*ちゃぴ 06*
放課後の誰もいない教室に「ちゃぴ」と2人きり。
それでも変な空気や緊張が感じられないのは、私と「ちゃぴ」がそれなりに長い時間を一緒に過ごしてきたからかもしれない。
長いと言ってもそう大した時間は経っていない。
でもゼロから出発した私たちにとっては、それなりに長く曲がりくねった道だったんじゃないかと思う。
今2人の間に流れる空気は、ある意味では恐怖だ。
いつものことながらいきなり呼び出されて、それも放課後の空き教室。
何かイタズラでもされるのかと思えば「ちゃぴ」は教室の端のほうの席に座っていて、私が教室に着いても軽く手を挙げただけだった。
私が感じているのは「ちゃぴ」にとんでもないことを言われるのではないかという恐怖。
緊張なんて感情は置き去りに、恐怖だけが目の前を突っ走っている。
「えっと……どうしたの?」
耐えられなくなった私は口を開いた。
椅子を引いて「ちゃぴ」の前の席に座ると、「ちゃぴ」がこっちを見つめた。
「やっぱ、あれしかないか」
「あれ?あれって何のこと?」
「プリッ」
先ほどのテンションはどこへやら、「ちゃぴ」はニヤリと笑った。
きっとあれは演技だったんだ……また詐欺師の手に引っ掛かってしまったのか私……。
本当に元気がなかったように見えたから、本気で心配したんだけどなっていうのは「ちゃぴ」には内緒にしておこうと思う。
「さて、今日は面白くなるぜよ」
きらきら目の輝いている「ちゃぴ」に何かを押し付けられ、私は頭上にクエスチョンマークを浮かべることしかできなかった。
* * *
重い足を引きずりながら私は「ちゃぴ」の後ろを着いて歩いた。
鼻歌を歌いながら歩く「ちゃぴ」はとても上機嫌なように見える。
でも私はと言うと心臓はばくばく、手と足が一緒に出てるんじゃないかと思うくらい歩くという動作がぎこちない。
ズボンのポケットから鏡を取り出し、自分の顔を見た。
すると「ちゃぴ」がその鏡をひょいと取り上げ、私の手の届かないところまで持ち上げる。
私は「ちゃぴ」を軽く睨んで、返して欲しいと目で訴えた。
「返してやらん」
「……なんで!」
「、さっきから何回自分の顔を見とると思っとるんじゃ?」
「……わからないけど」
「普通の男はそんなしょっちゅう鏡なんか見ん」
「そうだけど……」
「ちゃぴ」が私の目の前で指をぴしっと1本突き立てた。
私は驚きやらなんやらでうっと口ごもる。
「これからは男じゃ。男!」
「わかってる……!」
何を隠そう、私が今来ているのは立海テニス部のジャージだ。
あのなんとも渋い色のジャージを身にまとい、白いズボンを履き、スニーカーもお借りすることになった。
準備がいいことにそのスニーカーはシークレットブーツ使用になっていて、かかとに少し厚みのあるものが入れられていた。
これのおかげで私の身長は5センチほど高くなっている。
髪の毛も「ちゃぴ」が準備したカツラをかぶっているから、いつもの私とは全く違う。
短い髪の毛で髪の毛の色も違って、なんだか首の後ろがスースーする。
極めつけは「ちゃぴ」がたくさんある中から選んだ眼鏡まで着用。
「手塚用じゃ」と謎の名前と一緒に、銀色のフレームの眼鏡を渡された。
この眼鏡をかけるだけで頭がよくなったのではないかと錯覚するくらい、知的なデザインの眼鏡だ。
柳生くん用もあるらしいけど、柳生くん本人がいるから却下だと言われた。
そこで私は初めて、何のために「ちゃぴ」が私にこんな変装をさせているのかということを理解した。
「いいか、堂々としとくんじゃ。おどおどしたり恥ずかしがったりしたらバレる」
「堂々としててもバレるでしょ!第一、部長さんや副部長さんに何て……」
「部長は今日委員会。副部長は所用で珍しく欠席じゃ」
「うー……」
そこまでこの計画が念入りに準備されていたものだとは知らず、私は反論することもできなかった。
でもやっぱり怖いものは怖い。
バレたら女の子達になんて言われるかわからないし、身長だって5センチアップしたとは言えまだまだ小さい。
顔だって髪型を変えたのと眼鏡をかけただけなのに、これでみんなの目を誤魔化せるものなのか。
「大丈夫じゃ。胸だって潰したじゃろ」
「それ言わない約束……!」
「ピヨッ」
先ほどのことを思い出して顔がカッと熱くなった。
トイレで手渡されたジャージに着替えて、私は教室に向かった。
「ちゃぴ」は、んーと眉間に皺を寄せて私を見るばかり。
そんなに私はジャージが似合わないのかなと、若干落ち込んだりもした。
「やっぱあるモンはあるんじゃな」
「へ?」
「胸潰さんとバレる」
まっすぐ「ちゃぴ」が指差しているのは私の胸だった。
いやいやいやいや、小さいし何の支障もないと思うんですが!
そうやって反論すると、ごくごく自然に「ちゃぴ」が私の胸に触れた。
少しだけ「ちゃぴ」の指に力が加えられて、私の胸がむに、と押された。
あまりに突然のことで固まってしまって、叫び声すら出せなかった。
「このサイズはアウト。潰すぜよ」
「え、えええ……」
すぐにジャージの下に肌着を着ていることを確認されると、ジャージをべろんとめくられた。
これじゃトイレで着替えてきた意味がない……!
そしてサラシが私の体に巻かれていって、最後にぎゅっと締められた。
めくられたジャージが元に戻されると私の胸はぺったんこになっていて、それが面白くて自分で何度も胸を触ってしまった。
「俺はがちゃんと女で安心した」
「セクハラ!あんなことで安心しないで!」
私は愚痴を言わずにはいられず、「ちゃぴ」に着いていきながらその後もずっとぶつくさと文句を言った。
確かに「ちゃぴ」がテニスしてるところは見てみたいし、それをフェンス越しなんかじゃなくすぐ近くで見られるなんて嬉しいに決まってる。
でもこの作戦がバレたら私は数ヶ月はネチネチと女子のイジメにあうかもしれないけれど、それよりも「ちゃぴ」と過ごすことを制限されたり、もしくは「ちゃぴ」と過ごすことが許されなくなったらと思うとそれが一番辛い。
「心配しすぎじゃ」
「……本当に大丈夫?」
「大丈夫」
「ちゃぴ」の手が頭の上に乗せられて、私は頷くしかできなかった。
しばらくしてテニスコートに到着し、私は手にボールペンとノートを持たされ、目立たないような隅のほうを陣取った。
何してるんですかと聞かれたら、仁王先輩に頼まれて彼の観察とそれに関するデータをとっていますと言えと「ちゃぴ」に言われた。
そんな難しいことできないと言うと、ノートに適当に正の字でも書いとけばいいと笑われてしまった。
極力人とは話さないこと、風邪気味で声が出しにくいからと言って筆談してもいいと言われた。
それを聞いて本当に徹底的に考えられていると関心してしまった。
なるべく人が近づかないように配慮してくれるとも言っていたし、目立たないように大人しくしていれば大丈夫かもしれない。
あ、「ちゃぴ」が部室から出てきた。
ジャージに着替えて手にはラケット、いつもの制服姿とまた違う雰囲気。
隣にいるのは赤也くんだ。
「ちゃぴ」が一人の男性に話しかけ、私のほうを指差した。
何か私について説明しているのかもしれない。
男性は頷き、レギュラーと思わしき数人を集めてから何やら話し始めた。
コートにいた部員が散り、先ほどの数人がコートに入った。
いよいよ練習が始まるんだと、私はボールペンを強く握った。
* * *
行ってこいとの背中を押すと、は勢いよく飛び出して隅っこのほうで立ち止まった。
正直こんなことくらいで問題は起こらないと俺は思っている。
でももしものために、柳にはのことを説明しておいた。
もちろん「アイツは女じゃ」とかそういう説明ではなく、もしものときににさせる説明と同じ説明。
柳は急に何を言い出すんだと言いたそうだったが、いつもの俺の気まぐれだと思ったようで深くは突っ込んでこなかった。
「仁王先輩、結局先輩はいつ来るんスか?」
「さあな」
部室で出会った赤也は、先ほどからそんなことばかり言っている。
コイツまさか本気で……と思いつつ、同じコート上にがいるだなんてことは絶対に言ってやらない。
柳がレギュラー部員全員を集めて今日のメニューを説明した。
幸村は委員会だし、真田もいない。
柳は2人の変わりにてきぱきと準備を進めた。
今日の練習はアップのあとに練習試合。
しっかり見ときんしゃいと心の中でに呟いた。
試合は順調に進み、俺と赤也の試合も終わった。
練習だろうが負けた赤也は悔しそうな顔で俺を睨む。
このタイミングでこの組み合わせ、この勝敗結果。
赤也はが自分の負けた姿を見ているということは知りもしない。
相変わらずフェンスの向こう側からは女子の黄色い声が聞こえていた。
いつもは聞き流すその声を、今日の俺は熱心に聞いている。
もしものことがバレたら、はやいとこを部室に引っ込める必要があった。
「ねえ、あそこの隅っこにいる子見たことある?」
「どれどれ?んー……見たことないかも」
「だよね、新入部員かなぁ?」
「こんな時期にー?」
「小さいから1年生かな?」
「よく見たら可愛らしいよね。女の子みたい」
「でも眼鏡が知的でちょっと格好いいよね」
女っていうのは、相手が異性だということを前提にすればなんでも褒めるんだろうか。
つくづく怖い生き物だと思わされた。
俺はその会話を聞きつつ、赤也を連れてコートを離れた。
次は柳生と丸井の試合が始まる。
「あーあ、なんかおもしれーもんねぇのかな」
「面白いもんは自分で見つけんしゃい」
「そりゃそうなんスけどぉー。……ん、アイツ誰?」
「?」
柳生と丸井はお互い一歩も譲らす真剣に試合をしている。
そんな中、俺と赤也はのんきなものでベンチに座りながら談笑中。
俺の横でつまらなさそうにしていた赤也の目元にぐっと皺がより、どこかを見つめているのだとわかったときにはもう遅かった。
赤也が指差しているのは間違いなくで、あんな奴いましたっけ?と俺に聞いてきた。
こんなことになるなら、もっと真面目に赤也の相手をしておくべきだったかもしれん。
はこっちの様子には気付かず、ひたすらにペンを動かしていた。
……観察は俺の観察だけでいいのに、まさか柳生と丸井の試合も真面目に見とるんか。
「なんか熱心にノートとって、怪しくありません?」
「柳の崇拝者じゃろ」
「でも俺あんな奴見たことないんスけど。……ちょっと話しかけてやろ」
「!?」
赤也の腕を掴もうとしたが、赤也はさっきのダルそうな雰囲気など嘘だったかのように素早くベンチから立ち上がり、の方へと近づいていった。
に逃げろと念じてみるものの、俺の願いは届く気配がない。
「ねぇアンタ、さっきから何してんの?」
「!?」
赤也の登場に驚いたが目をまん丸にして赤也を見つめていた。
すぐに俺のほうを見て、ヘルプミーの目線を送ってくる。
言われなくてもわかってると心の中で言いながら、俺もの方へ向かおうとした。
でも先ほどの女子の会話を思い出し、ここで俺たち2人がのところへ行くと目立ってしまいもっと収集がつかなくなってしまうのではないかという考えも脳裏を過ぎる。
「ん?なんだこれ正の字?」
「仁王先輩に頼まれてるんです……」
「へぇー」
赤也がの顔を覗き込む。
みるみるうちには赤くなって、もう一度俺のほうを見た。
……なんで赤也に見られただけで赤くなる必要があるんじゃ。
俺は不満に思いながらも、目立たないように小さくに手招きをする。
そしてそのまま部室に入りが戻ってくるのを待った。
少しして息をきらしながらが入ってきた。
でもその後ろにはばっちり赤也もついてきていて、俺は溜息をつくことしかできなかった。
赤也、もう少し空気読んでくれんか……。
「アンタ、誰かに似てるんだって!俺ぜってー見たことあるし!」
「ひ、人違いだと思います……」
は精一杯低い声で返事をしていた。
その姿が可愛くて、俺は声に出して少しだけ笑ってしまった。
その声に気付いた赤也が、部室にと自分だけではなく俺がいることをようやく理解した。
仁王先輩!?と少し大げさに仰け反りながら、他に誰かいるのかときょろきょろしている。
誰もほかにいないのを理解した後、赤也は少しだけ停止した。
俺と結びつく人物を頭の中で割り出しているのかもしれない。
「あ、わかった!アンタ、先輩っしょ!うわ、すげー!」
「っ……」
「あーバレたか」
ぐいぐいに近づく赤也を阻止するべく、俺はと赤也の間に立ちふさがった。
「やっぱりバレたよ……」
「赤也は予想外じゃった。赤也いいか、他の奴等には秘密じゃ」
「わかってるっすよ!それより、もうちょっと先輩見せてくださいよ!」
こんなに素直にモノが言える人間を羨んだことはない。
赤也はキラキラした目でを見ていた。
はその視線に耐えかねたのか、もうおしまい!と言ってから俺の後ろに隠れて顔を半分だけ出した。
男子がそういう行動を喜ぶなんていうことを、は知るはずもないんだろう。
「あんまりじろじろ見ないでよ……恥ずかしいから」
「いいじゃないっスか……本当にパっと見じゃわかんないっスよ!さすが仁王先輩!」
「土台がえぇからじゃ」
「もう……「ちゃぴ」まで……」
はまた恥ずかしそうに呟くと、完全に顔を隠してしまった。
「すまんすまん」
「うわ、先輩たちがいちゃいちゃしてる!」
俺がの頭を撫でると赤也がまた騒ぎ出した。
……お前さんはどうやったら静かになってくれるんじゃ。
「試合、どうじゃった?」
「すごかった!ちゃんとしたルールとかわからなかったけどわくわくしたよ!」
「それならよかった」
「うん!今日は本当にありがとう、「ちゃぴ」」
「もしかして俺が負けたところ先輩に見られた!?」
「当たり前じゃろ、赤也」
「……めちゃくちゃへこむんスけどそれ」
「赤也くんもすごかったよ!」
が自分の負けた姿を見たのだと知って、赤也が大人しくなった。
優しいはそんな赤也もフォローしてやってる。
赤也くんもすごかった、あんな早い動きはできない、すごいパワーだったね……大したことない褒め言葉なのに、が言うとその言葉が全て輝いていた。
いつも言われている言葉なのに、赤也も嬉しそうにしている。
ああ、これが恋ってやつなんじゃなと、寂しい気持ちがこみ上げてきた。
赤也に抱いている気持ちは嫉妬で、2人を見ているとを独占したいという気持ちでいっぱいになる。
俺が今までに感じてきたものはに出会うまでの練習でしかなかったのかもしれない。
俺は本気で誰かのことを好きになったことなんてなかったのだろうか。
今までの相手も……あの女でさえも、俺は本気じゃなかったんだろうか。
あれだけ傷ついたのに、じゃあを失うことになったら俺はどうなってしまうんだろう。
でもにとって俺は「ちゃぴ」で、それ以上でも以下でもない。
いくらが現実逃避に俺を利用しているからと言って、の気持ちは嘘偽りのない純粋な俺に対する愛だ。
それがたとえ犬に向けられている気持ちであっても、愛であることには変わりない。
人の気持ちをもて遊ぶなんてことはするなと、柳生は俺に言いたかったんだろうか。
俺がそうされたように、にも同じ目にあわせる気なのかと。
俺がに嘘をつき続けるということは立場が逆転しただけで何も解決しないし何も生まない、そんなことで俺の心の穴が埋まるわけがなかった。
だけど俺自身がこの気持ちに気付いてしまったからには、このまま現状維持のまま終えるという選択肢もない。
俺は「ちゃぴ」ではなく仁王雅治なんだと、真っ直ぐ俺を見て欲しいと、そういう欲が出てくるのが人間というものだ。
すまんな、俺が「ちゃぴ」じゃなくて本当にすまん。
今のにはまだまだ「ちゃぴ」が必要で、今俺が「ちゃぴ」から仁王雅治になってしまうのは、酷であるように思えた。
いつか、いつかでいい。
俺のことを心から「仁王くん」と呼んでくれる日がくるんだろうか。
偽りでもなんでもない、からかいでも遊びでもない本当の気持ちをにあげるから……俺を俺として、見て欲しい。
二人の詐欺師
(俺という存在だけは詐欺じゃない)
あとがき
またもや最後シリアス!
仁王にセクハラさせたかったんです笑
2011/12/13