何が何だかわからない。
冗談じゃないとすれば、今私の身に危険が迫っていることは確かだった。
これまでがおかしかったんだと、いくらこんな経験がないからって持田さんのことを男として見ていなかった自分を悔やむ。
私のことを持田さんはずっとこんな目で見ていた?餌が自ら罠にかかりに来るのはとても面白かったに違いない。
やっぱり私は暇つぶしだったのかもしれないと心の奥で声がした。


「はなしてください!変態!最低!」
「そこまで言わなくていいじゃん、まぁ順番逆になったのは悪かったけど」
「持田さんがしてることは最低です!私のことも、彼女さんのことも裏切る行為です!本当に……最低!」
「はぁ?」


手首を掴む力が強くなったのもお構いなしに私は続けた。
思わず涙が零れる。
こんなところで泣いたって解放してくれないのはわかっているけれど、黙っていられなかった。


「今朝見ました!サタデーされてましたよね?彼女さんここに出入りしてるんですよね?」
「あーもーまた……あのさぁ」
「こんなことして、彼女さんにも申し訳ないと思わないんですか?」
「だからあれは」
「言い訳なんか聞きたくないです!今ここに彼女さんが来たら一体どう説明するつもりなん」
「あーーもーーうるさい!説明してやるから黙って。……サタデーされたの、誰かさんじゃなくてさんだぜ?」
「……はい?」
「あれモデルYだと思ってんの?あの写真、どう見たってさんじゃん」
「あれが私……?」
「そーいうこと。それにここ最近……ってかさんと知り合ってからは他の奴誰も家に入れてないし」
「え?」
「だからサタデーは、俺とさんの熱愛報道をスクープしてんの」
「私とモデルさんを見間違ったってことですか?」
「普通じゃ考えらんないけどね」


持田さんは何の証拠だって出していないのに、あれは私だったと言われるとそんな気がしてきて言い返す気になれなくなる。
だとしてもこの状況は意味がわからないし、安堵できるような心境じゃなかった。


「だとしても、持田さんにこんなことされる理由ないです」
「何で?彼女いないしいいじゃん」
「よくないです!……暇つぶしの、つもりなんですか?」
「は?ふざけてんの?」
「ふざけてないです!」
「俺はさんのこと好きだからこうしてるだけ。他に何か理由いる?」
「!」


好きだからこうしてるだけ。持田さんに言われて思わず抵抗する力を弱めてしまう。
持田さんが?私を?何で?
聞きたかったことは言葉にできなくて、ただ彼を見上げるしかできない。


「本当は一番初めに言ったほうがよかったんだろうけどさー、俺さんのこと好きだからね」
「あの、でも、私」
さんも俺のこと好きなんでしょ?だったら問題なくない?」
「私が持田さんのこと……?」


好き?嫌いではないけれど、わからない。
好きか嫌いかって聞かれたら好きだけど、そういう意味の好きじゃない。


「……私いつそんなこと言いましたか?」
「えー、あの男との報告は、俺に対する告白なんじゃないの?」
「何でそうなるんですか?」
「あいつより俺のほうがいいって言ったじゃん」
「確かにそうは言いましたけど……」
「ねぇ、さん俺のことぶっちゃけどう思ってんの?」
「……どうって。優しいし一緒にいたら楽しいし、でも心配になったりサタデーの記事にちょっと寂しくなったりもしましたよ。なんだか私、持田さんを見てると母性を感じずにはいられないみたいで」
「はぁ?それ母性じゃないじゃん」
「違うんですか?」
「違うと思うけど。ほら、やっぱ俺のこと好きなんじゃん、ぶはっ!」


持田さんが吹き出しながら笑ったのを見たのは久しぶりだった。
なんだか誘導尋問みたいになっているけど、あれは母性ではなくて持田さんのこと意識してたってこと?
サタデーの記事見て嫉妬してた?あんな綺麗なモデルさんに?


さんだいぶ末期だしもうこの際だから言うけどさー、俺さんに対しては本気だしさんが何と言おうと付き合ってもらうから」
「私と付き合うんですか?」
「あいつのことフッたんでしょ?じゃあいいよね?」
「そういう意味では……あの……ん、ちょっと!」
「キスされてムカつく?平常心保ってられる?」


こんなこと言われて平常心を保っていられるわけがない。
今押し倒されているからだとかそんなことは関係なく、今までの持田さんの行動に意味があったってことや、いつからかはわからないけど私のことを想ってくれていたのだと思うと途端に胸が締め付けられるような気がした。
心臓はものすごい勢いで脈打っているのに、恐ろしい意味での緊張とは違って少し心地いい気もする。
これが人を好きになるっていうことなのかもしれないと初めての感情に少し戸惑った。


「あーもー……無理、もう限界」
「も、持田さん?」
「俺変な性癖とかもないしオススメ」
「かっ、勝ってにキスしといて何言ってるんですか!」
「だからこっちはちゃんと聞いてんじゃん」
「……あの、もし許可したらどうなるんですか?」
「即ヤる」
「こ、断ったら!?」
「ちょっと考えてからヤる」
「ひどい……!」
「はぁ?さんのほうが酷いじゃん。普通鍵渡したくらいで確信するよ?家に来てても普通だし、意識されてる様子もなかったし、俺が今日強行突破してなかったら俺ら一生平行線だったんだけど?」
「すみません……」
「何か月我慢したと思ってんの?今まで何もしなかっただけ褒めて欲しいね」
「うっ……」
「まさか誰にでもこんなことするとか思ってんじゃないよね?そんな面倒なことしないし、そうじゃなくてもさん相当面倒くさかったから」
「何も言えません……」


全く自覚のなかった私は男の持田さんから見て意味不明なこともたくさんしたと思うし理解できないことだらけだったと思う。
それでも優しく接してくれたり、途中で変なことをせず気持ちを伝えてくれたことは感謝しかなかった。
先にキスされたのは少し悔しいけど、今は喜びと充実感のようなものでいっぱいだし、ああしてくれなかったら私は持田さんへの恋心をずっと母性と勘違いしていたかもしれない。
自分の経験値のなさと鈍さに呆れていたら持田さんの手が頬をすっと撫でた。
ゆっくりと顔が近づいてきてこれから起こることを考えてしまった私は、咄嗟に目をぎゅっと閉じる。


「わっ、えっ、ちょっと!」
「残念でした~ちゅーはしてやんない。お預け」
「いえ、あのっそうじゃなくて」
「続きは向こうでね」


予想していたことが起こらなかった変わりに私の背中とお尻に手が伸びてきて、素早く抱きかかえられた。
子供が抱っこされるみたいな形で体が持ち上がって、持田さんにしがみ付く形になる。
言葉の意味を知った私は小さな声で待ってください、持田さん、落ち着いて話しましょうと話しかけてみるものの全く彼は動じなかった。





















2017/01/18