またに会って話がしたい。幼い春千夜が優しく接してくれた彼女のことを気に入るのは、当然だったのかもしれない。
 下校途中、何度も振り向いてはの陰を探しながら帰宅する日々が続いた。中学1年生と小学4年生の下校時間が違うことに気付いていない彼は、純粋に彼女との再会を夢見ていた。

夢見るイプシロン 02


 春千夜が怪我をして一週間ほど経った頃、前日から帰ってきていた武臣に叱られその上宿題を家に忘れて放課後も学校に残っていた彼は、いつもより下校時間が遅くなっていた。一人きりの帰り道、家でも学校でも嫌なこと続きの憂鬱な気持ちを思い切り石にぶつける。想像していたよりも遠く跳ぶようにして転がった石の行先を見つめた彼の瞳は、見覚えのある制服の後ろ姿が坂を下りて行くのを捕えた。

 「お姉ちゃん!」
 「!?春千夜くん久しぶりだね」

 春千夜は急いで坂を駆け上り、あと数メートルというところで大きな声でを呼んだ。
 自分のことを「おねえちゃん」だなんて呼ぶ存在を春千夜以外に知らないは、すぐに振り向き笑顔で手を振る。

 「怪我はもう治った?」
 「うん」

 視線を合わすようにが中腰になる。怪我していた部分を春千夜が得意気に披露した。傷はほとんど治っていて僅かに瘡蓋が残っているくらいだ。それを見た彼女が「よかったね」と彼に微笑みかける。

 「今日は春千夜くん帰り遅いんだね?」
 「……うん。いろいろあって」

 ここで初めて春千夜はに会う日は自分の下校時間が普段に比べて遅いのだと気付いた。前回も放課後に友達と遊んでいて、いつもより学校を出るのが遅かったのを思い出す。
 しかしそんなことよりも今日一日春千夜を憂鬱な気分にさせているモヤモヤが、すぐさま彼の気持ちに影を落とした。
 
 「いろいろ?」
 「今タケ兄帰ってきてて……昨日寝る前に叱られた」

 初めて出てきた「タケ兄」という単語と「帰ってきている」という言葉に、は黙って春千夜の家庭環境を想像した。母親以外の家族の話題は初めてだったが彼の台詞を聞いて年上の兄の姿を思い浮かべる。先程出会った瞬間よりも明らかに肩を落としている彼の表情を伺いながら、彼女は言葉の続きを待った。

 「叱られたことで頭がいっぱいで、学校に宿題のプリント持っていくの忘れたんだ……」
 「それで残って宿題やってたの?」
 「……うん」

 言ってから、春千夜はこんな自分の格好悪い話をにするべきではなかったと後悔した。褒めてもらえるような話ではないし彼女のことを失望させたくない。幼い彼にも見栄を張りたいという気持ちが存在していた。

 「ねえ、これ見て」

 俯いて隣を歩く春千夜を見てはどうにかして元気づけてあげたいと思った。この前のように自分が話を聞いてあげることで力になれればと、持っていた紙袋を広げて見せる。

 「今日の家庭科の授業で作ったの」
 「お姉ちゃんが作ったの?」
 「そうだよ。友達と一緒にね」
 「……すごぉい!」

 袋の中にはパウンドケーキが入っていた。覗きこんだ春千夜は何というお菓子か知らなかったものの、漂ってくる甘い香りでそれが美味しい物なのだと想像する。手作りのお菓子とは無縁の生活をしていたのもあってパウンドケーキが特別な物に見えた。

 「こんなにたくさん食べられないから、よかったら今から食べに来る?」
 「いいの?」

 「じゃあ決まりだね」と、前回と同じようにが春千夜の手を握る。本当はパウンドケーキは口実でしかない。元気のない春千夜のプライドを傷つけないように、あくまで家に呼ぶ目的は話を聞くことではなくお菓子を食べることなのだと彼に印象付けたかった。
 この瞬間から春千夜の頭の中から昨日の憂鬱は全て消え去りとパウンドケーキで満たされた。
 

 * * *


 「今日は体育の授業あった?」
 「今日はなかった!」
 
 パウンドケーキを口いっぱいに頬張りながら明るく答える春千夜を見て、はどこまで話を聞くか迷った。彼が望まないのであればここでは楽しい会話だけして解散すればいい。しかしあれ程までに彼が落ち込む理由が気になるのも事実だった。
 既に二切れのケーキを食べ終えた春千夜に自分の皿も差し出しながら、は少しずつ様子を窺うことにした。

 「春千夜くんは宿題、いつも帰ったらすぐにやっちゃう?」
 「んー……いろいろ」
 「いろいろかぁ。明日はプリント、忘れないようにね?」
 「……うん」

 春千夜がフォークを握ったまま俯く。彼の様子を見たはきっかけとしてわざと話を蒸し返したことをすぐに後悔した。

 「……タケ兄、たまに家に帰ってくるんだ」
 「お兄さんとは一緒に住んでないの?」
 「うん。お父さんも仕事が忙しいから、妹とおばあちゃんと住んでる」

 春千夜の返事にがこれ以上質問することはなかった。彼が父子家庭であることや祖母に育てられているのがわかって、彼の寂しさを思うと胸が痛む。妹の存在も今聞いて初めて知った。日頃から我慢する場面が多いのかもしれないと想像すると、あまり家族の話題にならない理由も察しがついた。

 「昨日は学校から帰ったらタケ兄がいた。妹もいてオレが宿題してる横で遊んでた。夜になってもう寝る時間だって言ってもまだ妹は遊んでたから、早く寝ないとタケ兄に叱られるから片付けろって言ったら喧嘩になって、それで……」
 「……春千夜くんが叱られちゃったんだ?」
 「オレ、何も悪いことしてないのに……」

 兄と妹の板挟みになっている春千夜には同情した。春千夜に兄として立派になって欲しいと考える兄の気持ちがわからなくもないが、小学生の彼にそれを理解しろと言うほうが無理な話だ。本当ならば彼もまだ甘えたい年頃だろうに、理不尽な思いを強いられていると彼が感じているのも無理はないと思った。

 「春千夜くんは妹の面倒も見てるなんて偉いね」
 「……」
 「春千夜くんが優しいから、妹もお兄ちゃんに甘えちゃうのかな?」
 「妹のことは好きだけど、たまに嫌だなって思っちゃう時がある……」
 「そうだよね、疲れちゃう時もあるよね」

 話を聞いて、同意してあげることしかできない自分のことをは腹立たしく感じた。それぞれの家庭の事情があって彼女が春千夜の家のことに口出しすべきでないのは当然のことだ。とはいえ、彼女を信用して辛い話をしてくれたであろう彼を突き放すことができるはずもなく、彼女は初めて彼の髪に触れできるだけ優しく頭を撫でた。

 「悲しくなったりお話したくなった時はいつでも遊びに来ていいからね。もちろん、何もなかった日でも」
 「……」
 「私は春千夜くんの味方だよ」
 「……本当?」
 「本当」

 春千夜の澄んだ瞳がを見つめる。何の嘘も吐いていないのに少しむず痒いような、何とも言えない気持ちになった。

 「私ね、小さい頃からテニスやってたの。それで中学生になってからテニス部に入ったんだけど、入部してすぐに肘を怪我しちゃってね」
 「転んだの?」
 「ううん、血が出るとか擦り剥くとかそういう怪我じゃないの」
 「ふぅん……」
 「お医者さんに暫くテニスしちゃダメですよって言われちゃって、今は部活お休みしてるの。でも友達はみんな部活に入ってるし、私だけ帰宅部みたいな感じで」
 「きたくぶ?」
 「うーん……部活動に入ってない人っていう意味だよ」
 「ふぅん」
 「絶対帰ってるとは言えないけどほとんどは家にいるし……だからまた春千夜くんのお話たくさん聞かせてね」
 「……うん!」

 嬉しそうにはにかみながら、春千夜は今日一番の笑顔を見せた。彼がまだ素直な心を持ち続けてくれていてよかったとは心から安堵する。


 それから春千夜との不思議な交流が始まった。週に何度か彼は彼女の家に足を運び一緒にお菓子を食べたり勉強をしたり遊んだりした。
 は両親に春千夜の話はしなかった。頻繁に小学生を家に招いていると言えば理由を尋ねられるだろうし、家庭環境が複雑な彼のことを心配するかもしれない。その心配がいい方向に転べばいいが悪い方向に行けば最悪、彼と距離を取ることを薦められるだろう。それだけは阻止したかった。幸い春千夜が家にいる時間に両親が帰宅することはないので、そんな賭けに出るくらいならいっそのこと黙っておくことにした。
 春千夜も同じく、のことは祖母、兄、妹、友達を含め誰にも話さなかった。秘密の友達として彼は彼女の存在を周囲にひた隠しにする。それほどまでに自分のことを信じてくれたり味方になってくれる存在は彼にとって大きかった。兄と違って優しく、クラスメイトの友達よりも頼もしく、祖母よりも甘えられる存在が妹と取り合いになることがない。彼にとっての存在は唯一無二だった。



























2025/07/23