時刻は午前0時過ぎ。東卍の集会を終え、単車を停めてある駐車場からのろのろと歩いて自宅へ向かう。
玄関の鍵を開けて電気のスイッチに手を伸ばしたオレは、思わず大声を上げそうになった。
「さん……?」
「……春千夜くん、お邪魔してごめんね」
明りに照らされた玄関に靴を履いたまま蹲っていたのは紛れもなくさんだった。返事をした彼女の声は掠れ、いつもの元気はない。
鍵をさんに渡しているので家に来られて困ることはなかったが、様子のおかしい彼女のことがとにかく心配だった。とりあえず家の中に彼女を招き入れる。
「先に風呂入りますか?それとも腹減ってますか?」
「えっと……?」
「今日は帰る気ないですよね?」
「え?」
「もう終電なくなる時間ですけど、家に送って欲しいって言うなら足はあるのでいつでも送れます。でもこの時間にオレの家にいるってことは、帰りたくないんじゃないですか?」
「……うん」
さんは気まずそうに目を逸らした。そんな彼女に着替えとタオルを渡してからオレはもう一度玄関に逆戻りして単車の鍵を手に取る。
「家、何もないんでコンビニ行ってきます」
「だ、大丈夫だよ!後で自分で行くし!」
「オレがいるんじゃ落ち着いて風呂入れないと思うので。ついでに30分くらい外で時間潰してきます」
オレを引き留めようとするさんに家の物は何でも使っていいと告げて半ば無理やり家を出た。玄関を出て外から鍵をかけてからしばらく扉を背に深呼吸する。こんなことを考えるのは不謹慎化もしれないが、オレは少し浮足立っていた。
夢見るイプシロン 06
さんと祭りで再会してから頻繁に連絡を取り順調に関係を修復させていると思っていた。流石に子供の頃と同じペースでとはいかないものの、もう何度も家にも招いている。昔はオレがずっと彼女に話を聞いてもらうばかりだったが、最近では彼女がオレに愚痴を言ったり相談事をすることもあった。そんなことがある度、自分が彼女と同じ立場であると認められた気がして嬉しかった。
唯一気になっていたことと言えば、鍵の存在を忘れられているかもしれないことくらいだった。「さんはオレにとって特別な存在です」と訴えたかった意味も少なからずあったわけだが、彼女は鍵を使うことも鍵の話を持ち出すことも一切なかった。
そもそもさんが理由もなく鍵を使うような人ではないことは理解している。だからこそあまり鍵のことは考えないようにしていた部分もあった中、今回の出来事は予想外だった。鍵の存在が忘れられていたわけでもなければ彼女が弱っている状態のときに頼られている気がして、心配な気持ちとは裏腹に高揚感に襲われる。
明らかにさんは何か思い詰めていて平常心には見えなかった。しかし、だからこそそんな状態の時にオレの家に来てくれたという事実が嬉しい。
宣言通り3、40分程時間が経った後に自宅に帰った。リビングにはオレの部屋着を来たさんが座っていて、オレの姿を確認して立ち上がる。
「おかえりなさい」
「よく考えたら何食べたいか聞いてなかったんで、適当に買ってきました」
「本当にありがとう」
「先に食べててください、オレも風呂入るんで」
コンビニの袋をテーブルに置いてから風呂場へと移動する。一日の汚れを落としてからリビングに戻るとさんはおにぎりを咀嚼している最中だった。ただやはりいつもより元気がなく、口は動かしているものの目は虚ろだ。オレに気付いていないのか彼女はどこか一点を見つめている。
「食べられそうなものありました?」
ずっとさんを観察していたのではなく、さも今風呂から戻ってきたと言わんばかりに声をかけた。彼女は顔をこちらに向けて小さく微笑む。無理しているように思えて少し胸が痛かった。
「おにぎり頂いてるよ。ありがとう」
「こうしてると、昔一緒にいろいろ食ったの思い出しますね」
「そうだねぇ」
「なんでしたっけ、長方形の洋菓子……さんが授業で作ったっていう」
「……パウンドケーキ?憶えててくれてたんだ?」
「すげぇウマかったの憶えてますよ」
さんを喜ばせるための嘘でもなんでもなく、本当のことだ。オレの言葉ではにかむ彼女の表情に先程のような硬さはなくなっていた。
さんの隣に座り、覗き込むようにして彼女の目を見つめる。
「不謹慎かもしれないですけど、オレはさんが辛いときにこうして隣にいられるのが嬉しいんです。今度はオレが支える番になれたらって」
「春千夜くん……」
「理由を話したくないなら黙っていてもいいですし、逆に話したいのなら聞きます。今回に限らず、いつでも」
慣れない手つきでさんの髪に触れ頭を撫でつけた。一瞬だけ潤んだように揺れた彼女の瞳が伏せられ、その後ぽつぽつと彼女は口を開く。
さんは現在高校2年で大学受験に向けて勉強していること。最近成績が伸び悩んでいること。志望校のことで両親と口論になったこと。感情的になって家を飛び出したものの、オレの家で冷静になってみると両親に申し訳ないことをしたと反省していること。
最終的に両親ではなく自分を責めているところは如何にもさんらしかった。そしてやはり彼女はいつでも正しくて真っすぐで、眩しさすら感じさせる。
「さっきも言いましたけど帰るならいつでも送れるんで……今日はもう帰りますか?」
言いながら立ち上がろうとすると何かに服を引っ張られた。見下ろせば当然そこにいるのはさんで、心なしか顔の赤い彼女がバツの悪そうな顔をしている。
「……もし春千夜くんがいいのなら、今晩はここにいたい。ダメかな?」
「……構わないですけど」
時刻は夜中の1時を過ぎたくらいだ。両親も心配しているだろうし、さんの口から両親への謝罪が出た時点で彼女は帰宅するのだとばかり思っていた。予想外の返事に狼狽えたのが彼女に伝わったのか、オレの服の袖を掴んでいた彼女は今度は話しにくそうに自分の服の袖をいじる。
「謝らなきゃってわかってるけど、今日は帰りたくないの。もう少しだけ、春千夜くんと一緒にいたい」
「……好きなだけいてくれていいんで。オレに何が出来るかはわからないですが」
さんの言う「一緒にいたい」はそういう意味ではないと心では理解していた。それでもあんな言い方をされるのは心臓に悪い。
自分の邪な気持ちを振り払いながら、今はそんなことを考えている場合ではないと半分はぐらかすように返事をした。あまりにも自分には縁のない悩みで、オレに何かしてあげられそうにもないのは事実だ。まさかさんが大学に進学できなくてもオレが養うから気にするななんて、彼女はそんな返答を求めてはいないだろう。
「春千夜くんだけは何があっても私の味方でいてくれそうな気がして、そう思うと元気になれるの」
「味方でいてくれ’そう’じゃなくて、何があってもオレはさんの味方でいますよ」
さんを傷つける存在は許さないしどんなものからでも彼女を護りたい。この気持ちに偽りはなかった。例え強引な手段を使おうと法に触れようともやり遂げてみせる。
袖をいじっていたさんの手に優しく自分の手を重ねると、ほんのりと温かい彼女の手が僅かに動いた。
「前に話したじゃないですか、昔にさんがしてくれたことを今度はオレが返す番だって」
「覚えてるよ。もう十分すぎるくらいお返しを貰ってる。本当にありがとう」
言いながらさんが重ねていたオレの手を握り返す。
部屋の中は静寂に包まれているのに沈黙が心地いいとすら思えた。言葉だけなく心で繋がっているようなこの感覚を、さんも今感じてくれているのだろうか。
2025/08/09