いつも通りに起床して家を出る準備を始めた。ふとソファに人が寝ているのが目に入って、コイツが昨日から家にいるのを思い出す。元々面倒くさいと思っていたのに、いざ本当に人質を家に置いておくとなると面倒くさいどころの話ではなかった。九井には悪いが、早くもこの計画の破綻が見えてきたかもしれない。何よりもオレの気がもちそうになかった。
まだ救いだったのは拉致してきた女が想像以上に大人しかったことくらいだ。部屋に連れて来てから様子見も兼ねて監視していたものの、まるでオレなんかその場にいないかのようにテレビの前のソファで座り込んで丸くなっていた。こういうことが起きると犯人の機嫌をとろうとしてくるような奴もいるらしいが、そういう素振りもなかった。大声を出すこともなければ発狂して暴れたり、物に当たったりもしない。そんなことをした時点で声は出せなくしてやるし、やめときゃよかったと後悔する羽目になるので賢明な判断だ。
ホワイトアウト 04
1日くらい食べなくても死ぬことはないが覚えているうちに餌を与えておこうと、近所のコンビニで買ってきた食糧を置いておく。コンビニに出かけている間に家から消えていてくれないかと淡い期待を抱いたものの、帰宅しても何も変わらず女はソファの上に横たわっていた。オレの物を使われるのが嫌で渡しておいた毛布を頭から被り、どっちが頭でどっちが足なのかすらわからない。
コンビニから戻った後も起きる気配を見せなかった人質を横目に、何も告げずに家を後にした。地下駐車場から外に出て、適当に近所のパーキングに駐車する。今日はここで女を試すべく待機だ。住人の目があるので1日中玄関前に居座るわけにもいかず、現状これが最善策だった。マンションの正面玄関はこうして車の中から張っているし、正面玄関以外の唯一の裏の出入り口は監視カメラの映像を拝借して、ダッシュボードに置いてあるノートパソコンに映し出している。素人相手なら出入り口を固めるだけで十分だろう。オレの部屋の中に直接カメラを置いて監視するのが一番楽なのはわかっているものの、このようなことができる技術を持つ人間が組織にいるので、できれば避けたかった。安易にオレの部屋にカメラを置いて、それを組織の人間に利用される危険に晒すのは御免だ。
監視して試すと言っても、オレ自身としては逃げてもらっても構わない。報酬が1/10になろうが早々に問題を片付けたい気持ちも少なからずあった。元々オレの家に人質を連れ帰る案には反対だったし、人質が逃げれば殺したとしても理由にはなる。組織絡みでなければ、こんな案件とっくに投げていただろう。ただ、報酬はそのまま組織の中の信頼も落とすことなく、当初の計画通りに事を運ぶのが一番平和的なのも理解していた。面倒事が最小限に抑えられるのならそれに越したことはない。
これはある意味女への賭けだった。あえて家の中で女は拘束せず自由にしてある。拘束のないのを利用して外に逃げて、予告通りオレに殺されるか。それともオレの影に怯えながら大人しく迎えを待つか。今の女にとって自由は足枷であり、判断を狂わせる材料だ。どちらに転んでもおかしくはない。オレはどちらでも構わないし、何が起こっても全て女の所為にしてこの件は終わらせることができる。九井がこれを知ればあれこれ言うだろうが、実行役をオレ一人に任せた奴のミスだ。
* * *
狭い車内に何時間も缶詰状態だったオレの身体は、19時を過ぎた辺りで音を上げた。ここまですれば十分だろうとすぐ目の前の自宅の地下駐車場へと車を走らせる。ものの数分で到着し、エレベーターで自宅のある階まで上った。これで女の姿がなければ笑いものだ。
何気なく玄関の鍵を開けようとすると、既に開錠されていた。確かに施錠して出てきたはずだ。不審に思いもう一つの鍵を確認しても、やはり開錠されている。
「クソッ!」
あの女逃げやがった!オレが見落としていたのか、それともどこか別のルートか?拘束しておくべきだったと後悔してももう遅い。こうなったらもう一度見つけ出して始末するだけだ。逃げられたら逃げられたで面倒であるのはわかってはいたが、これでこの計画は終了。幹部にあれこれ文句を言われる可能性はあっても、元々面白半分にしか思われてない案件だ。後片付けさえ綺麗に終えれば笑い話になるだけだろう。
玄関の扉を開けると女の靴は置いてあるままだった。裸足で逃げたのを想像して舌打ちしながら室内に入る。九井に連絡するべく携帯を取り出しリビングに向かうと、ソファの上に何か転がっているのが見えた。大股で近づいて様子を窺う。
そこにあったのは、オレが家を出る前と変わらない人質の姿だった。毛布を被ってはいるものの顔は見えていて、オレからすれば呑気に眠っているようにしか見えない。大きく溜め息を吐きながら携帯をベッドに投げ捨てた。
結局女は逃げない選択をしたようだ。逃げられる事による面倒は避けられたと同時に、ここに残られる面倒が残った。もうどうにでもなれという気持ちになってくる。
風呂に入ってからベッドの上でパソコンを起動させた。普段ならソファを使うが、そこをどけと女に声を掛けるくらいならこれでいい。
しばらくして視線を感じて顔を上げたところで、黙ってこちらを見つめている人質と目が合った。視線をパソコンに戻しながら、昨日ぶりに声を掛ける。
「逃げようとしただろ」
「……」
「玄関の鍵が開いてた。あれはテメエの仕業じゃねぇのか?」
言ってから睨みつけると女が唇を噛むのがわかった。図星のようだ。
「何故逃げなかった?」
「……逃げようとしました。でも、できませんでした……怖くなって」
「逃げなかったのは賢明な判断だ。もしそのまま実行に移してたら、見張らせてた部下がオマエを殺ってた」
若干嘘を交えながら話す。女が顔を強張らせ、視線を彷徨わせた。
「ごめんなさい……もうしません」
「もうしませんだぁ?オマエ、命は一個しかねぇんだぞ?」
「……」
「今回だけは見逃してやる。だが次同じようなことしてみろ、『もう』はねぇからな?」
ソファの上で縮こまった女は何度も頷いた。こんな風に脅しておきながら、一方で内心逃げてもいいと思っているだなんて酷く矛盾している。
いい加減、自分の中で方向性を決めて腹を括るべきだ。このままどちらに転んでも、というどっちつかずな考えで計画を進めていれば、いずれ自分で自分の首を締めることになりかねない。どこかで必ず選択を迫られる時が来るだろう。決心する期限はもうとっくに切れてると言っていい。
「拘束しなかったのはオレなりの優しさだったわけだが、自由を与えすぎたな」
「もう逃げようとしたりしないです!あなたの言う通りにします!だから……」
こうしてまた一つ、心理的に人質を縛った。そして明日からは物理的にも人質を縛る。
今日の女の行動で人質を逃がさずに計画を終える、当初のプランを遂行することをたった今オレは決意した。女の台詞が本心かなんて関係はないし、信用もしていない。オレはこいつを逃がさないように動くだけだ。殺す選択肢を取らなくていいように、逃がさない前提で事を進める。それでももしものことが起これば、そこから先は全て女の責任でしかない。自分自身に罪悪感を抱えながら死ねばいい。
2023/06/10