さんは結局両親と喧嘩したあの1回しか鍵を使わなかったが、その後はそれまでよりも頻繁に彼女に会っていた。両親と喧嘩した時ほどの出来事が起きることもなく、上ることも下がることもない変化のない関係がしばらく続いた。きっかけと呼べるようなものもない中さんは大学受験の時期を迎え、無事に第一志望校に合格した。

夢見るイプシロン 07


 その頃のオレはというとさんとは反対に抗争だの何だのと血生臭い日常を送り、彼女からの電話にも出られなかった。彼女の大学合格を祝うつもりだったのがずるずると時は過ぎていき、気が付けばもう7月だ。さんと最後に連絡を取ったのはオレの誕生日だった。彼女は大学生活が忙しくオレは東卍を抜けて天竺に入ったのもあり、お互いがそれぞれ転換期を迎えていたのかもしれない。会う頻度が減ったことは悲観視していなかったものの、彼女に会いたい気持ちは常に頭の片隅に追いやられていた。

 『電話出られなくてすみません。今度いつ空いていますか?さんの合格祝いしましょう』

 ようやくこちらから連絡をしたところまではよかったが、肝心の合格祝いの段取りなど何もできていない。合格祝いに何をすればいいのか検討もつかなかった。

 さんからの返信で日程が決まってから、彼女への合格祝いを探しにぶらぶらと街を歩いた。さんとは彼女が大学に入学して以降一度も顔を合わせていない。本人に希望を聞くタイミングもなく、かと言って彼女の好きなブランドも何を喜ぶかもわからない状況の中、あまり服装や好みに左右されなさそうなシンプルな鞄を選んで購入した。


 * * *


 数日後、約束の日にオレとさんは最寄り駅で待ち合わせ、洋菓子店で彼女の好きなケーキを買ってから家路についた。

 「ケーキありがとう」
 「さんの合格祝いなんで」
 「改めてそう言われると照れるなぁ」

 ケーキを皿に取りながら他愛もない会話をする。もう7月だ、今更合格祝いなんて言われるとおかしな気持ちになるよなと思いつつ、ケーキにフォークを刺した。
 二人でケーキを突きながら話題に上がるのは大学の授業やサークル、新入生歓迎会で起こったハプニング……どれもオレの初めて聞く単語ばかりだ。あの時の感覚が蘇る。
 さんの後ろに立つ初めて見る男……自分の知らない彼女を知る人物に対する嫉妬。背伸びしてもいつまでも埋まらない距離に対する焦燥感、そして永遠に彼女の世界とは交われないという諦め。
 夏祭りで再開したときに自分もようやくさんと同じ景色が見られるのだと思った。やっと同じスタートラインに立ったつもりでいた。しかしそれは勘違いだったのかもしれない。子供から成長したはずなのに、きっと彼女の横に並んでも遜色ないはずなのに……どうしていつも彼女の隣にはいられないのだろう。

 「……少し待っててください」
 「?」

 ケーキが皿からなくなった頃、すっかり忘れかけていたプレゼントの存在を思い出し席を立った。前にも同じようにして鍵を渡した記憶が蘇ってくる。不思議そうな表情のさんを横目に、目のつかない部屋の隅に置いておいた紙袋を彼女の隣に置いた。

 「どうぞ」
 「ん?」
 「改めてさん、大学合格おめでとうございます。大したものじゃないですけどよかったら使ってください」
 「え、え!?」
 「祝うのが遅くなってすみませんでした」
 「そんなこと全然気にしなくていいのに!でも、ありがとう……開けてみてもいい?」
 
 「どうぞ」と声をかけるとさんがにこにこと紙袋に手を伸ばした。それをテーブルの反対側から見守っていたわけだが、先程まで笑顔だった彼女の表情は徐々に困惑の色へと変わっていく。

 「春千夜くん、これ……」
 「はい?」
 「これ、ものすごく高価だったんじゃないの……?」
 「気にしないでください。ほんの気持ちなんで」
 「気持ちって、でも……」

 既に袋から取り出されたバッグはさんの手の中にあった。ブランド名を表すアルファベットのチャームが揺れる。相変わらず彼女は不安そうな表情でオレを見つめた。

 「……無理して買ってくれたんじゃないよね?」
 「そういう心配はしなくて大丈夫です」

 さんが言いたいのは16歳のオレがどうしてこんな世間一般的に高価とされるブランドバッグを買うことができるのかということだろう。人に話すようなことではないし汗水たらして働いた金で買った物ではないので、あまり深く突っ込んでは欲しくなかった。

 「春千夜くん、気持ちは嬉しいけれど受け取れない……」
 「……」
 「何か危ないことしてない?……心配だよ」

 言いながら、さんの目は数日前のちょっとした喧嘩で作った腕の打撲痕に向けられていた。その時の喧嘩と今回鞄を買った金は全く関係なかったが、こうなるなら隠しておくんだったと後悔する。
 さんに喜んで欲しかっただけなのに、まさかの反応に自分を否定されたような気分になった。それが先程感じた言い様のない感情と混ざり合って、悲しみよりも苛立ちが勝ってくる。もうほとんど痛みを感じない腕の代わりに別の部分が歪な音を立てて軋みだした。

 「どんな風に作っても金は金ですよ。1日肉体労働して得た金も仮に薬の運び屋やって5分で得た金も、価値は変わらないじゃないですか」
 「!?春千夜くんまさか」
 「仮に、です。それは薬を運んだ金で買ったものじゃない。でももし本当にオレが汚れた金でそれを買ってたとして、さんが困るようなことありますか?」
 「……」

 さんは黙り込んだ。オレの主張は間違ってはいない。しかし、さんはそういう人ではないのだ。真っ当に生きてきた人に対して言っていい言葉ではないと気付いた時には既に遅かった。流石に言い過ぎたとという自覚はあって咄嗟に謝ろうとすると、彼女が先に口を開く。

 「……確かに私は何も困らないよ。でも春千夜くんが心配なの」

 普段は見せない射貫くようなさんの視線が、彼女の真剣さを物語っていた。
 
 「危ないことはしてほしくない。……でも私がどう思おうと関係ないよね。もう昔とは違うんだし、私は春千夜くんに指図できるような立場じゃない。春千夜くんが決めたことだから」

 オレを咎める言葉にすら優しさを感じる。半分さん自身に言い聞かせるような言葉が、口汚く罵られるよりも今のオレには堪えた。

 「……もう帰るね。ちゃんと戸締りしてね」

 最後の最後までさんはオレを心配して、静かに部屋を出て行った。

 どうしてこんなことになってしまったのか。さんはオレが真面目な学生生活とは無縁の生活を送っていることに気付いているはずだ。受け入れてくれると思っていた。そんなオレだと知っても、拒絶せずに彼女だけは味方になってくれると信じていた。
 純粋にさんはオレを心配してあんなことを言ったのだと理解はできる。しかし、こんな生き方しかできないのがオレであり、今の三途春千夜だ。もう昔の弱い明司春千夜ではない。『春千夜くんが決めたこと』という言葉が重くのしかかった。この結末はオレの望んだ結末ではない。



























発端になった鞄は一応某ブランドのものを想定しているのですが値段調べたら現在92万円でした。16歳がこんなんプレゼントしてきたら怖すぎる…。
2025/08/17