夜明けはそこに横たわる
「…リナリー?」
 黒い受話器の向こうで、長らく鼓膜を震わすことのなかった穏やかな声が自分の名を呼ぶのを聞き、リナリーはほうとため息をついた。久しぶり、と冷静を装うが、果たして今の自分の声は震えていないだろうか、と気が気ではなかった。ずっと、ずっと聞きたかった少女の声。――これは紛れもなく、の声だ。
「無事…?」
「ええ、私は無事よ」
「どこも、怪我してない?」
「なんともないわ」
「……ほんとう、に?」
 何度も問いかけるその声は震えており、そこから十分に、心配に胸を痛めている彼女の様子が伺い取れた。
「ええ、ほんとうよ」
「……良かった」
 リナリーはの不安を拭い去ってやりたいと切実に思ったが、任務続きの疲労のために、その言葉に笑い声をかえすだけの力は残っておらず、ただ口元だけで微笑むことしかできなかった。電話のむこうの彼女には決して伝わらないはずのそれだったが、彼女は空気でしっかりと察しとっていたようだった。

「それで、犠牲者は…」
 その言葉で、今の自分と彼女を繋ぐ回線は、あくまで任務遂行の報告のためのものなのだということを思い出す。それは彼女にとっていささか不愉快なことだった。
 そんな理由など無くとも、ただでさえ自分は、彼女の声に焦がれていたというのに。
「……たくさん、死んだわ」
 その言葉を発するだけで胸が痛んだ。額にはうっすらと汗が滲んでいる。
 夜は長い。深く果てのない夜の帳が下りると、茫漠とした不安に心を蝕ばまれそうになる。気を緩めれば一瞬で足元をすくわれるような。己を飲み込まんとばかりに迫る黒を拒むべく、リナリーは自分を抱き締めるが、皮肉なことに、自身を包むこの衣服すら漆黒の闇に同化しているのだ。静寂と暗闇の中で、リナリーと彼女の二人分の呼吸が世界を繋ぎ止めている。

 リナリーは息をひとつ吐いて目を閉じ、のことを考える。すると、胸を占める不安や自責の念は少しだけ和らぐのだった。それはリナリーにとってのジンクスのようなものであった。
 。愛しい彼女の名をそっと呟く。甘い飴玉を口の中で転がすように。すると一瞬の間をおいて、どんな飴玉よりもずっと甘くとろけるような声が返ってくる。リナリーはその感覚が好きだった。その声に包まれて、自分が柔らかく溶けてしまえたらと願う。

「私、早く帰りたい。の元に帰りたいの。」

 それを口にしてしまったらもう手遅れだということは承知の上での言葉だった。一度口にしてしまえば、途端に顔が見たくなり、触れあいたくなる。温度を感じたくなる。孤独に苛まれてしまう。何より、お互いに依存しあう関係を認めてしまうことになるからだ。
 案の定、の躊躇ったように息をのむ音が、空気を伝ってリナリーの耳元に届く。彼女を困らせてしまったことに対する罪悪感を覚えながらも、自身の発言を取り消す気にも謝る気にもなれず、ただ黙って次に発せられる言葉を待つ。

 言葉を慎重に選んでいるのだろうか。は何度か「あのね」だとか、「私ね」だとか、そういった声を小さく発しては、何かを堪えるように口をつぐむ。すると空気はすぐさま、彼女の発した短い言葉を浚っていく。彼女の綺麗な声が余韻も残さずかき消えていくなんて、ひどく勿体無いとリナリーは思った。
「リナリーが居なくて、寂しいよ」
 だから、早く、帰ってきて。溜めこまれていた沈黙を壊すの声。控えめに呟かれたその言葉を復唱すると、もう一度「寂しいよ」と返ってくる。受話器越しの彼女の声が涙を帯びていたように思えても黙っていた。自分だって、既に涙で受話器が霞んでいたのだから。
「ねえリナリー。」
「なあに」
「私、リナリーの夢を見たいの。一緒にショッピングをして、おいしいケーキを食べて…そうね、この前行ったお店があるでしょ。あのお店のミルクティーを飲みながら、一日中おしゃべりをして過ごす夢……幸せな夢よ。」

 そこで言葉を区切ると、は一度口を閉ざした。そのままなかなか次の言葉を切り出そうとしない彼女に、リナリーは先を促すべく「どうかした?」と優しく声をかけた。彼女が何かを言い躊躇っているのは、受話器越しにでも明らかである。
 しばしの躊躇のあと、は何かを決意したようなはっきりとした語調でこう言った。
「幸せな夢を見ましょう、リナリー。」
「夢?」
 予想だにしない言葉に、リナリーは思わずそう聞き返した。
「そう、私はリナリーの夢を見る。だからリナリーは私の夢を見て」
 夢の中で会えたら、こんなに素敵なことって無いと思うの。

 切なさを孕みながらも、痛々しいまでに明るく振る舞う彼女の声音に、リナリーは嗚咽を必死に押し殺し、痛む左胸を握り締めた。夜風に冷やされたローズクロスが、彼女の指から冷たく温度を奪ってゆく。まるでこの心臓までもを神に捧げんと言わんばかりの―――否、むしろそのために作られたかのような団服に、言いようのない悲しみが押し寄せた。視界を滲ませる涙を拭い取ることに精一杯の手のひらは、寂しさを紛らわすための拳を形作ることすらもままならない。
「…ええ、わかったわ。」
 その返事を聞き、が嬉しそうに笑う。
 そんな保証もできない約束に対しはっきりとYesと答えたのは、彼女の言うことならばきっと現実となりうるのではないか、そして、彼女と自分の間に果たせない約束などあるものかという、根拠もない考えが胸をよぎったからだった。
 二人は沈黙に身を任せている。やさしい呼吸音と、耳鳴りのするほどの沈黙と。それは何よりも彼女たちを安心させる術だった。
 リナリーは瞑目し、長らく触れることのできずにいた彼女との記憶を呼び起こす。鮮明によみがえる、断片的なそれら。ノイズを帯びて脳裏に響く声。
“大好きだよ、リナリー。”
 そのぬくもりは、遠い春、暗い教団に射す陽の光に似ていた。


夜明けはそこに横たわる
(080303/Song...アントワネットブルー)
title by シュロ