彼女を避けるようになってから季節は巡り、春になってオレは小学校を卒業した。恐らく彼女は高校に進学しているだろう。仕方ないこととはいえ、オレが中学に入学すると彼女は逃げるように高校生になってしまい、年齢の差を突きつけられた。

夢見るイプシロン 04


 中学に進学してからは様々なことが変化した。新しい生活環境や東卍の存在も大きく、小学生の頃彼女を見て思い描いていた中学生活とは若干違うものになっていたものの、何もかもが新しく刺激的で満たされていた。
 彼女と接することで感じていた安らぎとはまた全く別の刺激で塗り替えられた脳は、同時に彼女の存在も消し去っていくような気がした。彼女との過去を忘れたかったわけではない。だとしても自分の意思とは裏腹に、時間の流れは彼女の存在を思い出にしようとしていたし、オレ自身それには抗えないと思っていた。
 彼女の家を飛び出しておよそ2年、気付けばオレは出会った頃の彼女より年上になっていた。

 彼女に会うこともなければ彼女の存在を感じることもなく突入した中学2年の夏休み。誘われるがまま祭り会場に来たオレは東卍の連中とだらだら境内を歩いていた。夕方とはいえまだ日は落ちておらず、容赦なく日差しが照りつける。普段と変わらないテンションの連中とは逆に、来て早々に「帰宅」という文字が脳裏に浮かぶくらいには暑かった。「暑いから外に出る気にならない」という理由で不在の隊長を今ほど羨んだことはない。
 流れ落ちる汗だけではなく徐々に人が増えてきたのにもうんざりだった。「イライラするから帰る」という意思が現実味を帯び始める。最初は引き留められるかもしれないが最終的にはいつもの副隊長だと半笑いで見送られるだろう。
 喉まで例の台詞が出かかった。しかし急に周囲から音が消え、狼狽えたオレはそれどころではなくなってしまう。狼狽えたのは蝉の鳴き声やざわめきが消えた所為ではなく、まるでスローモーションのようにオレの目が見覚えのある人影を捕えていたからだ。これは暑さのせいで見ている幻想か、それともただの人違いか。ほんの一瞬、数メートル先を横切っただけの姿が視界に入っただけなのにも関わらず心臓が大きく揺れたのがわかる。

 「……先行っててくれ」
 「ウッス」

 気付けば「帰る」とは全く違う言葉を口走っていた。確かめなければ気が済まない。仲間の返事を聞くのもそこそこにオレは人を避けながら目的に向かって歩き出した。
 屋台のない小さく開けた場所で彼女は何かを探すように辺りを見回していた。初めて見る浴衣姿だったしあれから数年経っていても、幾度となく彼女の部屋で見た変わらない横顔に当時の記憶が蘇ってくる。

 「さん」
 「……えっと?」
 「お久しぶりです」
 「……もしかして春千夜くん?」

 小学生の頃のように「お姉ちゃん」と呼ぶ度胸はなかった。それでも名前を呼ぶと彼女は申し訳なさそうな、それでいて怪しい者を見る目でオレを見つめ返してくる。「春千夜くん?」と言われてマスクを外せば、彼女は呆気にとられた表情で何度も瞬きをした。

 「びっくりした……」
 「驚かせてしまってすみません」
 「……本当に春千夜くんなんだよね?」
 「何回も聞かないでくださいよ。それよりさん、身長縮みました?」
 「春千夜くんの背が伸びただけだよ……!」

 冗談を言うとさんは笑ってオレのつま先から頭のてっぺんまで視線を動かす。当時はオレのほうが背が低くていつも彼女のことを見上げていた。それが今では彼女がオレを見上げている。小学生の頃の記憶で止まっている彼女にとって、オレが別人に見えていてもおかしくないのかもしれない。

 「誰か探してるんですか」
 「え?」
 「さっきから辺りを見渡してたから」

 自然と敬語で話しかけている自分に驚きながらも尋ねている内容がさんを怖がらせていないか心配になった。まるでずっと彼女のことを観察していたような言い方になったのを後悔する。
 そんな心配を他所にさんは眉尻を下げながら巾着から取り出した携帯の画面を見つめた。
 
 「友達とはぐれちゃって……電源切れてるみたいで、携帯も繋がらないの」
 
 「勝手に帰って置いてきぼりにするのもよくないと思って」と彼女は続ける。そこまで規模の大きい祭りではないので見つけ出すのは不可能ではないにせよ、これから日が落ちてくればそれも難しくなるだろう。しかしそんなことはどうでもよかった。

 「オレも一緒に探しますよ」
 「でも、春千夜くんも友達と来てるんじゃないの?」
 「別に気にしなくていいんで」

 はぐれた友達とはさんの家で見た男なのか、それとも違う男か。本当は一緒に来ているのはさんの彼氏で、過去のあの出来事があって彼女が気を遣っているのだと思った。彼女が困っているのを助けたかったのは事実だが相手がどんな男か確かめたかった気持ちも少なからずある。

 「どんな格好してるんですか?」
 「髪の毛はアップにしててかんざしつけてたかな。紺色に朝顔の柄の浴衣着てるんだけど」

 ……連れは女だった。
 さんが歩いてきた方向とは反対側を探しに行くということで二人で肩を並べながら人探しを始める。「暑いですね」などと取り留めのない話題の後、とりあえず同行者が男ではないと判明して少しだけ気を良くしたオレは当時の話を振ってみることにした。

 「まだあの人とは付き合ってるんですか」
 「えっ」
 「オレが土産物渡しに行った日に家にいた人」
 「……憶えててくれたんだね」

 オレにとっては初恋を自覚したと共に失恋した瞬間でもあった。忘れたいと思っても忘れることはできないだろう。
 もちろんそんなことはさんには言えるはずもなかった。彼女は苦笑してからぽつぽつと続ける。

 「あの後も少しだけ付き合ってたけど、別れちゃった」
 「……そうですか」
 「実はね、春千夜くんが帰った後彼ちょっと不機嫌だったの。訳が分からなくて理由を尋ねたら、春千夜くんのこと何歳なのとかどこに住んでるのとか、いろいろと聞いてきて」
 
 もし自分がさんの彼氏の立場だったらどうするだろうと考えた。質問攻めにしたくなる気持ちはわからないでもないが、それをすることによって彼女に器の小さい人間だと思われるのは嫌だと結論が出たところで相槌を打つ。
 
 「あの時、私が春千夜くんを誘ったことが不満だったらしくて……簡単に言うと春千夜くんに嫉妬してたみたい。彼は話してすっきりしたみたいだったけど私は小学生にもそんな感情抱くんだって、なんだか冷めちゃって」
 「オレが原因で別れたってことですか」
 「……ごめん、今の説明だとそう思われちゃうよね。当時は私も浅はかだったんだよ。自分の知らない子を急に輪に入れて欲しいって言われれば誰だって困惑するし、彼女と二人きりなら尚更だって今なら彼の気持ちもわかる。でもあの時の私はそんなこと全然考えられなくて、折角春千夜くんが来てくれたのにってそれしか頭になかった。彼には春千夜くんのこと友達って紹介したけど弟みたいに思ってた部分もあったし、弟を拒否されたみたいに感じたのかもしれない」

 無事に元彼がさんに「小学生に嫉妬する器の小さい男」の烙印を押されたとわかって気分が良くなった。それと同時に彼女の考えていることを理解してあげられる自分に安堵する。一緒にいるのがオレだったら彼女をいちいち落胆させることもないのにと、もどかしさを感じずにはいられない。
 しかしその後にさんが口にしたのは「弟みたいに思っていた」というある意味オレに一番堪えるワードで、上がったテンションが一気にどん底にまで突き落されるようだった。振り返ってみても彼女と過ごした中でオレのことを男として見ていると期待したことは一度もなかったが、改めてはっきりと言われるのはダメージが大きい。
 
 「彼の気持ちに寄り添えなかった私が悪いんだよ。だから春千夜くんは何も悪くない。むしろ春千夜くんにも嫌な思いさせちゃって……本当にごめんなさい」

 およそ2年ぶりに再会した男がまさか腹の中でぐちゃぐちゃの感情を抱えているとも知らないさんは2年前の罪の告白と謝罪を口にした。あれだけ露骨な態度をとれば彼女のことを避けていたのにも気付いていたのだろう。彼氏と鉢合わせたことでぎくしゃくしてしまったオレ達の関係と二人がああいう結末を迎えたことの責任の所在の両方についての謝罪を受けながら、これまで抱えていた苛立ちや不安、嫉妬心が消えていくのを感じた。

 「オレの方こそ当時は驚いてさんにどう接していいかわからなくなってしまって……。それを素直に伝えられる子供だったらよかったんですけど」
 「私だってあんな場面に遭遇したら気まずいって思っちゃうよ」
 「さっきも本当は声を掛けるか迷ったんです。でも久しぶりにさんの顔を見たらいてもたってもいられなくなって」
 「もう話すことも会うこともないかもしれないって思ってたから、声掛けてもらえて嬉しかったよ」
 「そろそろ時効かななんて、都合良いこと考えました」
 「時効かぁ。春千夜くんさえ良ければそう思って欲しい」

 冗談を交えて話すとさんが初めて笑ってくれた。彼女の家を飛び出した時も、もちろんその後も含めて久しぶりに彼女の笑顔を見た気がする。
 脳の奥底で蓋をしていたさんの記憶が溢れてじわじわと満たされていくのを感じた。ずっとこのままでいたい。……もう彼女のことを手放したくない。
 さんと無事に仲直りできたところで次にオレが考えたのはどうやって彼女と接点を持ち続けるかということだった。

 「さんは今もあの家に住んでるんですか?」
 「住んでるよ」
 「オレは家出て、一人暮らししてるんです」

 家庭事情が複雑だったのを知っているからかさんは驚いてはいたものの理由を聞いてくることはなかった。
 ここまで話したところで階段の上から「ー!」と彼女の名前を呼びながら手を振る一人の女の姿が見えた。紺色に朝顔の柄の浴衣、間違いなく彼女の友人だろう。声を聞いた彼女が手を振り返し「春千夜くんありがとうね」と解散する雰囲気になったところでオレは彼女との間合いを一歩詰めた。

 「よかったら今度遊びに来てください」
 「いいの?」
 「よくなかったら誘わないですよ」

 このタイミングで友人が登場したのは都合がよかった。「まだ話し足りないから今度ゆっくり会おう」とでも言いたげに少し早口に誘いの言葉を切り出せば、さんは笑顔で応じてくれた。

 「これ、オレの連絡先です」
 「ありがとう。帰ったら連絡するね」
 「また住所送ります」

 小学生の頃は携帯を持っておらず当然ながらさんの連絡先など知る由もなかったオレはここで初めて彼女と連絡先を交換した。

 さんの友人とは話すことなく階段から下りてきた友人と入れ替わるようにして彼女と別れた。連絡先を交換していたのを見ていたであろう友人が「迷子の間にちゃっかりナンパされてるじゃん!」と言っているのが聞こえる。もし当時のように彼女が中学生でオレが小学生ならナンパだとは思われていないだろう。彼女が友人に「あの子は小学生の時からの知り合いで」などと弁解しているのを想像すると申し訳ない気持ちになったものの、客観的に見て今の彼女とオレの仲が男女のそれに間違われていると思うと悪い気がするどころか、むしろ気分が良かった。



























2025/07/26