色にはそれぞれの意味がある。
 意味のない色など、この世に存在はしない。
 例え一つ一つの意味は小さくとも、重なることによりそれは大きな意味を持つようになる。
 ただし、全てが祝福を受けるべきものとはならない。
 呪われた色の交わりにより、呪われた運命を背負う者もいるのだ。
 色は意味を持つものであり、時にその色のため運命を狂わされてしまう。
 故に真に恐ろしきは人の心の動きではなく、色の持つその力である。

 色彩学者ラウル・バーナ


滅びの獣

episode1 開放




 闇のように濃く、僅かな光すら射さぬ暗い空間。
 カツン、カツンと足音だけが響き、歩いていた男はその静けさにぶるっと身震いした。
 右手に持ったランプで足元を確認し、かび臭さに僅かに顔をしかめながらも一歩一歩確実に進みだす。
 螺旋状に下へ続く階段は奈落のように深く、どこが終着点であるか肉眼では確認できなかった。
 景色の変化や人の存在が確認できないこの場所は時間の感覚が分かりにくく、確実に階段を降りているはずなのに先へ進んでいる気がしない。
 それは、この場所……ジオフロント全体に施されている魔道の影響の所為もある。
 ジオフロントとは塔の名称。ラーナ大陸の南に位置するネルフ王国から離れた場所に聳え立っている。
 この塔の役割はあるものを封印すること、たった一つのそれのためだけに存在し、それ以外においてはまったく活用することはない。
 多大な手間と費用をかけて造られたジオフロントは建設されてから200年程経つが、その間に使われたのは一度だけだ。
 それも11年前に使われたのが初めてと、建設されてからかなりの時間が経ってからだ。
 普通、このような塔は目的があるからこそ作られる。目的もなく建てるなど、そんな金の無駄使いは国民が許しはしないし、なにより国王の能力が疑われることに繋がってしまう。
 建設当時は国民から疑問の声があがることもあったが、国王が放った言葉に人々は愕然とし、同時に異を唱えるものはいなくなった。

『この度における塔の建設目的は滅びの獣を封じるためのものである。偉大なる魔道師コウゾウ・ラスティアと先見の姫ユリア・エレファムの予知による確かなものだ、杞憂で済ますわけにはいかぬ。』

 予知や予言というものは魔道に詳しくない者にしてみれば、信じるも信じないも自由のようにとられてしまうが、それが先の二人が行ったものとなれば事情は全く違うものになる。
 コウゾウ・ラスティアは大陸最高の魔道師であり、先見の姫ユリア・エレファムは白魔術の権威と同時に未来視を行える唯一の魔道師と、両名とも歴史に名を残すほどの人物。
 魔術の腕だけではなく国民からの人望も厚く、この時告げられた予知を疑うものは人々の中に誰もいなかった。
 国民の理解を得てジオフロントはその姿を着実に表し、滅びの獣が現れることなく10年の歳月をもって完成した。
 魔道による予言や予知というものは抽象めいたもので、正確に起きる時間や事柄が知ることが出来ない。
 特に術者を上回るような能力の持ち主に関することなどは霧がかかったように情報が遮られ、さらに困難を極めることになる。
 学者によればいかに優れた者といえども、未来を知ってしまえば心が変わってしまうかもしれないがために、予言や予知は抽象的なものになるらしい。
 ただし、魔道における予言、特に予知によって知ることが出来た情報は抽象的ではあるが、確実にこれから起きる事実だ。
 例え現国王が生きている時代に滅びの獣が現れなくとも、いつかは現れる。予知からもたらされた言葉は、

『王家に祝福されし色の子が生まれる時、人の世に争いの火の粉が舞い降りた時、人の心が堕落を辿った世において滅びの獣は現る』

 という、いつ現れるのかということにかけて具体的に示されるものではなかった。
 子供がどのような容姿で生まれてくるかは皆目見当つかず、後者の二つにおいても決まった時に起こるものではなく、時代の流れによって起こるべくして起こるものだ。
 そのために国王はいつ滅びの獣が現れてもいいようにジオフロントという牢獄の名の塔を作った。
 実際に使われたのは遥か後の事だが、この塔のおかげで滅びの獣を封ずることが出来たのだから、国王の案は正しかったと言える。
 最下層に辿り着き、男は空気が変わったことを感じた。お世辞にも綺麗とはいい難かった空間がそこだけは別世界のように汚れから解放され、滅びの獣を封じる塔とは思えぬほどに綺麗だ。
 築200年経つというのに壁には傷らしい傷が見当たらず、最近作られたばかりではないかと思うほどに真新しい。
 地上にいるよりも透明な空気、整えられた空間、そこは楽園のように男は感じたが、ここが滅びの獣がいる場所だと思い出し、顔を引き締めた。
 滅びの獣。
 万物のものをも破壊する滅びの化身。
 現れたが最後、抵抗する術はなく等しく天地に破壊をもたらし、世界を浄化する。
 どんな素晴らしい物語よりも、どんなすばらしい英雄伝よりも、当たり前に知っていると思われているはずの神話よりも人々に知られている名称。
 この世に生まれて初めて聞かされる話は、滅びの獣というくらいに世界に浸透している。
 男はその話がどんなものか思い出しながら、いつの間にか小刻みに震えていた足を強引に前に出し奥へと進む。
 幅2メートル、高さ5メートルほどの通路を進むと、鉄格子に遮られた通理より広い空間へ出た。
 魔道力が作用しているこの場所は暗くならない程度に光が灯っており、ランプのようなものは必要がない。
 男はランプを通路の脇に置くと部屋の中心…滅びの獣がいる場所を見、目を見開いた。
 少年。
 両手足を鎖に繋がれ、黒い法衣に身を包んだ少年がいた。
 同年代の者と比べて明らかに分かるくらい細身で、一見女性と見間違えてしまう。
 男は先輩である兵士に滅びの獣がどんな姿であるかは伝えられていたが、改めて見ると本当に目の前の少年が滅びの獣であるかと疑わずにはいられなかった。
 その細い体は男の腰に携えられた長剣で容易く両断できそうであり、首に軽く力を入れて締めれば折れてしまいそうだ。
 だが、少年は間違いなく滅びの獣だ、その容姿が物語っている。
 一度も鋏を入れてはいないだろう長い黒髪に黒い瞳。世界で唯一の色、滅びの獣の、色。
 黒い瞳も黒い髪もさほど珍しいものではないが、この世の中において同時にその色を持つ者はいない。
 その二つの色が重なったもの、その人物が滅びの獣と呼ばれる。
 この世界、エスタリアで色は重要な意味を持つ。一つ一つの色の意味は弱くとも、複数重なり合うことにより意味は比例して大きくなる。
 大抵の色の組み合わせは特別重要視されはしないが、一部の色の組み合わせは多大な影響を与えるものとして知られている。
 物を作るときも色の意味になぞらえ、色彩を選ぶほどにだ。
 特別な色の組み合わせを持つ者、大概は毛髪と瞳の色によって特別とされるものに分けられるが、その者たちは皆、色の意味合いどおりの能力や人格形成がされる。
 故に特別な色を持つは極僅かなのだ。一説では転生してるのではないかという意見もある。確かにその通りなのかもしれない。
「おい」
 男は震えそうになる声で少年に向かって呼びかけた。
 今日ここに来たのは滅びの獣の様子を確認するよう命令されたためだ。定期的に行なわれるこの仕事は彼にとって初めての事、特定の人物が行なうことではなく、城の兵士は誰もがすることだった。
 大まかな様子は魔道を用いて知ることができるが、ジオフロントに満ちている魔道の力は並大抵ではないので毎回魔道を使うわけには行かない。
 この塔における魔道の意味とは滅びの獣を封じるのに全て使われる。内部からの破壊を魔道の力によって封じ、同時に外部から塔を破壊されないように働き、まさしく堅固な造りとなっていた。
 一人を閉じ込めるにしては大げさつくりと思われがちだが、それくらいのものだと認知されているのだ。
 至るところに魔道石といった魔道力が込められた石が埋め込まれ、常に魔道力を働かせて封じる。
 塔の上部は複雑な構造をしており、魔道の力を増幅する造りとなって存在している。
 言わば、地上から見てそれより上の部分は地下のためだけにあるといっても言い。
 ジオフロントは魔道力に満ちた建物なのだ。
 今、少年を繋いでいる鎖や鉄格子さえも魔道の力が加えられている。
 例え魔道を封じ、抑制したとしても物理的な力によって破壊されては鎖の意味がない。
 そのために素材は鉄であるものの、魔道によって物理的な力に対する耐性を高め、魔道自体も効かない様になっていた。
「…………」
 俯いていた顔を少年は上げ声が聞こえてきた自分の正面を見る。
 彼の動きに合わせるようにして鎖が地面とこすれ、ジャリっと乾いた音が鳴った。
 男は次いで言葉を口にしようとしたが、自分を見る黒い瞳に口を閉ざしてしまう。
 ここまできた時の暗闇よりなお濃く、闇を連想させる黒い瞳は全てを吸い込んでしまうように思えた。
 無言のままこちらを見る少年に対して言い知れぬ何かを感じ取り、彼は脇に置いてあったランプを掴むと踵を返し元来た道を戻りだす。
 自分の役割は様子を見ることなのだから長居する必要はないと自分に言い聞かせ、逃げ出すように早足になる。
 彼には分かっていた、本当の理由は少年、滅びの獣を恐れてこの場から去りたいだけなのだと。
 簡単に殺せるかもしれないなどと思っては見たけれど、実際目を合わせてしまうと如何に目の前にいるものが恐ろしいかまざまざと見せ付けられた。
 言葉では表せない恐怖、根源に眠る恐怖のように。
 男が去る様子を見届けると、少年は背を壁に預けて座り込んだ姿勢のまま目を瞑った。
 彼はここに連れてこられて以来、鎖によって自由を奪われ行動の制限がなされてしまったので動くことをやめてしまった。
 逃げ出そうにもここは巨大な封印の塔、当時4歳だったがそれでもどうすることも出来ないことが分かってしまう。
 どんなに叫んでも、どんなに鉄格子を揺らしても誰も来るものはいない、ここでは行動することが体力の無駄に繋がり、それゆえに何もしなくなったのだ。
 一日は大抵動かないまま過ごしている。食事、睡眠、排泄、人間における当たり前の行動を彼は必要としない。
 いや、正確には癒しや浄化の魔道によってそれらを解消している。癒しの魔道は疲れを消し、浄化の魔道は体内外における汚れを消してくれる。
 普通は眠る事によって脳や体を休める、それすらも彼は魔道を用いて克服してしまった。
 だが、食事となればどうだろう? 魔道で水を生み出すことは出来る、しかし食物はそうはいかない。
 初めの頃は王国のほうから食事が届けられてきてはいたものの、今はそれすらもなくなって久しい。
 食事をとらないことは彼にとって国に対するささやかな抵抗だった。
 彼らにしてみれば食事を摂ってくれないという事は、少年が死に瀕することに繋がり、滅びの獣となってしまうので避けたいことだった。
 滅びの獣は幼子でさえ知っている一方、その姿や能力、今まで起こしてきた破壊の歴史などまったく残っていない。
 圧倒的な情報不足である以上、全ては推測するしかなかった。
 その一つに滅びの獣は死に瀕する時本当の姿を表し、滅びの化身たる本性を見せるというものがあった。
 獣というからにはそれに相応しき姿か、もしくは獣のような凶暴性を持つものと学者を含めた多くの者たちが思っていたが、発見されたのは普通の少年と変わらないただの幼子。
 容姿こそ該当するものの、今まで考えられていた姿との違いに誰もが驚きを隠すことはできなかった。
 が、発見した以上封印しなければならない。息子を渡さないと抵抗する親を抑え、国王から命じられた兵士達は少年をジオフロントへと閉じ込めた。
 幼い彼はその時泣き叫んだ、それが彼が言葉を発した最後の日。それから現在に至るまで一言も口を開いていない。
 さて食事の件だが、食事を摂るということは栄養を摂りエネルギーを蓄えることである。ならば食事を摂らずしてエネルギーを摂れれば、必要がない行為となってしまう。
 少年は塔内に満ちている魔道力を活動のためのエネルギーとして変換するという、非常に高度な力を持ち、それによって生き長らえることが出来ていた。
(退屈だな……主よ)
 少年に話し掛ける声、ここには他に誰もいないはずなのに彼だけには聞こえる声。
 主と呼ばれた少年―――シンジ・アスラーンは俯いた姿勢のまま声を返した。
(仕方ないだろ……ここにはなにもないんだから)
 自分だけに聞こえてくる声にふてくされる様に、諦めが入った返事をする。
(リーシャだって分かっているんだから毎日同じ事聞かないでよ)
(しかし、事実だろう? もう主に教えることはなくなってしまったし、新しい情報は入ってこない……何もすることがないではないか)
(そうなんだよねぇ……)
 シンジは心の中で大きな溜息をついた。
 リーシャの透き通るような綺麗な声は心を和ましてくれるが、退屈を凌ぐには物足りない。
 リーシャ・ミレニアル。
 彼女は女性でありながら、言葉使いが女性っぽくない感じでもったいないとシンジは思っている。
 腰まで伸びる艶やかな黒髪は一度は触れてみたいと思うほどに綺麗で、群青の瞳は人を引き込む不思議な輝きを持ち、女性ならば焦がれてしまう整った肢体をもつ麗しの美姫。
 細い腰に携えられた二振りの剣は見た目麗しいリーシャに対して無骨な感じがするが、洗練されたデザインによって多少軽減されていた。
 尤も、その姿はシンジにだけにしか見えない。いや、彼女の存在は彼の中に在るといっていい。
 シンジの中にいる別の存在とでも言うのか、幼少の頃から傍にいる両親よりも付き合いが長い存在。
 小さな頃は漠然とした感じでしか自分の中にいることが分からなかったのに、ここジオフロントに閉じ込められてからその存在は確かなものとなった。
 幼いシンジが一人寂しいこの部屋で心壊すことなく育ったのはリーシャのおかげだと言える。
 滅びの獣と称される割には魔道のことなど全くの無知で、基礎すら知らぬシンジに魔道の理を教えたのも彼女だ。
 その甲斐あって、飲み込みの速い彼はあっという間に教えられた魔道を理解し、自分にあったように改良を加えだした。
 実際に魔道を使うことは塔の中において抑制されていたので出来なかったが、イメージにおいては完璧を極めている。
 イメージとは言っても、感知されない程度の魔道を用いて行なうイメージトレーニングなのだから、実戦に勝るとも衰らない効果があった。
 しかし、魔道も数において限界はあり、教えられることなどそう多くはない。基礎と応用を教えられれば、あとは自分の力によって発展させていくものだ。
 よってすぐにすることはなくなってしまい、日がな二人で本当に他愛もない談笑をし、魔道の復唱をする繰り返しになってしまっていた。
 リーシャが退屈と毎日言う気持ちも分からなくはない。
(う〜ん……じゃ、リーシャの言葉使いを直さない?)
(……なぜだ?)
(だって、せっかくの美人なのにその口調の所為で損してるよ)
(そうか? 私は気にしていないのだが……主がそういうのなら努力してみよう)
 首をかしげ納得しない様子ながらも頷くリーシャ。昔から彼女はシンジの言うことを素直に聞いてしまう傾向がある。
 しばらくの間思案すると、シンジの記憶にある女性のイメージから情報を得て行動に移そうとはいてみたものの、何を言い始めればいいのか分からなかった。
(主……何か話題を提供してくないか?)
(ん、そうだなぁ。リーシャって剣の達人なんだよね)
(ああ、自慢ではないが剣を使うことにおいて私より上手いものなどそうはいないだろうな。主が望むなら私が直々に教えてやってもいいぞ……どうした? 主よ。)
 目の前で盛大に溜息をついている主の様子にリーシャは疑問の声を上げ、それに応えるようにシンジは呆れた目を向けた。
(どうしたって、全然言葉直ってないんだもんなぁ……煽てるとすぐこれだよ)
(む……そ、そんな事ないぞ……ではなく、そんな事ないわよ。私は誰から見ても女性らしい話し方をしているではない……していますわ)
(…………)
 彼女なりに頑張ろうといている熱意はそこはかとなくだが伝わってくる、しかし長い間一緒にいただけにすっかりリーシャの口調に慣れてしまった彼は違和感を感じてしまい、言い出したのは自分のはずなのに後悔してしまう。
 必死に言葉の訂正をする姿と普段の冷静な姿とのギャップに、シンジは笑いをこらえることができなくなり、抑えようとはするものの声が漏れ出してしまった。
(何を笑っているの……ですか? ………………やってられん! 第一、私の声は主にしか聞こえないというのに、こんなことして何の意味があるというのだ!?)
(いや、まぁ、なんていうか、退屈だったからかな?)
(退屈、たったそれだけのことで私のことを弄んだのか、主は)
(最初に退屈って言ってきたのはリーシャじゃないか)
(だからといって、それとこれとは別問題だ! 他にもやることなどあるだろう?)
(ううん、ない。11年もこんな何もない場所にいるんだからとっくにネタ切れだよ)
(う……まぁ、そうだが)
 なんだかんだと言っている間にすっかりやりこまれてしまっている。元々言葉使いを直そうだなんて本気で思っていた訳ではなく、暇を持て余していたために考え無しに言ってみただけだ。
 大体、綺麗な女性言葉を使うリーシャは容姿にあっていてそれはそれでいいのだが、性格を考えるとどうもしっくりこない感があった。
 懲りずに同じ事を蒸し返してくる彼女とのやり取りを考えると、思いの他ここでの生活はシンジにとって苦痛ではないようだった。






 そこは本来個人用にしては余りあるくらい広い部屋だった。それだけに、その部屋を一人を使わせてくれるということは、格式が高い家柄のものであるか、誰もが認めるほどの優秀な能力を持つ者ということを表している。
 だが広かったはずの部屋は月日が経つに連れて狭くなっていき、最終的には極普通にある個人部屋よりも狭いものになってしまっていた。
 部屋の大半を占めるものは大量の本であり、魔道の道具。全てを読みきるにはどれくらいの年月がかかるか想像もできないくらいの数がある。
 尤も、部屋を狭くしている原因は片付けないまま読み散らかされている本のせいであり、片付けてしまえばそれなりには広くなるだろう。
 友人からも散々言われていることではあったが、その友人もまた片付けなどしない人物なだけに説得力がなく、共に実行には移していない。
 二人いわく、片付けないのではなく一番取り易い位置に置いてあるとのことで、強引に周りの意見を排除していた。
 その人物の一人であるリツコ・グラウドは机の上に置いてある魔道書を読みながら、手元に置いてある紙に長々と何かを書き記している。
 周りには同じように何か書かれいる紙があったが間違いがあったようで、ごちゃごちゃと線を引かれて捨てられていた。
 このお世辞にも片付いているとは言えない部屋の主である彼女は、首まで伸ばした金髪に茶色の瞳、整った肢体に目元のほくろが印象的な美人で、ネルフ王国に置いて屈指の魔術師でもあり、召式の使い手だ。
 一般的に魔道といえば黒魔道と白魔道が上げられ、これは術者の魔道力によって効果や威力に差が生じてしまう。
 基礎魔道力は人それぞれで、それが高ければ高いほどいいとされているが、それによって能力者の差が出てしまう。その差を埋めるために魔道には他の分野もあった。
 召喚術や召霊術、リツコの使う召式もそれであり、他にもさまざまなものがある。個人の研究によって新しい方法が生まれることもあるので、それを含めてしまえば数限りなくあるだろう。
 リツコが現在魔道書に向かっているのも、新たな魔道の形を見つけるためだ。昔からあるものは安定はあるものの、万民に使えてしまうものであり、個人という能力の中においては完璧に能力を揮えるとは限らない。
 個人の特性を120%揮えるように独自の魔道の形を編み出す、これは普通の魔道師にとってはさほど価値はないかもしれない。
 しかし、いささか毛並みの違う魔道師にとっては自分の力を存分に出すために必要なものだと言えた。
 リツコもまたそう思う人物の一人であり、召式といった自分に見合った方法を生み出したもののそれでは納得していないらしく、日々研究へと打ち込んでいた。
「ふぅ……新しい魔道の形なんて、そう簡単には生み出せないものよね」
 ぽいっと読んでいた魔道書を床に放り投げ、溜息の出るような心境で愚痴た。先ほどのような行動の所為で床に魔道書が積み重なっていき、部屋が雑多になってしまっている。
 乱暴に扱っている書は、魔道師ならば涙を流して欲しがるような一品であり、魔道を志さないものでも売ってしまえば莫大な金貨に変わってしまう程の高価なものである。
 こんな使われ方をしていると分かれば、滝のような涙を流してしまうだろう。
 一度読んでしまえば頭の中にはいってしまうリツコには興味も価値も薄くなってしまうものの、他の者達にとっては魔道を記した大切な書である。
 記憶として忘れても本があることによってまた記憶として刻み込めるのだから、いつの時代でも大切なものだ。皆、彼女と同じような頭の構造をしているわけではない。
「ん? さっきの魔道を応用して紫雷石に影響を与えれば……」
 ふと、何かを閃いたらしく行動に移そうとした。
「材料と魔道書はどこだったかしら?」
 後ろを振り向けばごちゃごちゃと広がっている本の山と、使用した後なのか前なのか分からない魔道石や材料の数々。
 我ながら無様ね……と心の内で乾いた笑いを浮かべ、腕を軽く上げると本の山へと向けた。
「自らの記憶の場所へ」
 リツコから放たれた言葉に応じたように、積み貸さなった本はふわりと浮かぶと本棚へと入っていく。
 本にも記憶というものはあり、主に長い間置かれていた場所を覚えていたりするものだ。
 時折迷ったように本がうろうろしていたりしているが、それは如何にリツコが本を整理することを怠っていたのかを表しているように思える。
 開きっぱなしだった本も何事もなかったように閉じ、部屋の中が広い元通りの姿になるのを彼女は満面の笑みで眺めていた、が。
「あ〜〜〜、悪いんだぁ!」
 突然聞こえてきた声に集中力が欠け、本棚へと戻ろうとしていた本が音を立てて床に落ちていく。
 誰の声か見当は付きつつも、リツコは恐る恐る声がしたほうを振り向き安堵の声を漏らした。
「姫様…大きな声をださらないでください」
「リツコさんが魔道を使っているんだもん。私用で魔道は禁止されているんだよ?」
「ぅ……し、しかし」
「むふふ……魔道師さまに言っちゃうおうかなぁ」
「そ、それだけは勘弁してください! こんなこと知られてしまっては大切な研究時間が削られてしまいます……」
 姫様と呼んだ年下の少女に対して必死に懇願する姿は、王国屈指の魔道師には見えない。
 偉大なる魔道師コウゾウ・ラスティアは齢300を超え、厳格な性格の持ち主だ。誰よりも魔道について詳しいがために、魔道の便利さにおぼれ道を間違えてしまう者の行き先を知っている。
 魔道は便利なもので、限りなく万能に近い。だからこそむやみに使わないように制約をかけているのだ。あくまで使用していいのは命の危機にさらされている場合や、他人を助ける場合だ。
 それを力あるリツコが破ってしまっては他のものの示しにならない。コウゾウに知られたとなれば、罰を与えられ、彼女にとって大切な研究時間を減らされることになってしまうだろう。
「じゃあ、いつものお願いしていい?」
「はぁ……分かりました」
 交換条件とばかりにいつもの要求を突きつける姫に、仕方ないとばかりにリツコは了承した。深く赤い色の瞳をきらきらと輝かせ、蒼銀の髪の姫は期待に胸を躍らせる。
 祝福されし姫レイ・エレファム、それがネルフ王国の姫の名だ。
 一度見てしまえば忘れられない印象的な赤い瞳、女神のような蒼銀の髪、祝福されし色の組み合わせをもつ少女。
 今年で15歳になるが、未だ先の女王になるための落ち着きが見られない。しかし愛くるしい表情と明るさが持ち味のレイは国民から好かれていて、特に先の不安など抱かれてはいなかった。
 そんな彼女が長い間定期的に行っていることがある。リツコに対する『お願い』がその答えであり、だから彼女は期待をしていたのだ。
「う〜〜早く早く」
 急かす姫の様子に苦笑しながら引き出しの中から水晶玉を取り出して机の上に置くと、玉に向かって手をかざして魔道を紡いだ。
 リツコの手を映していた水晶玉がその表面を歪ませ、この部屋とは違う別の部屋を徐々に映し出す。
 石造りの一角、部屋の中心へと焦点が移動して鎖に自由を縛られた少年が映った瞬間、
「シンちゃぁ〜ん」
 リツコの真横からレイの気の抜けたような声が聞こえてきた。毎回のことだからいちいち気にしてはいられないとはいえ、つられて脱力してしまうこの声だけはやめてほしいと心の中で思う。
 頬に手を当ててうっとりと水晶玉に映る少年を見つめる姿は単なる恋する乙女、微笑ましい光景ではあるが、決して喜ぶべき状況ではない。
 恋は誰もが一度は経験するもので、実る実らないに関わらずいい経験となるけれど、その対象が滅びの獣となれば話は別。ましてや恋する少女は一国の姫であり、祝福されし色を持つ者なのだ。
「はぁ……かっこいいよぉ。リツコさんもそう思うよね?」
「え、ええ、そうですね」
 どこを見てそう思うかリツコには分からない、正直あの顔と細身の体を目にすると先に可愛いといった表現のほうがしっくり来ると思っている。
 恋は盲目、まさしくそうなっている姫に対してさすがに言う気にはなれず、曖昧な相打ちで誤魔化していた。
「実物のシンちゃんと話せないのかな。ねぇ、リツコさんまだ駄目なの?」
「まだ、というか一生無理ですね。前にも言いましたよ」
「う〜、でも会ってお話するだけだし、ちょっとだけなら……リツコさんから魔道師さまとお父さんに話つけて……」
「無茶を言わないでください、いくら私でもできることとできないことがあります。それにそんなことしてしまえば、こうして水晶玉を通して見ることすら禁止されてしまいますわ」
「そっかぁ、やっぱり駄目なんだよね……」
 この世の終わりでも来たようにしょんぼりと項垂れるレイの姿にリツコはたまらなく母性本能がくすぐられ、思わず抱きしめたくなる衝動にかられるもののぎりぎりに本能と理性の間で理性が勝ったらしく、抱きしめようとしていた腕を元の位置まで戻した。
 ただでさえ『リツコ・グラウドは男性よりも女性の方が好みらしい』などというありがたくもない噂が流れているのに、姫を抱きしめる、なおかつその現場を見られる、ということになってしまってはお先真っ暗である。
 国王、王妃、偉大なる魔道師にきつくお灸を据えられ何かしら厳罰が与えられかねない、いやそれだけならまだしも『やはり噂どおりの人だった』と周囲に認知されるようになってしまい、ますます結婚から遠ざかってしまう。
 10代での結婚が珍しくなく25歳までに結婚しないと先が心配といわれる世の中、今年で30を迎える彼女にしてみれば大問題だ。魔道の研究に打ち込んでいるとはいえ、生涯独身を望んでいるわけじゃないのだからぜひとも避けたい事態だ。
 我知らずに保護欲を掻き立てるオーラを放つ少女に、王国屈指であるはずの女魔道師は心の中で自分の境遇に涙を流していた。
(なんか力が乱れているみたいだね)
(うむ、遠見の最中にトラブルでも起きたのかもしれないな。とは言えその程度で力を乱すとはまだまだ未熟だ)
(……普通、平常心でいられないんじゃ乱れて当たり前……)
(何を言う主、そのような情けないことを言う男に育てたつもりはないぞ!)
(育てられたといえば、育てられたようなそうでないような……)
 リツコが一人いろんな意味で葛藤している間に、見られている当の本人達はこんな話を交わしていた。
 シンジたちの方からは誰が遠見をしているのかは分からないが、魔道を用いて遠見をされていることは知ることができる。
 力が乱れというのも、魔道力渦巻くこの塔だからこそ干渉してくる力の機微が分かるのだ。
 とは言え、いつもは淡々とこちらを観測するように見てくる力が今日に限っておかしかったために、つい彼は魔道力が流れてきている方向に視線を向けてしまった。
「わ、わっ、シンちゃんがこっち見てる、こんなの初めてだよね、ね? やっぱり思い続ければ願いことは叶うんだ」
 さっきまでの暗い表情から一転、頬を薄く染め、綻ばせてレイは飛び上がらんばかりに喜んだ。
 長い間ただ見続けてきた存在、どんなに思いを募らせても言葉を投げかけても大きな壁で遮られ続けて一方的な思いで終わっていた。それが、今日初めて、視線を動かしただけとは言え自分の瞳にまっすぐ映った。
 今まで何も変化がなかった分、ただの一動作でも彼女にしてみれば大きな進歩に感じられる。
 声を上げて大げさなくらいに喜びを表すレイにリツコは微笑ましさを感じる一方、不憫さを感じてちくりと胸が痛んだ。
 その理由は至って単純、彼女の思いは決して報われない思い、恋で終わると分かるものだから。
 もしもレイが普通の少女として生まれて来たのなら、親の反対を押し切る事でシンジの傍にいられたかもしれない。
 いや、姫という今の現状でもそれは可能なことだろう。ただし違うのはその立場で、意味の重さだ。未来の王女、そして国民の期待を受ける存在、普通の少女とは違うその立場はとても責任が重い。好きな人ができたから国のことはどうでもいいなどと言えないし、例えそう思っていたとしてもレイ・エレファムという少女はそれを行えない。
 国も両親も彼女には大切で、優しいレイにはそれを捨ててまで自分の意志を貫くことはできないだろう、そう思う。
 それを考えると、リツコは滅びの獣である少年のことを水晶玉を通じて見せないほうがよかったと後悔の念にかられてしまう。
 見ることがなければ彼に恋心など抱かず、ただの滅びの獣として恐れるべき存在として終わっていた。普通の王族として、どこかの貴族や王子と多少政治的な意味はあるものの幸せに結婚できたはずだ。
 ただでさえ王族には自由恋愛というものが制約されているのに、報われないと分かっている恋に心を躍らせる行為は、あまりにもせつないとリツコの目には映った。
「姫様はよく飽きもせずに毎回ここに来ますね。普通の人ならば、反応が全くないものを見ていれば数回で飽きてしまうでしょう?」
「ううん、私は楽しいよ。明日は何か変化があるかもしれない、そう考えたら次に見ることが楽しいと思えるもん。ほら、現に今日来て見たらシンちゃんはこっちのほうを見てくれた」
 机に頬杖をついて水晶玉を眺めるレイは嬉しそうに笑った。希望に縋った考えではあるが、彼女の次は楽しいことがあるという思いは子供ながらの陳腐なものではあるものの、純粋でまっすぐなものだった。
 リツコにしてみればずっと昔に忘れてしまったもので、大人になるにつれて少しずつどこかに置いていった思い。
(今はまだ……姫様の思うとおりでいいんだわ。大人の、つまらなすぎる理論なんて押し付けてもいいものじゃないもの)
 きっと、国王達も甘いと分かっていながら娘の行動を邪魔していないのだ。
 レイも純粋な思いがある一方、自分も恋する時代があったという思い出作りをしたいのだろう。時間が経てば彼女にはある程度決められてしまった道が待っているのだから。






 太陽が登り活動をはじめる人たちをよそに、塔の中で静けさを胸に感じながらシンジは浅い眠りに入っていた。
 本来彼の力を用いるならば睡眠は必ずしも必要ではないが、世の時間に合わせるように睡眠をとるようにしている。
 日の光が一片も差し込まぬ部屋では今が朝方なのか夜なのかは明確に感じ摂られないものの、体内時計が覚えてらしく漠然とした感じで一日の流れを読み取っていた。
 シンジが睡眠をとるのは休息をとるためではなく、退屈を紛らわすためと無駄な体力の消費を抑えるためだ。
 しかし、それでも時間というものは余るもので、退屈な時間は毎日やってきていた。
(退屈だな……主よ)
(昨日の昼間にも同じこと言ってたよ。あんまり退屈退屈言うとさ、余計に退屈になるような気がするんだけど……)
(ああ、こんな生活を後何十年も続けるかと思うと気が滅入るな。主よ、いっそのこと脱走しないか?)
(どうやってするのさ? ここは堅固な魔道によって守られているのに)
(主の力を持ってすれば、この塔の防御用結界ごと破壊できるだろう?)
(そうかもしれないけどさぁ、大量に魔道力を放出してしまえば一気に疲労がくるし……う〜ん、それはなんとか大丈夫かもしれないけど、ここから逃げてどうするのさ)
(そんなことは逃げ出してから考えればいい。行き当たりばったりな人生も一興ではないか)
(うわ、無茶苦茶だよそれ)
 無計画かつ簡単に言ってしまうリーシャに辟易しながら、シンジは提案を飲むことはなかった。
 確かに彼女の言うとおりここに居続けることは退屈である、しかし同時にこの場所は滅びの獣にしてみれば安全な場所なのだ。
 外界へ出てしまえば滅びの獣の存在を良しとしないものに命を狙われるだろうし、安息の場所などどこにも存在はしない。それならばこのまま変わらない生活を送るのも決して悪い選択ではなかった。
(しかし、これでは主も癪だろう? 滅びの獣と呼ばれてはいるが、人に伝わるように破壊活動を行おうなどと思ってはいないのに……)
 目を伏せて悲しげな響きを含んだ言葉を漏らす。
(でもさ、それは仕方ないことなんだよ。人は未知なるものを恐れ、遠ざけたいと思う心があるから。僕がみんなと同じ立場だとしたらやっぱり怖がると思うんだよね、長い間伝承として伝わり続けている滅びの獣を)
 今は大丈夫かもしれない、けれど先においてまで大丈夫だと言える根拠はどこにあるだろう? ある日突然、破壊的衝動にかられ全てを壊したくなるかもしれない、そして行動を起こせるだけの力を彼は十分に持っているのだ。
 大を生かすために小を殺す決断をした国王達の行動は間違っていない。世の中には常に不条理はあるのだ。
 悟ったように語るシンジは最初からそんな考え方を持っていたわけではない。ここではどんな理不尽に腹を立ててもどうしようもないからそこへ行き着いてしまうのだ。
 そして相手を憎まないように、仕方ないことなんだと自分に言い聞かせることで感情を落ち着かせている。
 そんな滅びの獣と運命付けられても優しさを失わないシンジだからこそ、リーシャは傍にいてあげたいと思う。世界中の全ての人が敵でも自分だけは味方であり、絶対に裏切らないと彼が小さな頃から誓っていた。
(それに、この塔を出る日は自分から行動を起こさなくてもそのうちやってくると思うよ)
(……何を根拠にそんな事が言える)
(勘、って言いたいところなんだけどね、リーシャ、先見の姫がした予言の内容知ってる?)
(ああ、『王家に祝福されし色の子が生まれる時、人の世に争いの火の粉が舞い降りた時、人の心が堕落を辿った世において滅びの獣は現る』だったな)
(全てが当てはまった時か、どれか一つでも当てはまってしまった時かは分からないけど、滅びの獣は現れると予言されているよね。ただ単に個人的な感情で破壊行動を起こすわけじゃなく、滅ぼさなければならない意味があるからこそ、滅びの獣は現れると僕は思っているんだ。だとすれば、その時期がくればきっと何かが起こると思う)
(ふむ、運命付けられていると言うことか。一理あるが、主の言ったことは憶測に過ぎないぞ)
(そう言われると返す言葉がないんだけどね)
 シンジの意見をあっさりと切り捨てる。彼女は希望的観測よりも今できる現実的な手段の方を優先する傾向があった。
 夢も理想も希望も否定しない、思うのは勝手だ、しかしそれらは道標や目標とはなってもこちらに対して行動してくれるものではない。結局それらを引き寄せるのに必要なのは自分自身から動き出すことだ。
(私としては、主自身が行動を起こした方が早いと思うぞ。時期などといつ来るか分からないものより、自分の目で見て、感じて、経験して、成すべきことを見つけるべきだ。主にも外に出たらやりたいことの一つくらいはあるんじゃないか?)
(やりたいこと……か)
 閉じていた目を開け、地上がある上を見上げる。
(自分の運命だとか役割だとかそれを知りたい、でもそれよりも先に両親の墓標に祈りを捧げたいかな)
(ん……そうか)
 リーシャは自分の主の両親のことを思い出そうとし……やめた。その頃のことはあまり覚えていない。
 シンジ・アスラーンが生まれた所は小さな村だった。目立った観光の場所も特産品もあるわけでもなく、空気の綺麗さと人当たりのいい村人がいるだけの自給自足で暮らしていける所だ。
 そんな小さな村だったからこそ、秘密は守られて滅びの獣は4年もの間無事でいられた。
 彼らがシンジのことを差し出さなかったのは滅びの獣を崇拝していたためではなく、幼い子供を辛い境遇にあわせないためだった。
 黒い髪、黒い瞳は紛れもなく普通の子供とは違うことを示していた、だが彼らにしてみればそれ以外は普通の子供と変わらないのだ。
 先行してしまっている伝承よりも、村人達は自分の目で見たシンジという子供の存在を肯定し、受け入れた。
 だからこそシンジは自分を受け入れてくれた人たち、そして慈しんでくれた両親に感謝している。できることならば恩を返したいと思ってはいたが、残念ながらその村はもう存在していない。
 親切心を働かせてくれた兵士がここに来た時に、滅びの獣をかくまっていた事に対して怒った暴徒が村人たちを殺したことを伝えていった。その中にはきっと自分の両親もいただろうとシンジは思う。
 何もできなかったから、せめて村のあった場所へ行って一言でも礼を言いたかった。
(そう思うならなおさら行動した方がいいではないか)
(うん、そうなんだけどね。こう、なんていうかきっかけみたいなものが欲しいんだよ、僕が行動的な性格じゃないのは知っているだろ?)
(はぁ……我が主ながら情けないな)
(あはは、ごめん)
 相変わらず手厳しいリーシャにあまり悪びれた様子を見せずに謝っておく。
 行動的でないことは確かなのだから、嘘を言ってもしょうがない。
(そう言えば、あの子は無事なのかな)
 シンジの頭によぎったのは、まだ自分がただの少年だったころよく一緒にいた少女のことだった。村がなくなったということは多分、その子も亡くなっている可能性があると言うことだ。
 むしろ、死んでいいる可能性が高いだろう。暴徒、と言うからには女・子供だからと言うことは関係なく殺したに違いない。
 生きていてほしいと言う彼の気持ちは、信じることしかできない希望に縋った甘さだ。
(それでも……生きていて…………? なんだろう、この感じ)
(どうした、主?)
 リーシャの言葉が耳に入らないのか、ここ数年全く動かしていなかった体を起き上がらせると視線を上に向けた。
 毎度のごとく、今日もまた覗きを敢行していた姫がそれに歓喜の声を上げていたことは当然彼は知らない。
「なんだ、これ、この感じを僕は知っている? 滅びの獣の記憶が?」
(主、主! なぜ、応えない!?)
 頭上から防御用結界など関係ないとばかりに伝わってくる力、自分とは違う、しかしどこかで覚えている力。
 声を出して話していることすら気づかないくらいに感覚に身を委ねる。
「魔道力じゃない。この、波動は……」
 魔道力とするならばその力は塔に干渉し、打ち消されてしまう。よって感知することはできない。
 リツコが水晶玉を通じて使用している遠見の魔道は、あらかじめ塔内に仕込んである魔道石を通して行っているために例外だ。
 よほど魔道に精通した、塔を包む力より大きな力を持つ術者なら大丈夫かもしれないが結局は魔道力、魔道を感知できるだけだ。
 この力はシンジが知る限り魔道の波動ではない。
(主!)
「古代魔法だ」
 呟きを肯定するように轟音を立てて塔は大きく揺れた。






 人の視界に映らぬ高みである天と地の間、そこで頭から足まで覆う法衣を身につけた者が下を見渡していた。
 空に浮かぶ姿は足場があるかのように揺らぎもせず、風に当たりながらも全く法衣が揺れていない様子は異様とも言える。
「……愚かな。偽りと束の間の平和に溺れし者どもよ」
 低く老人を思わせる男の声。しかし、響きは年齢による衰えを感じさせず、聞くものを捕らえて放さない力を持っていた。
「だが、終わりだ。人は時の流れに決められた事象に逆らわず、許諾しなければならない」
 両腕を上げて漆黒の法衣を広げる。男のいる場所だけが闇のように黒く染まり、晴天の空を浸食した。
「行け」
 男の言葉で、法衣の中から明らかに収まりきらないであろう数多の異形のものが飛び出し、地上を目指して降下して行った。翼あるものは足で別の生物を掴み下に広がる街並を眼下に城へと進んで行く。
 どの生物も姿は獣とも人とも異なり独自の形をしているが、共通して体の一部に逆さの五方星が刻み込まれている。
 人ならば潰れてしまうほどの高さから降りたそれは、大したことはないとばかりに轟音をたてながらも平然と着地し辺りをぐるりと見渡した。
 人、人、人。突然の出来事に状況が理解できない彼らは呆然と立ち尽くしている。そして、その僅かな思考の停止時間が運命を決めた。
 鋭い鉤爪を持つ生物が腕を横に振るい、近くにいた、腕の射程内に収まっていた人間を切り裂く。綺麗に上半身と下半身に裂かれた者は臓物を撒き散らしながら建物にぶつかり、物言わぬ肉塊と成り果て、周囲に危険を知らせる切っ掛けとなった。
 遅れて悲鳴をあげて逃げだす人々だがそれもまた遅く、同じように切り裂かれ、あるいは口から吐き出された高熱の炎によって蹂躙されていく。運良く建物の影に身を潜められ束の間の安息を噛み締めるも異形の者達の力は建物の防御力を上回り、たちまち瓦礫へと姿を変えさせて逃げ惑う人を嘲笑った。
 繁栄の一途を辿っていたネルフの城下町はあっという間に叫び声渦巻く地獄と化し、青く澄み切った空とは違う燃える赤き炎と黒煙にまみれていく。
 空から事の一部始終を見ていた男だが、表情には一切の変化はなく、彼の言う偽りの平和を壊したにも関わらず満足げな様子は伺えない。やがて興味を失ったのか、視線を町から離れたうっすらと見える塔に向ける。
「ジオフロント……滅びの獣を封じ込めた塔か。滑稽だな、そこまでして自分達の滅びを遠ざけ生き延びようとする」
 停止させていた体を動かし、人とは思えぬ速さで男は塔へと近づいていく。途中にある城を一瞥し遠く離れた目標にぐんぐんと近づくと彼は初めて人間らしい表情を浮かべた。
 薄く禍々しい笑みを浮かべ、塔よりも高い位置で停止する。
「ふむ、中々の魔道結界だ。これでは私の魔法生物をしても容易に崩すことは出来ないな、面倒だが私の手でやるか」
 聳え立つ巨大な塔を眼下にして男は述べた。彼は面倒だと言った、それは面倒ではあるがジオフロントを壊すことが出来ると言うことだ。
 法衣に包まれ隠されていた腕を動かし複雑な印を結ぶ。印が完成するにつれて高揚していく気分に、自分らしくないと男は小さく笑った。
 だが、今日と言う日を迎えるまでに長い時を待った。そのことを考えれば気持ちを高ぶらせずにはいられない。
「破壊の王ネルザーズの力を源に 閉じられし壁 連なる力集まりて 滅びを与えん」
 印を組み終えると同時に魔法の詠唱を行うと、塔を覆うようにして巨大な逆五方星が浮かび上がり破壊の衝動を打ち放った。
 大地は大きく揺れ、脆くなった地盤を壊し、広範囲に影響を及ぼした。逆五方星の中心では赤黒い光にジオフロントが蝕まれていく。
「無駄だ、いかに強固にしようとも所詮は魔道の力。揺ぎ無い強大な力を捨て、汎用性を選んだ脆弱な魔道など我が魔法の前には無力! 滅びよ!」
 ぎしぎしと軋みを上げながらも魔道石の効力をもって張られた結界は必死の抵抗をしていたが、男の言葉こそが真実だと肯定するように力を弱めてしまい、王国が絶対に壊されることがないと誇った塔は終わりの時を迎えようとしていた。
 無数の小さな亀裂はたちまち繋がっていき大きな亀裂を生み出していく。やがてそれが全て繋がった時、轟音と砂煙を上げながらジオフロントは崩れていった。
「くくくくっ……はぁっはっはっはっ!」
 崩れ行く塔を目の前に男は、感情を隠しもせずに大きな声を出して歓喜の声を上げた。
 これほど心が打ち震えたのはどれくらいぶりか、久々に思い出した感情に身を任せる。言いようのない至福だ。
「さぁ! 解き放たれよ、滅びの獣! 自らの意味を見つけろ、お前の成すべきことを行え!」






「リ、リツコさん! シンちゃんが動いた〜〜〜」
 相も変わらず、遠見をしに来ている姫は水晶玉を覗きながら大きな声を上げた。隣で研究に勤しんでいるリツコとしては、近くで聴覚にダメージを与えるような声を出されるのはたまったものではない。
 はいはい、と適当に相槌をしてさらりと流すと再び魔道書へと向かう。
 別にリツコの反応を期待していなかったようで、レイも覗きへと集中する。
『なんだ、これ、この感じを僕は知っている? 滅びの獣の記憶が?』
「………………うぁぉ、リツコさん、シンちゃんがしゃべった……」
 一国の姫のあるまじき品のないうなり声はさておき、幻聴かと一瞬思いつつも耳を傾けてみると確かに聞こえる。一応遠見の魔道のほかに遠耳の魔道も行われているために音を聞くことは出来るが、今まで声らしい声が聞こえてこないためにその存在を忘れてしまっていた。
 はいはいとまた流そうとしてリツコは、隣で水晶玉を凝視するレイの言葉に本をめくっていた手を止めた。
 気のせいではと僅かに思いつつも、姫が軽軽しく嘘をつくような少女ではないということを思い出し疑うことをやめる。
 真似るようにして水晶玉へと集中する。
『魔道力じゃない。この、波動は……』
 確かに口を開いていた。リツコはこれまで一度たりとも滅びの獣が話している所を聞いてはいない。それだけに自然と興味が出てしまった。
 一言一句聞き漏らさないとばかりに二人は聞き耳を立てる。なんとも珍しい光景だ。
『古代魔法だ』
(古代魔法?)
 リツコが心の中で反復した瞬間、城が大きく揺れた。
「きゃっ!」
「姫様、大丈夫ですか!?」
 揺れによってバランスを崩した姫が椅子から転落して、可愛らしい悲鳴をあげる。
「だ、大丈夫、ちょっとお尻を打っただけ」
 う〜と小さくうめき、お尻をさすりながらレイは立ち上がり無事をアピールした。
 リツコがほっとしたのも束の間、変わらず揺れている様子に辺りをうかがい、真剣な表情を浮かべる。
「地震……?」
「いえ、違います。これほどの地震ならば魔道によって大地の乱れを事前に感知できますが、何も異変はありませんでした」
「でも他に揺れるようなことなんて、リツコさんが実験に失敗して大爆発を起こしたときくらいしか……」
 と、途中まで言ってきつい視線が自分を見つめている様子に気づき言葉を収めた。
「え、あ、うん、な、なんだろうなぁ」
「……こほん、まぁ、人為的に起こされたと言うことは外れていないと思います。ともかく、ここにいては何も分かりませんから王のもとへ行きましょう」
 遠見、遠耳の魔道を解除しようとしてリツコは水晶玉へと手を伸ばすと、既に魔道が切れていることに気づいた。普通、術者側から切らない限り効果は持続する。例外は相手側に異常が起きた場合と他の魔道師によって妨害された場合、今は前者の方の理由によってだろうと彼女は直感した。
 搭に魔道を乱すくらいの影響が与えられた、そんなことは考えたくはないが辻褄は合う。
 嫌な予感を感じてリツコの足は歩みを速め扉に手を伸ばす、と、彼女が開けるよりも先に扉が開いた。扉の先にいたのは、肩まで流れるように伸びた金髪、透き通った青い瞳、細い体に白い魔道師の法衣をまとった女性。法衣には高級魔道師を示す承認メダルが縫い付けられてあった。
「人の部屋に用があるのなら、ノックの一つでもしてほしいわね」
「も、申し訳ありません、何分急ぎの用がありましたので……」
 最低限の礼儀を怠ったことに文句を言うと、女性は顔色を変えて小さく縮こまってしまった。城に仕えるものならば来客に失礼のないよう厳しく礼節を教えられる、ましてや人の部屋の訊ね方など一般の家でも教えられることだ。だからこそ、リツコは厳しく苦言を呈した。
 だが女性を見れば腕の法衣は裂け、流血しており、ただならぬことが起きていると感じて叱り付けるのを止める。
「で、用件は」
「はい、しかしここにいるのは危険ですから国王様の所へ行きながら話させてもらってもよろしいでしょうか?」
「……分かったわ」
 危険と言う単語に反応して、リツコはレイに行動を促すと廊下へと足を進めた。部屋では簡易結界を張って外界を遮断していたので分からなかったが、廊下は微かな血の匂いと騒がしさがあった。距離的にはまだあり、何が起こっているかは理解できない。
 悠長に歩くわけも行かず駆け足で廊下を進む途中、レイは女性高級魔道師の傍に寄ると癒しの魔道を施して傷と裂かれた法衣を直した。
「もったいないお心遣いです、姫様」
「気にしなくていいよ、私だってこれくらいのことはできるから」
 すまなそうにする彼女にレイは笑顔で返した。姫に魔道を使わせるなど彼女にしてみれば恐れ多いことだ、忘れられない思い出となる。
 二人の様子を横目にリツコは女性に尋ねる。
「それで何があったの? ええと、名前は……」
「サリア・ファイルノ、サリアと呼んで下さい」
「サリア、ね。城内が騒がしいけど、誰かが侵入でもしてきた? そう簡単に入り込めるような警備ではなかったはずだけど」
「陸からならば対処の仕様もありますが、空からの突然の襲来に虚を突かれてしまいました」
「空、ということは飛翔印を使える魔道師ね。けれど、速度はたかが知れているから侵入される前に気づくものでしょう?」
「人なら良かったんです、しかし相手は見たこともない異形のものなんです。目視するには遠すぎる距離から恐ろしいほどの速度で来たようで、発見が遅れてしまいました」
「異形の者? リツコさん、それって魔物かな?」
「違うと思います。少なくても私は見たことありませんし、今の時代において魔物は想像の産物です。人によって作られた合成獣が魔物と勘違いされることはありますけど……サリア、異形のものとは」
「ええ、合成獣の類だと思います、しかも倫理は欠けていますが相当優秀な人が作った。従来発見されたものよりも戦闘用に洗練されて、ただ合成しただけでは生み出せないような生物です」
 サリアが告げる推測のパーツにリツコは苦い記憶を思い出して顔をしかめた。合成獣に関してはいい思い出などない。誰でもそうだろうが、リツコとその同僚にとっては特に。
「リツコ様?」
「え、ああ、なんでもないわ。それより急ぎましょう、国王も姫様のことが心配でならないでしょうから」
 心配そうに見つめてくるサリアに大丈夫と小さな笑みを混ぜて返す。
 前を見つめて今は先に進むことだけを考えればいい。城の中はもう安全ではなく、危険地帯なのだから他に気をとられている場合ではない。
 こんな時、王座まで遠い広い城が恨めしく思える。リツコが個室が与えられているもの広いおかげだからと言うのに、時になんとも矛盾した考えが出てしまった。
「リツコさん、あれ!」
 レイの指差した先には一人の男性の魔道師の姿と、サリアが言っていた異形のものが戦闘を行っていた。魔道師のほうが明らかに劣勢で所々傷を負って防戦を強いられてる。相手は腕の部分が刃物となっており、接近を得意とするタイプのようでその速さに翻弄されてようだった。
 魔道師は接近戦よりも中、遠距離間を得意な間合いとしているために、彼が戦っている相手は相性の悪い相手だ。
 防御の合間を縫って攻撃魔道を駆使するも、詠唱時間が短いそれはなかなか効果的な威力を伴わず焦りを生ませてしまう。
 刃が男の首を跳ね飛ばさんと薙がれて、避けようと身を動かしたが疲労した体は思うように動かず、咄嗟に防御結界を張るも衝撃を消しきれずに力に押されるままに壁に叩きつけられた。うめく魔道師をよそに異形の者は新たなる標的を見つけたと、リツコたちに迫る。
「サリア!」
「はい!」
 一瞬の目配せに促されて腕をを前に出すと魔道の詠唱を始める。リツコは巻き込まれないようレイを後ろに下げると、サリアの詠唱を見極め遅れながらも力を発動させた。
 敵との距離はまだある、近づいてくる速さは並ではないが魔道を発動させる頃の距離は自分達が最も得意とする範囲だ。
「現世に在らざるもの 浄化の炎を持ちて その戒めから解き放たん!」
「尊き風の王 賜るは穢れなき調べ 奏でるは清らかな流れ 放たれるは聖霊の息吹き」
 一つ一つに力がこもった言葉は二人の前で具現化し、迫り来る生物に襲い掛かった。
 異形のものだけを燃やす浄化の炎は壁にも床にも被害を出さず、炎を取り巻く清らかな風はその力を倍増させている。
「ギァァァァアアアアァァ」
 体を焼かれているそれはこの世のものとは思えない凄まじい声を上げて身をよじり、苦しみを生み出す炎から逃れようとしてた。
 しかし、実力ある二人の魔道師から放たれた力はその程度で消えるようなことはない。
 絶叫と肉の焼ける匂いに顔をしかめながらも警戒は怠らず、リツコはいつでも次の魔道を撃てるようにする。
「っ、伏せて!」
 リツコの忠告に二人は素直に従う、それは正しい行動だった。
 炎に身を焼かれながらも異形のものは負傷しているとは思えない動きで近づき、刃の腕を振るうものの避けられてしまう。かわされたことで空を切った腕をもう一度振るおうとするが、それよりも早く行動するものがいた。
「しぶといのよ、吹っ飛びなさい!」
 伏せた体制のまま相手に手の平をむけると、リツコの言葉通りに魔道が発動し、自らより大きい体格を持つそれを勢いよく吹き飛ばした。
 ドンと壁にぶつかり、めり込んでいく敵は何とか反撃を試みようとしたものの、力尽きてぴくりとも動かなくなる。そして、まるで存在を隠滅するかのようにさらさらと消えてしまった。
 消滅を確認すると、立ち上がり、リツコはレイの方を向く。
「お怪我はありませんか」
「びっくりしたけど、うん、怪我はないみたい」
 姫と言う大事にされる立場とはいえ、自分の身を守る術や魔道くらいは教えられている。それに、運動能力は決して悪くはない。
 伸ばされた手を大丈夫と断り、軽やかな動きで立ち上がる。
「面倒ですね、相手は高い魔道耐性を持っているみたいです」
 隣で立ち上がったサリアが、異形のものがいた場所を見た。リツコは無言で頷く。
 魔道師にとって魔道が効かないものは天敵だ。魔道一筋にかけてきたのだからその分、肉体を鍛えてきた戦士達とは違って身体能力は見劣りする。今回のようにある程度距離があるならともかく、常に接近を強いられてはたまったものではなかった。
「それにしても、もうこんなところまで来ているなんて……魔道師の数が足りてないんじゃないの」
 壁にぶつけられた衝撃で意識が朦朧としている魔道師に走りよりながら、サリアに訊ねる。
 この城には常時守護のためと派遣用の高級魔道師が滞在しており、充分な数が存在していた。緊急事態の今、城内の各所に出回っているのは分かるが、先ほどのような敵のことを考えると二人一組、もしくは近衛騎士と組んで行動するよう指示され、足りないなどと言う状況にはならない。
「大半の高級魔道師と騎士は街へ出払ってしまっているんです」
「こんな時に、どうして」
「城が襲われるよりも先に、街の方が襲われたんです。街の魔道搭からの要請もあって派遣したのですが、それを見計らったかのようにここへ攻めこまれて人数不足になってしまいました」
「……明らかに統率がとれているわね。恐らくさっきの生物を作った人物が指示を出したんでしょうけど」
 リツコは自らが倒した生物のことを魔物とは呼ばず、人為的に作られたものだと判断した。
 彼女が知る限りここ数百年において魔物は確認されてはいない。
 せいぜい獣を見間違えるくらいだ。
 滅びの獣の出現における影響とも考えられなくはないが、外見がすべてでないとはいえお世辞にも知能が優れていると思えなかった者たちに、町から先に襲い注意を引き付けるような行動が取れるとは思わなかった。
 それにしても何の目的があってネルフを襲うのか、伊達や酔狂で襲うなど誰もしない。争いのないラーナ大陸においてそんなことをすれば、瞬く間に大陸中に手配されて安息の場などなくなる。目的は分からないが理由があることは確かだろう。
 魔道師の元に辿り着くと、サリアは腰を下ろし傷を負っている患部に手を伸ばして癒しの魔道を施した。先ほどはリツコの下へ急ぐためにあえて自分の腕を治療しなかった、使えないわけではない。癒しの魔道は基礎的なものの一つだ。
 傷を癒され意識を覚醒した男は礼を述べ、リツコに指示されて未だ戦いを続けているだろう他の場所へと向かった。
(実戦経験の少なさが明らかに出ているわね……)
 極僅か前に終えた戦闘を思い出しながらリツコは唇を噛んだ。
 自分も含めてサリアも先程までいた魔道師も、詰めの甘さが目立ち駆け引きが出来ていない。
 戦いにおける経験は相手が自分に近い実力、もしくはそれ以上の時に必要に迫られるものだ。危険を感じるための第六感と言われる感覚は生れつきの鋭さと経験を積むことによって培われ、後者の方は行動次第で差が出てくる。
 大きな争いがなく平和な今の時代において戦いを強いられるのは、盗賊や獰猛な獣の退治などに限られてしまい、訓練こそ積んでいても実戦経験に富んでいるものは少ない。
 訓練と実戦の差、それが明確な形で現れてしまった。


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