みなのもの、よくぞ私の非常に有難くて激しくためになる講座に参った! どのくらい有難いかと言うと、そりゃもうブッダの説法など遥かに上回る神々しさである。 まぁ、私が昔講じた勝鬘経等には適わないがな。 …誰だ、言ってることが支離滅裂だとか言ってるのは! まあいい、とりあえず本日の講座はこれだ。 「法隆寺、仏像引越し物語」 我が法隆寺には世界に誇る素晴らしくも美しい仏像達がたくさんいるが、中には不遇にもたらい回しを経験したブツたちもいる。 今日はそんな中から少しばかりみなのものに話をするので、しっかり聞くように! ⇒大宝蔵院の地蔵の場合。 まずは、今は大宝蔵院に安置されている地蔵菩薩だ。恰幅が良いので頼りがいがありそう、懐が深そうだとどこぞの者が申していたが、 懐の狭いブツがいるなら教えてもらいたいものだな。 それはさておき、この地蔵菩薩だが、江戸時代まで大御輪寺に安置されていたのだ。 大御輪寺とは、大神神社の神宮寺のことだ。現存はしないぞ。 その頃の地蔵は、現在山の辺の道沿いにある玄賓庵にいる不動明王と組んで、今は聖林寺に引っ越した十一面観音の脇侍をしていたのだぞ。 なかなか豪華は三尊像であるが、まあ我が法隆寺の釈迦三尊には到底及ばないな。 その後、神仏分離令を受けて慶応4年、西暦1868年の5月に聖林寺へ引っ越しをしたのだ。 更に明治6年、西暦1873年になって我が法隆寺の北室へやってきた、というわけである。 晴れて我が法隆寺の一員となった地蔵だが、北室からまずは金堂へ移された。金堂にいた姿を覚えている者もいるのではないだろうか。 それから、新築マンションである大宝蔵院にようやくマイホームを持つことができた、というわけであるな。 地蔵は大宝蔵院でやさしくも厳しい目でみなのものを見ているぞ。 ⇒小金銅仏たちの場合。 続いては、かわいらしい小金銅仏たちの話だ。私が彼らにピンポンダッシュを教えたというのは悪質な噂だ、信じないように。 承暦2年、西暦で言えば1078年に明日香にある橘寺から48体の小金銅仏たちが我が法隆寺にやってきたのだ。 現在、東京国立博物館の法隆寺宝物館にいる摩耶夫人及び天人像は、この時やって来た者達の一部である。 さて、この1078年ごろ、我が法隆寺金堂に「中大厨子」と呼ばれる上下2階の大きな厨子があったのだが、 これと更に西の間の須弥壇に、元々我が法隆寺にあった小金銅仏71体と、橘寺から引越して来た49体、合わせて120体の小さなブツ達が安置されたのだ。 しかし1082年には小さなブツたちは厨子の中に封されてしまい、簡単に見られなくなってしまったのだ。 更に橘寺組の49体は1746年には網封蔵に引越しをしたが、江戸時代には講堂に安置されていたのだぞ。 その後、東京国立博物館に引っ越した、というわけだな。 …え、私が彼らをいじめたから遠くへ行ってしまったのではないかだって?言いがかりだ!! おっとそうだ、厨子と言えば特に有名な玉虫厨子、あれも実は橘寺から法隆寺に移されたという話があるのだ。 鎌倉時代に書かれた「聖徳太子伝私記」にそのことが書いてあるぞ。 真実はどうかだと?…昔のことは忘れた。 ⇒金堂阿弥陀三尊の場合。 次は少々特異な例であるが、金堂の阿弥陀三尊の話をしよう。 実は元々金堂の西ノ間に住まいしていた阿弥陀三尊像を含めた仏像たちが、1097〜99年の間に盗まれてしまったのだ。不埒な輩がいるものだな。 その後、1232年に大仏師運慶の子である康勝が現在の阿弥陀三尊像を完成させたのだ。康勝は京都の六波羅蜜寺の 空也像を手がけたことでも有名だな。 ところがだな、この三尊の右脇侍である勢至菩薩が行方不明になってしまい、現在大宝蔵院にいる観音立像が代わりを務めていたのだ。 そこ、私が勢至をいびったから逃げたとか言うつもりではないだろうな!! …とにかくだな、皆心配していたのだが勢至はなかなか戻らなかったのだ。ところが最近になってなんとフランスはパリのギメ東洋美術館にいることがわかったのだ。 そこで平成6年、1994年にお身代像を作り、晴れて三尊として安置したのだ。 ここだけの話、実は私が法隆寺の仏像の素晴らしさを広めるために勢至をヨーロッパに送り込んだのだが、秘密にしておくようにな…。 以上で私の有難い話はおしまいだ。また機会があったら会おう! |