*ちゃぴ 04*
「おはようございます、さん」
朝一番、声をかけてくれたのは少し離れた席の柳生くんだった。
私には真似できないような爽やかな笑顔で挨拶をしてくれる柳生くんは、どこからどう見ても紳士そのものだった。
先日の「ちゃぴ」の登場以来、私は自分でもわかるくらいに元気になったと思う。
だからきっと普通に笑えていると思うし、笑うということを意識する必要だってなくなった。
こうして挨拶してくれる柳生くんに対しても笑顔で返せていると思うし、今みたいに人と話す時間が幸せだと思えることも増えた。
友人からも元気になってよかったと言われるくらい、私は以前の私に戻りつつあった。
みんなは私がこうなれた理由をちゃんと知らないけど、でも私はそれでもいいと思う。
「おはよう柳生くん。今日は早いんだね」
「ええ、朝練が早く終わったものですから」
「そっか、練習大変だもんね」
朝練という単語を聞いて、柳生くんがテニス部であったことを思い出した。
もしかしたら柳生くんは「ちゃぴ」のことをよく知っているのかな。
柳生くんとは特別仲がいいわけではないけど、最近柳生くんから話かけてくれることが多くなった。
もしきっかけができたら、柳生くんに「ちゃぴ」のことを話してみよう。
「……朝から人をからかうのはやめたまえ」
「プリッ」
「!?」
ふと柳生くんの後ろを見ると、もう一人柳生くんが立っていた。
目の前に2人の柳生くんがいて、私は何が起こったのかとフリーズする。
クラスもすぐに騒がしくなって、みんなちらちらと遠慮がちにこっちを見ていた。
腕組をして立つ柳生くんが溜息をつくと、目の前に座っていた柳生くんがニヤリと笑った。
さっきみたいな紳士的な雰囲気ではない柳生くんを、私は誰かと重ねていた。
「さんすみませんね。仁王君がご迷惑をおかけして」
「ちょっと登場するのが早すぎるぜよ、柳生」
「えっと……」
座っていた柳生くんが髪の毛をくしゃっとして、その後に眼鏡も外した。
するともうその人は柳生くんではなく「ちゃぴ」になっていて、私は開いた口が塞がらなかった。
フリーズしている私を見て「ちゃぴ」はケラケラ笑っている。
「仁王くんだったの?」
「仁王君の特技なんですよ、迷惑な話ですが」
「迷惑なんて失礼じゃ」
「迷惑もいいところです。だいたい、朝練にも顔を出さないで何をしているんですか」
「柳生と話すの顔が見たかっただけじゃ」
「ちゃぴ」は得意げに笑うと私の頭をぐしゃぐしゃっとしてから立ち上がった。
ぐしゃぐしゃになった髪の毛を私は急いで整える。
「ちゃぴ」に一言「コラ!」と言ってみたものの「ちゃぴ」は笑っていて、私はそれ以上何も言う気にはなれなかった。
「おお怖い」
「もー!からかってるでしょ!」
「仁王君!貴方は朝からどれだけさんに迷惑をかければ気が済むのですか……」
柳生くんも呆れたように溜息をついた。
まだ朝だというのに柳生くんはもう何度目の溜息になるんだろうか。
今度ちゃんと「ちゃぴ」を怒らないと、もっと好き放題するような気がする……!
「ちゃんと朝練には行かなきゃだめだよ?」
「ピヨッ」
「え、プリっ以外にピヨっもあるの!?」
「さんはご存知なかったんですか?」
「知らなかったよ……」
「ちゃぴ」は私よりも何枚も上手だった。
朝から私をからかった「ちゃぴ」はご機嫌な様子で、片手を挙げてひらひらした後教室を出て行った。
……このままでは飼い主の威厳がなくなってしまう!
いや、もう飼い主ではないのかもしれないけれど、でもやっぱり「ちゃぴ」がこんな子になってしまった責任は私にもあるはずだ。
「仁王くん行っちゃったね」
「ええ、いつもながらに嵐のような人です……」
「柳生くんは仁王くんと仲良しなんだね」
おや、知りませんでしたか?と少し驚いた様子で柳生くんが眼鏡を持ち上げた。
話を聞いてみると彼らは同じテニス部であり同じくレギュラーであり、しかもダブルスを一緒に組んで公式戦に出たこともあるんだという。
「ちゃぴ」は私にたくさん質問するけど、自分のことを多くは語ってくれない。
私も「ちゃぴ」に質問するけど、なんとなくはぐらかしたような遠まわしの答えしか返ってこない。
もちろん部活の話も例外ではなく今まであまりたくさんのことは教えてくれなかった。
だからまさかクラスメイトである柳生くんとこんなに深い繋がりがあったなんて思いもしなかった。
まして紳士と詐欺師(と「ちゃぴ」は部活で呼ばれているらしい)なんて全く逆の存在だし、そんな存在の2人が交じり合うところなんて話を聞かない限りは想像できない。
正直、さっきのやり取りもかなり新鮮な組み合わせで見ているだけで楽しかった。
イタズラばかりする「ちゃぴ」の後ろをついて回って、説教したり迷惑をかけた人に謝る柳生くんの姿を想像して私は笑ってしまった。
「……もしかして、柳生くんが今の「ちゃぴ」の飼い主さん?」
「飼い主?何のことでしょうか、ペットのお話ですか?」
「ううん、ごめんこっちの話」
不思議そうに柳生くんが私を見ていた。
この様子だと柳生くんが「ちゃぴ」の今の飼い主だという説はなさそうだ。
* * *
昼休みになって「ちゃぴ」はまた現れた。
現れたと言っても今度は携帯でのお呼び出しだ。
授業が終わってメールをチェックしてみると「ちゃぴ」からメールがきていて、本文には「屋上」とだけ書かれてあった。
この前した約束のことだと思って、私はお弁当とすいとうを持って屋上に向かった。
「こっちじゃ、こっち」
「ちゃぴ!」
急に上から声がして、私は扉の上を見上げた。
屋上の中でも一番高い場所に「ちゃぴ」が座っていて、こっちに向かって多分手を振っている。
正確には太陽が眩しくてそこにいるのが「ちゃぴ」なのか、手を振っているのかも曖昧だけど。
「上れるか?」
「私も上るの!?」
「も上がるんじゃ」
「でもスカートだし……」
周りには誰もいないけれど、スカートではしごを上るのは気が引けた。
「ちゃぴ」はそれでも大丈夫だと言って私からお弁当とすいとうを奪った後、手を伸ばして私の体を引き上げてくれた。
風が強くていろいろ飛ばされそうになりながらも、私はお弁当を食べることにした。
「ねえ、「ちゃぴ」のご飯は?」
「俺はあんまり腹減っとらんき、食べん」
背は高いのに細い「ちゃぴ」の体。
本当にお腹は空いてないのかと聞いてみても「ちゃぴ」は肯くだけで、本当に何も食べようとはしなかった。
その代わりにペットボトルに入っている緑茶を時々飲むだけだ。
「すごく細いね」
「そうかのう」
寝転ぶ「ちゃぴ」のお腹の辺りが風で見え隠れしている。
私の目に写る「ちゃぴ」の腰はそれはそれは細いもので、一瞬自分の腰と比べてみたけれど見比べるんじゃなかったと後悔した。
なんとなく触ってみたくなって、私は「ちゃぴ」の腰にわずかについている肉をつまんだ。
これは肉というか……皮ですね?
「セクハラじゃー」
「セクハラじゃないっ!」
「触られたほうがセクハラじゃと思ったらセクハラ成立ぜよ」
よくよく考えてみると、今まで私は何度も「ちゃぴ」に頭を撫でられたりしたことはあった。
でも私が「ちゃぴ」に触れるっていうのは今回が初めてで、そう思うと昔「ちゃぴ」に飛びついていたのが急に懐かしく思えた。
今では逆に私が「ちゃぴ」に飛びつかれているようなものだ。
「次は俺がをセクハラしてやるき、覚悟しんしゃい」
「え、やだ!」
ご飯を食べ終わったとはひたすらこんな様子で、時間はすぐに過ぎていった。
今度はよく散歩に行っていた公園で一緒にお弁当を食べたいと私が言うと、部活がオフのときに行こうと「ちゃぴ」も肯いてくれた。
教室に戻るべく私と「ちゃぴ」ははしごを下りることにする。
下を見ると思っていたよりも高さがあって、どうしてこんなところでご飯を食べていたのかと眩暈がしてきた。
自分一人でここから降りられるとは思えず、レスキュー隊でも呼んでほしい気持ちでいっぱいだ。
私が固まったまま膝をついて下を見ていると、背後から「ちゃぴ」がのしかかってきた。
「ちゃぴ」から甘くていい匂いがする。
こんなに「仁王雅治」である「ちゃぴ」に密着したのはこれが始めてだ。
「怖い?」
「怖い……」
「大丈夫じゃ」
わざと「ちゃぴ」は私の耳元で喋っている。
さっきしゃべっていた声よりも低い声で、耳に息をふきかけるようにゆっくりしゃべっているのもきっとわざとだ。
「ちゃぴ」は私の荷物を持って先に下りていった。
その後に受け止めるからできるだけ下りてきて欲しいと言われて、私はゆっくりとローファーをはしごにかけた。
滑って落ちたらどうしようと思いながらも、今は下に待ち構えている「ちゃぴ」のことを信じる他ない。
ある程度のところではしごが消えて、そこから私は「ちゃぴ」に救出された。
無事に地面に下り立った今、私の足はがくがく震えているし心臓はバクバクしっぱなしだ。
もう絶対何があろうともあそこには上らないと決めた。
* * *
「えぇッ!?先輩のパンツ見たんスか!?」
「事故じゃ、事故」
「仁王先輩が仕向けたんじゃないんスか」
「プリッ」
「さんももう少し女性らしさというものを……」
事故、本当に事故じゃった……多分。
赤也がこの話をして顔を輝かせていたとか、柳生がに対して少し呆れていたとかそういう話はには秘密じゃ。
めくらまし
(俺は何にだってなれる)
2011.11.17