夜の帳が下りる頃、
大和国西の京のすみっこの、
小さな店に灯がともる。
衆生を導き疲れたブツたちが、
静かに杯を傾ける場所。
その名は、
しゃらん…
扉が開けると、取り付けられた瓔珞が玲瓏たる音色を奏でる。
「いらっしゃいませ」
迎えるオーナーは薬師寺の月光菩薩。
癒しの微笑みは衆生だけでなくブツたちをも救うかのよう。
「ご無沙汰いたしました」
「まあ、夢違さん。おひさしぶり。」
やってきたのは法隆寺の広報部長・夢違観音だ。
人気者ゆえの気苦労があるのだろうか、愛らしい表情がどこか曇っている。
「夢違さん、お疲れかしら?だったらもう少し静かな音楽がいいわね」
店内に流れているのは、ボサノバ調の般若心経だ。
「ありがとうございます、それじゃ、変えていただいてもいいでしょうか」
「遠慮は無用ですよ。技芸さん、」
月光はカウンターの向こうに佇んでいた秋篠寺の技芸天に声を掛けた。
「あれがあったでしょう、バロック風の心経。あれに変えてくれる?」
「はい、かしこまりました」
月光に負けぬ程の柔和な笑みを浮かべて、技芸天が頷いた。
程なくして、店内にはバロック風の般若心経が流れ始める。
「ああ、いい音楽。ありがたいです」
うっとりとした表情で、夢違が呟いた。
「ふふ、でもこれは太子には内緒にしておきましょう、
『私が講じた勝鬘経を流さぬとは邪道だ!』とか言いそうですし。」
「…お恥ずかしい限りで…」
夢違が頬を赤らめる。
「太子は、悪い方ではないのですが…」
「わかっていますよ、太子は偉大な方です。ちょっと、アクが強いだけで」
月光が楽しそうに笑った。
「夢違さん、今日は何をお飲みになります?」
「えーと、そうですね、何かお薦めはありますか?」
夢違の問いに、月光は頷いた。
「いいのがあるの、阿修羅君のオリジナルカクテル。」
「えっ、阿修羅さんの?それは楽しみですね、どんなのですか?」
話を振られたのは、バーテンダーの興福寺の阿修羅だ。
少々照れくさそうに阿修羅が答える。
「”神酒柑橘(ソーマオレンジ)”です」
「あ、なんだかおいしそうですね!それお願いします」
「かしこまりました」
「いい神酒をね、乾闥婆君が卸してくれたのよ」
「乾闥婆さんは神酒の番人ですものね」
阿修羅は軽く会釈をし、早速シェイカーを振り始めた。
月光と夢違の談笑は続く。
「あぁ、やっぱりここは落ち着きますね、さすが月光さんのお店です」
「夢違さんでも疲れることがあるのね」
「ええ…みなさんの夢をいい夢に変えるのは楽しいんですけれど、
太子が私をあまりにお褒めになったりするので、それが却って重圧に…」
夢違が遠くを見つめた。
「あらあら」
月光が面白そうに笑った。
「太子はよかれと思って褒めていらっしゃるのでしょうけど」
「ええ、そうなんです…。止めて下さいだなんて言おうものなら、
『お前は白鳳の最高傑作だぞ、もっと自信を持って胸を張れ!』なんて言われちゃって…
あ、最高傑作だなんて、月光さんの前で言うことじゃないですね」
「ここだけの話だけど」
月光が少し肩を竦めて声を落とした。
「実は私達も薬師さまも、讃良さまの薬師寺至上主義にはちょっと困っているんですよ」
「え、そうなんですか?」
「讃良さまときたら、何かと法隆寺を目の仇になさるのよ、ブツにいいも悪いもないというのに…」
「ですよねぇ…あの煩悩を取り除いて差し上げればよいのですが」
「それは私達がもっと修行を積まないといけないのでしょうね」
「そうですね」
夢違が生真面目に頷いた。
「お待たせしました」
夢違の目の前に、目にも鮮やかなオレンジ色のカクテルが差し出された。
「少々お疲れのあなたに、”神酒柑橘”でございます」
「わあ、キレイ!見ているだけで元気が出てきますね」
夢違は早速カクテルを口に含んだ。
「…美味しい!さわやかで、ああでもさすがソーマですね、力が沸いてくる気がします」
「畏れ入ります」
阿修羅がはにかんだ笑顔を浮かべた。
「たった一口なのに、夢違さんの表情、見違えて明るくなったわ」
月光が言うと、夢違は頬を摩りながら笑った。
「この場所と、阿修羅さんのカクテルのおかげですね。
ああ、本当に、太子の目を盗んで来てよかったです」
「百済さんや九面姐さんにも、まて来てくださいとお伝え下さいね」
「ええ、是非!」
こんな風に毎夜、Bar月光は疲れたブツの心を癒しているのです。
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