ラストステップは鮮やかに 後編
「オレさんと方向同じみたいだから、途中まで送ってから帰るわ」
「部長もう帰っちゃうんですかー?」
「納期近い仕事あるし、帰って続きやらねぇと」
「大丈夫か?」と声をかけながらさんの顔を覗きこむ。彼女は俯き気味に頷いた。みんなは彼女が酩酊状態だと思っているようだけれど、彼女は酒の所為でこうなったわけじゃない。酔っぱらってはいるものの意識はしっかりしているし、一人で帰宅できないほどでもなかった。だからと言って演技しているわけでもない。恐らく、別のことで頭がいっぱいなだけだ。
そのまま元部員たちに別れを告げて、オレとさんはゆっくりと歩き始めた。方向が同じだと言ったのは適当で、彼女の家の場所は知るはずもない。それでも彼女は行先も聞かず、黙ってオレに続いた。
オレが納期の近い仕事を抱えていることだけは事実だったので、とりあえず徒歩圏内にあるアトリエを目指す。タクシーを拾ってもいいけれど、今はできれば二人で話がしたい。先程の話の続きを。
しばらくお互いに黙り込んだままだった。何か切り出すべきなのはわかっている。でも、自分のことをどう思っていたかなんて聞いた後に続ける言葉を、簡単には選べない。
もう一度先程の質問を投げかけるべきなのか。それとも全く違う話題で空気を変えたほうがいいのか。前だけ見て歩みを進めるオレの服の袖が掴まれたのは、悩んでいる最中の出来事だった。
「…さっき、部長のことどう思ってたのかって聞きましたよね」
「…おぅ」
「覚えてるかわからないですけど、昔一度、学校の外で部長に助けてもらったことがあって」
さんが当時を振り返る。学校が休みの日に原宿で友達と買い物をしていた彼女は、悪気なくぶつかってしまった男に因縁をつけられて、友達と二人で困り果てていたと言う。そこに偶然通りかかったオレが声をかけ、二人をその場から逃がしたらしい。
そんなこともあったとは一応記憶している。でも当時は喧嘩三昧の日々だったし、後日学校内でお礼をしてきたさんが何だか気まずそうにしていて、どちらかと言うとそっちのほうが印象に残っていた。
「他の通行人はみんな見て見ぬふりで、泣きそうになってたところに現れて助けてくれるなんて、格好よすぎでしたよ」
「知り合いが絡まれてんのに、ほっとけねぇだろ普通」
「…ですよね。でもきっと部長は私じゃなくても…例え知らない人でも助けるじゃないですか。そこが部長のいいところなんですけど、私みたいな人ってたくさんいるんだろうなって」
掴んでいた袖を離し、さんは一歩後ろに後ずさりした。何を言われるのか全く予想できない。このまま走って逃げられてしまわないだろうかと不安が募った。寂しそうな顔で笑った後、彼女は真っ直ぐにオレを見上げる。
「結論を言うと、私も部長に憧れてた一人でした」
「…本当に?」
「こんな雰囲気で嘘なんか吐けないで…ッ!?」
言い終わる前にさんを抱きしめた。耳元で彼女の息遣いだけが聞こえてくる。体温を感じているのが自分でも信じられなくて、確かめるように腕の力を強めた。
「あの…」
「ゴメン」
「…?」
「さんに言わせてゴメン。狡いよな、オレ」
身体を解放して視線を合わせると、さんの瞳が潤んでいるのがわかった。このままでは勘違いさせてしまう。彼女の気持ちを聞いた後でこんなことを言うのは情けないと思いつつ、それでも自分の気持ちを言葉にするのは緊張した。
「…中学の時からさんのこと好きだったんだ。飲み会で会うの楽しみにしてたけどいつも会えなくて、今日久しぶりに顔見て話したら、やっぱり好きだと思った」
「…嘘」
「こんな雰囲気で嘘なんか吐けねぇよ」
さんに言われたことをそっくりそのまま返す。口元を手で覆った彼女の瞳は潤んだままだ。でもその涙は、先程とは違う意味の涙だと思いたい。
距離を詰めて自分の額とさんの額をくっつける。自然と上目遣いになって瞬きを繰り返す彼女は、至近距離で見ても可愛かった。
「さっきさん『憧れてた』って言ったけど、もう過去形になった?」
「…そういう意地悪なこと言わないでください。本当に狡いです」
二人してクスクス笑いあう。そうしていると数メートル横をチャリが走り抜けて行くのが見えて、既に何もかも見られた後だというのにどちらからともなく跳ぶようにして距離を取った。また笑いが込み上げてくる。
「いい歳なのにやってることは中坊と変わんねぇな」
「酔った勢いってやつですね」
「他人事みたいに言うけど、さんも共犯だから」
素面だったら、一般道でイチャついたりなんか絶対にしないだろう。いくら幸せの絶頂にいるとは言え、道路上で醜態を晒すのはよろしくない。兎に角場所を変えたほうが良さそうだ。
さんを家まで送るか、それともどこか寄り道するか迷ったところで、今ここで彼女を帰したくないという気持ちが一番強かった。
「さっきから勝手に歩いてるけど、実はもうちょっと歩いたところにアトリエがあってさ」
「こんな近くだったんですね」
「偶然ね。さんの家の場所とか知らないしとりあえず目指してたんだけど、よかったら今から来る?」
「いいんですか?」
「仕事場だから特に何があるってわけでもねぇんだけど」
同じ職種なこともあってか、さんはとても喜んでくれた。大した物があるわけでもないし、どちらかと言うと散らかっていて人を招くような場所ではない。それでも、自分が今どんな風に仕事をしているのか、中学生の頃からどう進歩したのか、知ってもらうのは悪くないはずだ。
さんを招待すると言ったものの、アトリエにはこれといった食べ物もないし、飲み物も最低限しか置いていない。住んでいるわけではないので、必要なものは都度買うようにしていた。今日も飲み会に向かうまでは仕事をしていただけなので、今部屋にあるのはコーヒーと水のペットボトルくらいだ。
コンビニに寄ることを提案して、一番近くにあった店に入った。アトリエに何もないことはさんにも説明してあったので、適当に食べ物や飲み物をカゴの中に放り込んでいく。
会計をしてくると声をかけた後、脳裏にふとある物の存在が過った。この店内にはあるけれど、アトリエには置いていない。
必要か、必要でないか、悩みに悩んだ。全ては雰囲気でしかない。気持ちを確かめ合った今、タイミングとして適切かどうかは別として、そういうことをするのは悪い事ではない、はずだ。アトリエ周辺にもコンビニはあるので、必要になってから準備する選択肢もある。でも、全ては雰囲気だ。
レジ付近の新作スナックを見ていたさんの横を通り抜けて、ある棚を目指す。お目当ての箱を手に取り、カゴの中の商品の隙間に捻じ込んだ。何食わぬ顔で戻った後、彼女が眺めていたお菓子も一つ追加して、店員にカゴを託した。
コンビニを出た後タクシーに乗るか尋ねると、さんは徒歩を選択した。ここからアトリエまでは歩いて10分程かかる。それでも構わないと言うので、コンビニの手提げ袋を持っている方の反対の手で彼女の手を握った。恥ずかしそうにはにかみながら、手が握り返される。
「部長って酔うと性格変わる人ですか?」
「そう思ったことねぇけど。何で?」
「何だか今日の部長、私の知ってる部長と違うなって思って」
「どこらへんが?」
「大胆っていうか、グイグイくるっていうか。正直嬉しかったですけど、中学の頃ってこんな感じでした?」
「あの頃は下手に動いて、悪い方に変わっちまうのが怖かったっつーか…」
「あー…わかる気がします。でも、お酒の所為じゃないなら安心しました」
正直酒の所為ではないと言いきれなかった。次に会う機会があるかわからないという不安や焦りはあったものの、当たって砕けるのもやむなしとした一連の大胆な行動は、酒の力による影響もある。
だとしても恐らく、さんが言いたいのは飲酒することにより笑い上戸になったり怒りやすくなるみたいな、そういう変化を指しているのだろう。酒を飲んだからと言って、オレは誰彼構わず勘違いさせるようなことや、告白して回ったりするようなことはしない。
「さっきさ、昔原宿でさんが絡まれた話してくれただろ?『知らない人でも部長は助けると思う』って。確かに助けると思うよ」
繋いでいた手を引っ張る。油断していたさんは簡単に引き寄せることができた。そのままほんの一瞬、軽く唇を合わせる。
「でも何とも思ってない奴相手にこんなことしねぇよ」
「…ふふっ」
「何?」
「すみません。お酒の所為じゃないなら尚更、他の子に勘違いさせるようなことしちゃダメですよ?」
「だからしねぇって」
中学生時代にもしさんと付き合っていたとしたら、なんて妄想してみる。毎日こんな風に茶化しあったり、じゃれたりして過ごしていたんだろうか。当時のオレでは全くこんな姿は想像できなくて、苦笑が漏れた。あの時のオレはまさか未来の自分が、こうしてさんと手を繋ぎ、大人げなく道端でキスするなんて思いもしなかっただろう。
こんな調子で歩いていると、あっという間にアトリエのあるビルの入り口に到着した。そのままさんの手を引いて、アトリエのある階に行くべくエレベーターに乗る。もちろん手は繋いだままだ。
エレベーターという密室の中で、オレたちは言葉を交わすことなく扉の方を向いた。到着するまでのほんの数秒なのに、壁に囲まれた狭さの所為か落ち着かなかった。主にオレが何かおかしなことをしでかしそうで、変な気を起こさないよう自分自身に言い聞かせる。
無事に目的の階に到着した途端、扉が開いてすぐエレベーターから飛び出すように外に出た。不思議そうなさんの視線を振り切り、何もわかっていないフリをして鍵を探す。
「人を招待できるような部屋じゃねぇから、覚悟して」
「そんなにですか?仕事部屋なんてある程度は散らかってるものですよ」
保険をかけるようにして一言忠告した後に、扉を開けた。当たり前のように、飲み会に行く前と同じ景色が広がっている。戻って仕事の続きをしようと思っていたのは事実なので、作業台の上は布が広げられたままだ。散らかってはいるものの、昼食の時のゴミを処理してから飲み会に向かった自分を褒めたい。
「わぁ…!すごく雰囲気いいですね」
「そう?仕事の続きする気でいたし、ぐちゃぐちゃのまま出てきちまったから」
「全然です。個人の仕事場って感じがして憧れます。でも、私入れちゃってよかったんですか?」
「仕事の話外で漏らすようなことしねぇだろ?」
「それはもちろんです。これ、見てもいいですか?」
「どーぞ」
さんは先程とはまた違った意味で目を輝かせていた。資料を眺めたり布を触ってみたり、この子も本当にこの仕事が好きなんだなと思うと、頬が緩む。
数分間の質問タイムが終わってから、ソファに移動してコンビニで買ってきた物を広げた。普段食事をしたりするのに使っているローテーブルが、お菓子や飲み物で埋まっていく。もちろん例の箱は、彼女が仕事場の見学をしている間に別の場所に移動させた。
「こんなこと今更聞くのもあれなんだけどさ」
「何ですか?」
「…付き合ってる人とかいねぇの?」
「ッ…いたら浮気になっちゃいますよ」
「デスヨネ」
本当はこんな雰囲気で聞くようなことではなかったのかもしれない。あれだけ先手を打っておいて今更だとは思いつつ、重要なことなので確認せずにはいられなかった。何より彼女に悪者になって欲しくない。
缶チューハイを飲んでいたさんは咽かけて、口を手で覆う。無事に飲み込んだ後の反応は半笑いだった。
「仕事もそれなりに忙しくて、休みの日も酷いと一日中寝てるような生活だし、彼氏なんてできないですよ」
「オレもだよ。休みなんてあってないようなもんだしなぁ」
さんの言いたいことはよくわかった。納期に合せると無理せざるを得ない場面があるし、そうなると予定も入れにくい。予定を入れたとしても、最後は自分の体力との相談だ。そんなことを考え始めると負のスパイラルで、休日は体力回復のための時間になる。
それに加えて仕事が充実していると、休みの日も気が付けば仕事のことを考えている自分がいた。仕事をしている感覚はないし、強制させられているわけでもない。それでもふとした瞬間、我に返って自分が仕事モードなのに気付く。独立してからというもの、そんなことが増えた。
「無理しないといけないこともたくさんあるとは思いますけど、部長は体調を第一に考えてくださいね」
「…ありがと。でもさんのことほっといたりしないから」
「私が部長のこと放置するかも」
「それは悲しすぎるだろ」
「放置は冗談として…部長のこと困らせないように頑張りますね」
「?」
「きっと今は一番の頑張りどきだと思うので。部長は仕事と体調を優先してください」
付かず離れず、適度な距離を取る。それは冷めているのではなく、相手の意思を尊重しようという姿勢があるからこそだ。「いつでもどこでも一緒」がベストではない。それが大人の恋愛だろう。
さんが今のオレの状況を理解して、わざわざ言葉にしてくれたのは彼女の優しさだと思う。自分と過ごす時間よりも何よりも仕事を選んでくれていいと口に出すのは、簡単ではない。
だとしても、関係が発展してから早々にそう宣言されてしまうのは少し寂しかった。さんが心の底から一人の時間が欲しいと望んでいるのなら話は別だけれど、彼女の口ぶりからしてあの提案はオレのための我慢だ。このまま「理解してくれてありがとう、助かるよ」で終わらせてしまえば、彼女の全てを知ることができないような気がする。
「じゃあ仕事頑張るために、オレから一ついい?」
「部長から?」
「全部受け止められるかはわからないけど、さんに我が儘言って欲しい。遠慮せずに思ってること伝えて欲しいんだ」
「…」
「仕事もさんのことも第一に考えてぇからってのが理由なんだけど、矛盾してるのもわかってる。仕事を優先させなきゃいけないこともあるだろうし。でも、仕事優先なのを前提に考えなくていいから」
「…でもそれじゃあ」
「いーから。オレのこと放置してた数年間分、オレのこと構ってよ」
隣り合って座るソファで距離を詰める。ソファの上に置かれていたさんの手に指を絡めて、じっと瞳を見つめた。繋いでいるのとは反対の手に握られている缶を奪って、ゆっくりとテーブルの上に移動させる。缶の中身は残り三分の一程に減っていた。
行き場のなくなった彼女の手を、缶を奪った方の手で反対の手と同じように絡め取る。両手を繋いでいることで二人の間でまるで体温が循環しているような、そんな気持ちになった。
熱を帯びたさんの目が全てを察しているように感じてしまうのは、オレが都合よくそう解釈しようとしているだけだろうか。
「今から何しようとしてるか、はっきり言った方がいい?」
「…言わなくて大丈夫です」
「本当に?」
「ちゃんとわかってますから。…部長だったら、だいじょうぶ」
背伸びするような動きの後にさんにキスされる。片手だけ手を離してから彼女の後頭部を支えた。そのまま体重をかけて、ソファに押し倒す。
「言い忘れてたけどもうオレのこと部長って呼ぶのも、敬語もナシな」
「それは…そうですよね、わかりました」
「今何つった?」
「…わかった」
* * *
寝起きから時間を経て昨日のことを鮮明に思い出してきても、あれが現実だったのか夢だったのか曖昧だった。再会してから一夜を共にするまで、一晩で全ての工程をこなしたのが信じられない。全部が夢だったとは思わないけれど、都合よく自分の妄想や理想で継ぎ接ぎされているのではないだろうか。泥酔して記憶を失くしてしまう人の気持ちが、初めてわかった。
「夢じゃないよね?」
「え?」
「昨日のこと」
彼女の目は真剣だった。「昨日のこと」に含まれる内容が濃すぎて、最早どこからどこまでを指しているのかがわからない。確認したいのはオレも同じだった。
「だって私のこと、『さん』って呼ぶから」
「あー…」
「私もつられて敬語で話しちゃった」
つい呼びなれた苗字で彼女を呼んだのが、不安を煽ったようだ。彼女からこんな話を振ってくるということは、関係を結んだのも何もかも夢ではなかったと考えていいのだろう。自分で記憶をねつ造していなかったことに安堵する。
「ゴメン、本当に。いろいろありすぎて、夢見てたんじゃねぇのかなって正直思ってた」
「私も朝、隆の寝顔見て全部夢だったのかそれともただのお酒の勢いだったのか、ちょっと考えたよ」
「酒の勢いはマジでない。断じて」
格好悪いのは承知で正直に告白すると、彼女も同じことを考えていたと口にした。お互いにこんな不安を抱えるくらいなら、昨晩のやりとりを素面でできたのならどんなによかったか。それでも彼女がオレのことを「部長」ではなく「隆」と呼んだことで、じわじわと現実味が増してきた。の中でオレが「みんなの部長」から「彼氏の隆」に昇格したのだと思うと、口元が緩みそうになる。
「もしかしてお酒飲むと記憶飛んじゃうタイプ?」
「そんなことねぇよ」
「じゃあ、昨日のことはちゃんと覚えてる?」
「全部覚えてる」
「昨日の夜何回シたかも?」
「…多分」
「ゴム使い切ってもう一回コンビニ行ったのも?」
「はぁ!?マジで!?」
「流石にそれは嘘!もー、やっぱり記憶ないんでしょ?」
こんな心臓に悪い嘘をが吐くなんて考えたこともなかった。テーブルの上に転がっている箱が、まさか二箱目だとは思いたくない。
彼女は笑っているけれど、オレは笑う気になれず必死に記憶を辿ろうとした。可能な限り昨夜どんなことをしたのか、内容と回数をすり合わせようと、ソファから起き上がって箱を手に取る。使い切った記憶も形跡もなく、まあそうだよなと一人で納得するしかなかった。
「焦っただろ…」
「ごめんごめん」
「つーか普通にまだ残ってんじゃん」
「だからさっきのあれは嘘で」
「じゃあ今から使い切るか」
半分冗談、半分本気だ。ソファの側で腰を下ろしていたの顔を覗きこむ。
「昨日の夜は進められなかっただろうから、今日は存分にお仕事してください」
「えー…ダメ?」
「納期は守らないと」
顔を赤くするくらいの反応はあるのかと思いきや、は恥ずかしがる素振りなど見せることなく、笑顔でオレに言い放った。最初にはぐらかされた後甘えた感じで再度押してみたものの、彼女はびくともしない。
素直に諦めて着替えるためにソファから立ち上がると、もほぼ同じタイミングで立ち上がった。
「そろそろ帰るね」
「ん」
「…えっと、もし隆が良ければだけど」
「何?」
「またここに戻ってきてもいい?」
「どういう意味?」
「一旦帰ってお風呂入ってから、パソコン持参して私もここで事務仕事しようかと思って」
はこっちを見ることなく、帰り支度をしている。それでもわずかに覗く彼女の耳が、先程よりもほんのり色付いているのをオレは見逃さなかった。
申し出の内容的には、断る理由が全く見つからなかった。彼女が休日にも関わらず仕事をするのに複雑な気持ちがあっても、そこに口出しすべきではない。要するに、同じ空間を共有しようという提案なのだ。仕事はそのための手段だろう。
「隆の邪魔はしないし、休憩するときに一緒にご飯食べるくらいなら…どうかな?」
「そもそもが仕事の邪魔するなんて思ってねぇよ。それに飯食うくらいって」
「…私、変なこと言った?」
「全く。すっげー嬉しいよ」
勢いでに抱きついた。数秒間だけ大人しかった彼女は、急にじたばたと暴れ出してから逃げるようにアトリエを去った。彼女のいない、いつもの見慣れたアトリエが途端に色を失ったように、寂れた風景に見えてくる。
それでも、これは夢じゃない。自分自身に言い聞かせてから、帰宅する準備を再開した。がここに戻ってくるまでに、オレも風呂を済ませてここに戻ってこなければならない。彼女はどこに住んでいるんだろうとか、そもそもここから駅まで無事に辿り着いているのだろうかとか、そんなことを考えながら簡単に身支度を整えて、アトリエの鍵を閉めた。
宣言通り、戻ってきたはオレの仕事中話しかけることも、様子を伺うことすらしなかった。キーボードを叩く音だけを響かせ、こちらには背を向けて、ひたすら事務作業に集中していた。そんな彼女を用もないのに後ろから眺めたり、休憩関係なく絡んでいったのはオレの方だ。
後編でした。
あまり長くないですがおまけがあるのでまだ若干続きます。
2024/07/04