テニス部の部室に向かって、私は全速力で走る。
跡部部長の命令は絶対だ。
*ピンチ*
『テニス部の今のレギュラーメンバーの過去の記録を持ってこい。手当たり次第にだ』
跡部部長は私にそう命令した。
榊監督が何かに使うからって、どうして私が探しに行くハメになるんですか…そうですか、私がテニス部のマネージャーだからですよね…!
私暇じゃないんだよ、これでもいろいろと部のために毎日頑張ってるんだよ。
きっと跡部部長もそれは知ってくれてると思うし、知ってくれていないなら私は泣く。
でも跡部部長はそういう事情を知っていても、使える人間は上手く使っていくタイプの人間だ。
流石はキングです部長!
ご自分の仕事を私に押し付けるなんて、キング以外にはあの物腰の柔らかい関西弁で言葉を巧みに操る丸眼鏡の先輩くらいしかできません!
* * *
私なりに頑張って走って部室まで4分かかった。
跡部部長には10分で帰って来いって言われたけど、往復で8分かかるのに2分で資料集めるとかどう考えても無理だよね、どんまーい私!
ハハハという乾いた笑いは、誰もいない部室に寂しく響き渡った。
もういいや、こうなったらとことん遅れてやる!と自棄になりつつ怒りつつ、私は『テニス部の過去の記録』を探すことにした。
なんとなく感じているのは、こういう普段は使われない忘れ去られているような物っていうのは大体は部室の棚の奥深くに封印されているということだった。
テニス部の部室は無駄に広いから、もう破棄してしまいましたなんてことはないと思うけれど、にかく手当たり次第に棚の扉を開けてみることにした。
トロフィーが多いけど棚には残念ながら他の物はなかったので場所を変えて別の棚を漁る。
目に入った腕時計が部室に着いてから3分経過した時間を指していて、私は心の中で部長にひたすら謝った。
遅れるとはわかっていたけれど、跡部部長のミッションに失敗するということにはそれなりの覚悟がいる。
こうなったら何がなんでも過去の記録を見つけないと、数日間はネチネチと今日のことを言われるだろう。
もう少しちゃんと跡部部長に場所とか聞くべきだったかなと後悔したけれど、もちろんそんな後悔はもう遅かった。
今の私が探せるところは全て探し終えて、残るは棚の上だけになった。
棚の上にはトロフィーの他にファイルらしきものも並べてあって、明らかにあのゾーンがプンプンしている。
今すぐに調べたいところだけど残念ながら私の手の届く範囲であるはずもなく、下から見上げるしかなかった。
無茶して並べてあるトロフィーを落として壊しでもしたら、数日間どころか一生今日のことを跡部部長に言われ続けるに違いない。
何か踏み台はないかと周りを見渡したけれど、ここにはふかふかのソファーとパソコンを使うときに座る回るタイプの椅子しかった。
ソファでは高さが足りないし、回る椅子を使ってもしバランスを崩しでもしたら…やっぱりトロフィーが倒れてきてトロフィーが壊れて…。
悪い方向に考えるのはやめよう!とポジティブになってみたりもしたけれど、そんな無理やりなポジティブ精神は1分と続かなかった。
仕方なく棚の上のほうに手をうんと伸ばしてみたものの、当たり前だけど全然足りない。話にならないくらい足りない。
もう脚立でも探してくるしかないのかな…と、私はこの学校に脚立は存在しているのかと思いを巡らせる。
「あれ?さんどうしたの?」
私が一人うんうん唸っていると、部室に鳳くんが入ってきた。
「鳳くんこそどうしたの?遅刻なんて珍しいね」
「ちょっと用事があってね、跡部さんには言ってあるから大丈夫なんだけど」
「そっかー」
跡部という名前を聞いて顔が引きつったような気がした。
「それよりこんなところで何してるの?」
「跡部部長に頼まれてることがあるんだけどね…あれを、取りたくて」
歯切れが悪いしなんとも言いにくい。
これじゃあ背の高い鳳くんに遠まわしに「手伝ってよ!」って言っているのと同じことだ。
ごめんなさいと思いながらも、私は棚の上を指差した。
「あそこのファイルでいいのかな?俺がとってあげるよ」
「あ、ありがとう…!ごめんね」
鳳くんを利用してしまったみたいで罪悪感があったけど、ここは素直にお礼を言うことで許してほしい。
笑顔でどういたしまして、と言う鳳くんが天使にしか見えません。
「はい、これでいい?」
「えっと、その奥のやつもお願いしていいかな?」
「奥?」
鳳くんからファイルを受け取ってお礼を言って、それなのにまたお願いをするなんて私も辛い。
ファイルの後ろにまだファイルが隠れていたようで、私はそれも取ってもらえないかと鳳くんにお願いした。
「まだ奥にあるの?」
「そのファイルを取ってもらうまでは気がつかなかったんだけど…」
「ちょっと待ってよ。んー…あと少しなんだけどな」
背伸びをして手を伸ばす鳳くんを嘲笑うかのように、ファイルは鳳くんの手の数センチ前に佇んでいた。
ジャンプをしようにもそんなことをしたら、衝撃でトロフィーが落ちてくるかもしれない。
「何か踏み台はある?」
「残念ながら…」
今度は鳳くんと一緒に、うんうん唸りながら方法を考えた。
「あ」
「どうしたの?」
「さん、一つ方法思いついたんだけど」
「ほんと?どんな方法なの?」
「口で言うより、やったほうが早いから」
「わかった。じゃあ早速ですがその方法でお願いします」
鳳くんによろしく、と頭を下げる。
どんな方法かわからないけど、こんな状況で何か思いつく鳳くんはすごい。
私とは脳みそのつくりが全然違うなと関心するしかなかった。
「さんにも協力してもらいたいんだけど」
「了解です。何をしたらいいかな?」
私が聞くと鳳くんはにこり、と微笑んだ。
その微笑は何ですか、どういう意味の微笑みなの?
「いくよ」
「え、何するの?私どうしたら…ぎゃあああああ!!!」
ふわりと体が浮いて、私の身長は鳳くんよりも大きくなった。
鳳くんの爽やかな声が自分の下から聞こえてくるなんてすごく変な気持ち。
鳳くんが私の太もも辺りを両手で抱きかかえて、そのまま鳳くんの肩に乗せるくらいの勢いで私を持ち上げている。
いつもと景色が違うとか、そういうことを楽しむ余裕は一切なかった。
「お、鳳くん!下ろして!」
「もうファイルは取れた?」
「まだだけど…」
「跡部さんも待ってるだろうし、俺は全然平気だから!」
だからこのまま作業を続行せよということですか?
きっと下ろしてって頼んでも鳳くんは下ろしてくれないんだろうな。
鳳くんの声に強い意志を感じた私は、申し訳ないと思いながらも作業を続行する道を選んだ。
「もう大丈夫だよ…!」
「じゃあ下ろすよ?」
できるだけ手早くファイルをかき集めて、鳳くんに声をかけた。
「鳳くんありがとう。…本当にごめんね」
「気にしないで。さん軽かったし」
「いやいや、重いのももちろんだけど…いろんな意味でごめんなさい」
さっきの出来事を思い出して顔がどんどん熱を帯びていくのがわかる。
鳳くんに抱っこされちゃったよ、抱っこ…!
一人焦って俯いてしまったけれど、頭上からは鳳くんがクスクス笑ってるのが聞こえてきた。
「本当に気にしないで。これが最終手段だったし、ね?」
「は、ハイ…」
「そんなに顔赤くされたら、俺も恥ずかしいんだけど」
言葉だけ聞いていれば経験値の低い中学生の台詞だけど、目の前でこんなにも笑顔で言われるととてもそんな風には思えない。
そういう意味で鳳くんの台詞には説得力がまるでない。
「ごっごめんね、こういうの初めてなんだ…」
「俺もだよ。女の子持ち上げたのなんて初めて」
鳳くんとの距離が縮まる。
あああ、鳳くんの貴重な初抱っこを奪ってしまって本当に申し訳ない…。
「びっくりしたよ、本当に女の子って柔らかいんだなって」
「多分それはお肉だよ…」
「そんなことないよ。触れているだけで安心感があって、すごく満たされた気分になって…」
離したくないなって思った、と手を握られながら言われて思わず口が開けっ放しになってしまった。
こんなに至近距離で鳳くんのことを感じるなんて初めてで、心臓はバクバクうるさいし呼吸は乱れるし、急展開に脳みそがついていけていない。
何がどうなってこうなってしまったかわからないものの、今鳳くんに手を握られているのだということだけは事実だ。
全く余裕のない頭の片隅で叶うならこのままずっと手を握っていて欲しいだなんて我が儘なことを考えてしまった。
このままずっと部活の時間も忘れて…部活の時間…部活と言えばテニス部…テニス部と言えば跡部部長…あああ…!
「跡部部長のミッション…!」
すっかり忘れていた跡部部長からの命令を思い出して顔の火照りなんか一気に冷めた。
もう跡部部長のもとを離れてから30分以上も経っている。
これから私の人生が終わるかもと言うと、鳳くんは一緒に怒られようと言いながらファイルを持った反対のほうの手で私の手を握った。
あとがき
2012.03.21 加筆修正