デッサン



 放課後の中庭に響くのは部活動の掛け声と鉛筆をはしらせる音だけだった。
 は一人、スケッチブックを抱え込みながらベンチの前にしゃがみこむ。ベンチに座るのではなくベンチを凝視し、ぐるりと周りを歩き回り自分の求める角度を探した。それが見つかったはぺたんと煉瓦の地面に座り込み、一人で黙々とベンチをスケッチブックに移しこみ始める。
 
 休むことのない手の動きと観察をやめない視線、誰が見ても集中しているようにしか見えなかったが彼女は作業を始めたころから感じている違和感をまだ振り切ることができずにいた。
 どこの誰かは知らないが、の作業を見ている人間がいる。
 視線を感じたときにさり気無く顔を上げてみたり周囲を見回してはいるものの、誰に見られているのかを知ることはできなかった。スケッチブックの上を滑る鉛筆を止めて左右を横目で確認してみても視線の主は見つからない。は溜め息を吐いて独り言を漏らした。


 「……なんだかやりにくいな」
 「邪魔したかい?」


 独り言のつもりがそうではなくなってはビクりとしながらも声の聞こえた方向を振り向く。数メートルほど後ろにユニホーム姿の幸村が立っており、一歩また一歩とこちらに近付いてきていた。
 どうして幸村の存在に気が付かなかったのか不思議ではあったものの邪魔というよりも知らない人間の視線ではなかったという安心感の方が勝ったが首を振り、苦笑すると幸村は笑顔で応える。


 「よかった、邪魔したんじゃないかと思った」
 「そんなことないよ、邪魔だなんて……ただちょっと驚いただけ」


 幸村はそれを聞くと満足したようにまた微笑みの側に近寄った。立海大付属中の敷地内に無数に設置してあるベンチ、その描きかけのデッサンを横から覗き込むようにして見つめる。


 「前から思っていたけれど上手だね。それにさんらしい雰囲気がある」
 「そうかな?でも幸村くんもデッサン上手だよ」
 「俺のはただ見て描いただけに過ぎないよ。さんのは素敵だ」
 「素敵、なんて……お世辞も上手だね」
 「お世辞じゃないよ」


 は美術部に所属しておりデッサンをすることは珍しくない。デッサンが上手だと言われることはあっても素敵だなんて褒め言葉は言われたことがなく、嬉しさと恥ずかしさで耳が熱くなるのを感じた。
 まだじっくりと描きかけのデッサンを眺める幸村を見て、どうにかして話題を変えなければと考えたは今度は自ら幸村に質問をする。


 「そういえば幸村くん、今日はユニホームなんだね」
 「あぁ、少しだけでも練習しようと思ったんだ」
 「……体調、よくないの?」


 手を止め表情を曇らせるに幸村は一瞬困惑した表情と驚きの表情を見せた。
 いつ彼女に病気のことを話しただろうかと記憶を辿れば、以前彼女に声を掛けたときにほんの少しだけ自分の健康状態が万全ではないということに触れたような気がする。


 「そうだった、前にさんには話したことがあったんだな」
 「前も今日と同じように幸村くんが話しかけてくれたんだよ」
 「憶えているよ、この前は花壇の前だった。前もさんのデッサンに引きつけられたんだ」
 「……」


 再び話題がデッサンに戻ってしまったことには少し戸惑いながらも、幸村の言葉に相槌を打った。
 幸村は当時を懐かしむように目を細めて過去のやり取りを思い出している。幸村にとって彼女とデッサンは切り離せない関係にあり、今日こうして話をしていることも決して偶然ではないのだ。
 言ってしまえば彼女はどんな反応をするのだろうかと、きっと困らせることになってしまうと予想しながらも濁したり嘘をつくことを諦めた幸村は短く息を吐いた後はっきりとした口調で言った。


 「もうすぐ俺は入院する」
 「え……」
 「手術を受けるんだ」
 「そう、なんだ」
 「それでさんに……一つ頼みたいことがあるんだ」


 どれくらい難しい手術でどれくらいの成功率なのか、その手術で何がどう変わるのかは知るはずもない。幸村もその点を彼女に話すことはしなかったし、話す必要もないと考えていた。
 ただ一つの幸村の我が儘、その話をするために彼はこの場所にいる。


 「……私にできることなら」
 「むしろ君にしか頼めない」
 「……どんなことだろう」
 「単刀直入に言うよ、さんのデッサンが欲しいんだ」
 「私のデッサン?」
 「あぁ。病室に飾りたいんだ。俺の目の届くところに飾っておきたい」
 「私のなんかでいいの?」
 「さんのが欲しいんだ」


 幸村がどうしてそこまで自分のデッサンに拘るのかは検討がつかなかった。病室に飾るのなら名画のレプリカだって今の時代簡単に手に入るのだからわざわざ素人の描く絵を飾らなくてもと内心考えたものの、幸村のご要望とあっては彼にも何か考えがあるのだろうと最終的には快く承諾する。一人孤独に病魔と闘う幸村に少しでも寄り添うことができるのならと思うと、断る理由が見つからなかった。


 「そう言えば幸村くん、練習はいいの?」
 「もう練習は終わったんだ。じゃなきゃ、真田に説教されてるよ」


 手術のことを聞かされたは落ち着かない様子でベンチと幸村を交互に見つめる。
 幸村も落ち着かないのは同じだった。本当は手術のことは告げずにデッサンが欲しいということだけを伝えるつもりにしていた。ところが以前さらりと流した程度の病気の話を憶えていたに体調のことを心配され、嬉しい誤算は幸村を平常心でいられなくした。
 逆に入院の話をせずにどう絵を貰うかということは課題ではあったものの、彼女を心配させる意図がなかっただけに幸村は少しだけ後悔する。
 部活に行かないのかとに言われてしまったときはこの場に留まるのが気まずいと思われているような気がして、苦笑いをするしかなかった。


 「急にこんな話を持ちかけられてさんも驚いただろう?」
 「驚いているけど嫌な意味ではないかな、どちらかと言うと心臓に悪いと言うか……」
 「心臓に悪い?」
 「あー……ごめんね、気にしないで」


 は手術の話を幸村の口から初めて聞いた。校内で噂にはなっていないということは、手術の決定がかなり最近の出来事であるかあるいは幸村が事情を知る一部の人間に口止めしているかのどちらかということになる。幸村の病状をは知らなかったがそれでも1泊2日の入院で戻ってこられるような簡単な手術ではないということは察しがついた。
 一部の人間しか知らない秘密事項、恐らく自分は本来知る必要のなかった人間なのではと思うと余計な質問をしてしまったと数分前の自分を呪いたくなる。秘密の共有ができても嬉しさなどはなくむしろ困惑と後悔が残って、彼女は小さく唇を噛む。自分が背負い込むには大きすぎる問題に思えた。
 でも知ってしまったからにはどうにかして彼を元気づけてあげたい。デッサンを贈ること以外に自分に何ができるんだろうと手を止めてしばし考えた。


 「私制服姿の幸村くんも好きだけど、ユニホーム姿の幸村くんも好きだよ」
 「?」
 「はやく幸村くんが思いっきりテニスを楽しめるようになって欲しいって心から思ってる。そのためにデッサンも頑張って心を込めて完成させたい」
 「さん……」
 「私にできることはこれくらいしかないけど、だか、ら……!」


 言葉は最後まで紡がれることはなく、驚きと緊張とでは全ての言葉を失った。
 スケッチブック諸共幸村に後ろから抱え込まれたは自分の手の中のスケッチブックと鉛筆を更に強く握りしめる。
 幸村は腕の中で小さくなる彼女の髪の毛に自分の頬を寄せて何と言うべきか言葉を選んでいた。こうなってしまっては言い訳が通じるとも思えず、再び狂わされてしまったことにむしろ小さく笑みすら零れてくる。


 「絶対に元気になって戻ってくる」
 「……はい」
 「テニスもしたいしさんにも会いたいから、絶対に手術だって乗り越えてみせる」
 「……応援しています」
 「フフ、入院前に好きだなんてずるいよ」
 「!?別にあれはそういう意図じゃなくって、幸村くんを元気付けたかっただけで……!」
 「でもものすごくあの言葉に元気を貰ったから間違ってはいなかったよ?」


 違うと言い訳するの必死さが幸村には微笑ましくてたまらなくて、もっと困らせてやりたいという気持ちがどんどん膨らんでいくのを抑えながら先程よりも腕に力を込めた。
 何も知らない人間が見れば数分前にあんなシリアスな話をしていたようには思えない二人が仲良く木の下でくっついている。校内なので通行人がいないわけもなく、しかも片方があの幸村なのだから女子は足早にその場を過ぎ去ってからちらちらと振り向くのでははやくデッサンの続きを描かせてほしいと幸村に懇願した。


 二人が身体を寄せ合う少し奥にもう一つベンチが設置されている。そこには先程ののようにスケッチブックに鉛筆を走らせる一人の少女の姿があった。
 の部員仲間が幸村とをデッサンモデルにしていることにまだ二人は気付いていない。

















2017/12/18  大幅修正