いつもより軽い私の足。

家に帰るのが嫌でたまらなくて、怖くて苦しくて……大好きだった「ちゃぴ」のことを思い出すのが辛かった。

家に帰るということは私にとってそういうこと。

大好きな「ちゃぴ」を思い出すための扉、思い出してしまう重い扉を開けるということ。

でも今日は違う……これからはもうそんな思いなんてせずに私は生きていける。

「ちゃぴ」と一緒に生きていける。



*ちゃぴ 03*



「ただいま」


私の声は空しく玄関に響いた。

今日はお母さんが仕事で帰りが遅い日だったということを忘れるくらい、私は舞い上がっていた。

いつもよりはやく靴を脱いで、脱いだ靴はそのまま鞄もほっぽって私はソファに座った。

急いで携帯を取り出して「ちゃぴ」の番号とアドレスの存在を確認する。

「ちゃぴ」が犬だったときは、私達の間に言葉なんて必要なかった。

何を言おうとしているのか自然とお互いにわかっていたし、それに「ちゃぴ」は言葉が話せなかったからそうやって意思疎通をする他なかった。

でも今「ちゃぴ」は言葉もしゃべるし文字も理解できる。

私よりも背が高くて相変わらず毛はもしゃもしゃで、ゴムだってつけていた。

探るような目で私を見つめるところも全く変わっていない。

携帯の画面に表示される「仁王雅治」という名前、「ちゃぴ」ではないけど「ちゃぴ」である「仁王雅治」。



「仁王くんって呼んだほうがいいのかな?」


口に出して名前を呼ぶと、なんだか変な感じがした。

どうするかはまた今度、直接「ちゃぴ」に聞いたほうがよさそうだ。

携帯を見つめていてもどうしようもないので、とりあえずお母さんが用意してくれていた夕飯を電子レンジで温めて食べることにした。

こうして「ちゃぴ」もいない、本当に一人の食卓にも慣れてしまった。

そんなことを考えていると頭の中は今度「ちゃぴ」と一緒に夕飯を食べたいなとか、そういうふうな思考に変わっていて、私は一人で思わずクスクス笑ってしまった。





夕飯を食べ終えて片付けをして、テレビを見る。

一人で座るソファは私には広すぎたけど、テレビ番組はいつもと同じように騒がしかった。

夕飯を食べている最中に友人からメールがあって、宿題のことなどいろいろメールしながらテレビを見ていた。

そろそろお風呂に入ろうかと携帯をもう一度チェックするといつの間にか着信があった。

私はすっかりテレビに夢中になっていたみたいだ。

友人との電話は長話になりそうだと思いながら不在着信を見てみる。

そこには友人の名前はなくて、「仁王雅治」と表示されていた。

友人からの着信ではなかった驚きと、今からどうすべきかということが一緒に考えられなくて私はそのまま固まった。

するとまた電話がかかってきて、今度も表示された名前は「仁王雅治」。

今日話したばかりなのに何故か緊張していて、震える指で通話ボタンを押した。



「……」

『……ん?おかしいのう、聞こえとるんか?」』

「もしもし?」

『おー、ちゃんと聞こえとるみたいじゃの』


間延びしたような「ちゃぴ」の声が聞こえてきて、私の緊張は一気にほぐれた。

どうしてこの声はこんなにも私を安心させることができるんだろうか。

お母さんでも仲のいい友人でもできなかったことを、ふらりと現れたこの人がどうして。



「ごめんね、最初の電話気がついてなくって」

『嫌われたかと思ったぜよ』

「違うよ!本当に気付いてなかったの。どうしようかと思ってたらまた電話がかかってきて……」

『そんな急いで話さんでも俺は逃げん』


クククと押し殺すような笑い声が聞こえてきた。

今「ちゃぴ」はどんな顔をしているんだろうか。



「えっと、電話……。何か用事あったかな?」

『用事がないと電話したらいかん?』

「そういう意味じゃなくって……!」


本当はすごく嬉しい、今泣いてしまいそうになるほど嬉しい。

でもそれを正直に言うと「ちゃぴ」に嫌われてしまうような気がして、私は素直になれない。



『今何しとった?』

「えっとね、テレビ見てたよ。そろそろお風呂入ろうかなって思ってたところ」

『ほー。じゃあ俺も入りに行こうかのう』

「えっ……」

『プリっ』


最後の言葉の意味がよくわからなくて私は返事に困ってしまった。

「ちゃぴ」は昔から何かはぐらかすようなときに振り向いて尻尾を向けてくるところがあったけど、今のはそれと似たような意味なのかな。

お風呂も一緒によく入っていたしまた一緒に入ってもいいような気がするけど、でも今「ちゃぴ」は犬ではない。

こんなときに「いいよ」と答えていいものなのか、一般女子の意見が聞きたいところだ。



『冗談じゃ』

「なぁんだ、冗談か……」

『……』

「……えっと、仁王くん?」

『……今俺のこと仁王くんって呼んだか?』

「え、あぁ……うん、そうだね」


何故だか無意識に彼のことを「仁王くん」と呼んでしまって、また緊張してきた。

それを「ちゃぴ」に指摘されて余計に恥ずかしい気持ちになる。



「あのね、「ちゃぴ」に聞こうと思ってたの。私があなたのこと「ちゃぴ」って呼ぶのは迷惑かなって」

『迷惑とは思っとらんよ。ただ、上手く使いわけてくれると嬉しいのう』

「そうだね、了解です……」


何も知らない人の前で「ちゃぴ」なんて呼んだらその人は驚くだろうし、どうしてそんな呼び方をするのか聞いてくるだろう。

できればあまり他の人には知られたくない。



『いい子じゃの、は。撫でてやりたいところじゃが、生憎電話じゃき」


それからしばらく話して、電話を切った。

本当に何か目的があるわけでもなく、他愛のない話しかしなかったけれどそれが楽しかった。

帰宅してから1日の報告を「ちゃぴ」にしていたのを思い出して余計に嬉しくなる。

今度一緒にお昼ごはんを食べようとだけ「ちゃぴ」と約束した。

私は携帯を充電してからお風呂にお湯をためて、いつもより長い間お風呂に入った。

いつかまたこの手で「ちゃぴ」を洗う日が来るんだろうか。

そう思うと喜びよりも恥ずかしさのほうが先にこみ上げてきて、いつもの私でいられなくなってしまった。





あなたは誰
(私にとっての希望そのもの)
















あとがき

なかなか進まないという。1日を3話も使うって……。
次からは進めていく予定です。

2011.11.17