「神田ー!Trick or Treat!」 神田の自室のドアを勢いよく開け放ち叫べば、顔色一つ変えず流暢な英語で素早く切り返されてしまった。まるで最初から私がここに来ることを見越していたかのような落ち着き振りを見せる彼は、こちらには目もくれないまま、分厚い本に目を落としている。全く動じないその様子に、私はただ面白くないと感じるばかりだ。 さっそく出端を挫かれたことに落胆はしたものの、それでもめげずに神田の座るベッドの側に近づき、笑顔のまま彼の肩を揺する。 「神田ー。Trick or Treatって言ったじゃない。聞こえなかった?」 そこでようやく、ずっと下に向けられていた視線が私へと向けられる。笑みを浮かべたまま見つめ返していると、神田は手にしていた本を膝の上に乗せ、普段の不機嫌そうな顔とは打ってかわった表情をつくった。呆れたようでいて、困り果てたようにも見える。 「どう?可愛いでしょ?」 かぶっていたウィッチハットを腕に抱え、その場で一回転してみせる。スカートの裾がふわりと広がった。帽子と同じく黒一色に統一されたワンピースには、レースがふんだんにあしらわれている。この日のために、教団のエクソシスト仲間や科学班の人たちに混じって用意していたものだ。 神田は私の格好をちらりと一瞥すると、眉間に皺を寄せて額に手をやった。そして、少しだけトーンの落ちた声で呟く。 「……その格好で教団の中走りまわってんのか」 「ううん。これ着てすぐ神田のところに来たから、特に駆けずり回ったりはしてないよ」 「なら俺の部屋から出たら、そのまますぐに自分の部屋に戻れ。その格好で人前に出るな」 「え?何言ってるのよ。せっかくのハロウィンなのに勿体無いじゃない!」 「駄目だ。いいな」 神田は腕を組んだまま、強い語調でそう告げた。何を考えているのかさっぱりだ。当然そんな命令などまっぴらごめんと言いたいところだが、この人はこうなると絶対に折れない。そのことを十二分に理解している私は、理不尽な言い分に口を尖らせつつも、反論しないことで肯定の意を示す。 「お前、本当こういうのが好きだよな」 「え?ハロウィンのこと?」 「…まあそれに限ったことじゃねェが、くだらねえ行事という点では同じだな」 「くだらないなんて思ってるのはきっと神田だけよ。みんなは盛り上がってるんだから!」 神田は私の反論の声など気にも留めず小さなため息をついて、広げていた本を閉じ、ベッドの脇に投げる。 彼のこういった物の扱いの粗雑さについて、私はそれこそ何年も前から指摘しているのだが、当の本人はいつも決まって生返事や沈黙であしらうばかりで、一向に改善しようとはしないのだった。 「――で」 改めて私に向き直り、じっとこちらを見据える神田。この瞳に見つめられるのはいつになっても慣れない。そしてさらに困ったことに、彼は私の視線があからさまに自分から逸らされることを快く思っていないようなのだ。むしろひどく嫌がっているといってもいい。彼の前で再びそんなことをしでかしでもすれば、たちまちその機嫌には暗雲が立ち込めることだろう。 神田は恐らく、私がここに訪れた目的を問い質そうとしている。その目的なんて最初から分かっているくせに。前々から感じてはいたが、彼は少々意地の悪いところがあるようだ。 あまりに強い眼差しに、まっすぐな視線に、今すぐにでも目を逸らしたくなるのを堪え、不自然さを悟られないように話題を別の方向に移すことにする。本来ならここで私自ら目的を晒すべきだったのだけれど、この時の私は不覚にも彼に怯んでしまったのだ。 「ていうか、よく私が来るってわかったね。まさかあんなにすぐ即答されるなんて想定外だったよ。しかもご丁寧に英語なんか使っちゃってさ」 私と神田は同じ日本人同士ということもあり、二人で過ごす時間には一切英語を用いず、日本語で会話を交わすことが常となっていた。いつものように日本語で「帰れ」と一言告げればいいだけのものを、あえて私に対抗するかのように英語で返してくるところに、彼なりの反撃の試みの跡をひしひしと感じる。 「ねえ、まさかラビがバラしたりとかした?違うよね?」 「…お前の考えてることなんか言われなくても分かる」 「ちょっとそれ、私が単純だって言ってるように聞こえるんですけど」 「事実だろ?」 からかうような口調でそう言った神田の口元に小さく笑みが浮かぶ。目元は僅かながら楽しげに細められる。 他人の前では常に仏頂面を崩さない神田が、時折私の前でのみ覗かせる柔らかい表情は、いつだって私の心を揺らした。その微笑みはこの頬を赤く染め上げるのに十分すぎるのだと、そう痛感した瞬間は今や数知れない。 「とにかく、今日はハロウィンだよ!お菓子をくれなきゃいたずらの刑ですよ、神田くん」 胸の内に生じた熱を振り払うように、手にしていたステッキをびしっと突きつけると、神田は当然といった表情でけろりと口を開く。 「俺がンなもん用意してるとでも思ってんのか」 予想通りのその言葉に、してやったりな笑みがこみ上げる。 「やっぱりね。なら、甘んじて私のいたずらの犠牲になっていただきましょうか!」 にやにやとわざとらしく首をかしげてみたが、彼は黙ったまま、ただ私を見上げ続けている。 ――おかしいな。予想ではここで何かしらの抵抗を示すもんだと思ってたのに。 若干拍子抜けした私は、どうにかして目の前の無表情を崩してやりたくなった。 「いいの?容赦しないよ?神田の嫌いな甘いもの、いっぱい並べちゃおうかなあ。今日一日お蕎麦禁止とか。あ、リナリーの持ってる可愛いドレスを着せてみるのもいいかも!神田綺麗だから絶対似合うだろうな」 「……」 「……この前の、コムイさんが作った小さくなる薬、もう一度飲んでもらおうかなー」 「そうか」 「…………」 変だ。こんなのいつもの神田じゃない。 いくら彼が怒り出しそうな条件を並べてもびくともせず、その上薄く笑みまで見せ付ける神田に、私は非常にもどかしくなり、なんとしてもその平静さを拭い去ろうと躍起になる。 「嫌って言ってもやめてあげないから!そうね、無理矢理押し倒しちゃうのもありかもね。神田が泣いちゃうまであーんなことやこーんなこと、」 「へえ」 ――――一一瞬にして、神田の瞳に宿る光が、より一層強く鋭さを増す。 「よく言うぜ。そんなに赤くなってるくせにな」 その一言で、私は自分の頬が一段と赤みを帯びたことに気付きはっとする。口を開いて何かを言い返そうと必死になるも、やはり動揺は隠せるはずもなく。そんな私を見つめる神田は余裕の滲んだ態度のまま、ほらな、と笑う。慌てふためいて目を泳がす私の動揺ぶりを見るのが楽しくて仕方がないといった様子だ。悔しさが募る。 言葉が見つからない私と、言葉を発さず意地悪く笑う彼と。二人だけの空間はこの瞬間ひどく静かすぎて、私の左胸でやかましく音を立てる早鐘のような鼓動だけが、ただ大きく響いている。 「どうした?やってみろよ」 「……かん、」 「ほら」 言い終わらぬうちに、大きな手のひらが私の左手を掴み、強い力で容赦なく引き寄せる。体制を崩して倒れこみそうになったところを腕一本で支えられ、当然の如く互いの距離は一気に縮まった。 どうしよう。眩暈がする。 精一杯の力で彼の腕から逃れようともがいても、神田はそれを嘲笑うかのように、私のそれを大きく上回るほどの力で、絶対に逃がさないと言わんばかりに力強く拘束する。 「ちょ、ちょっと、離してよ」 「お前、出来もしないくせに意地張るのやめたほうがいいぜ」 「な…何よ、私にだって出来るもん!」 せめて態度だけは凛然たるままでと、強く睨みつけてやる。悔しさと羞恥と戸惑いでひどく混乱していた私は、彼の身体を背後のベッドに沈ませてやろうと、その両肩に手をかけた。 そしてそのまま力任せにその身体を押し倒すべく、―― 「」 頬を掠める息遣いに目を見開いた時にはもう遅かった。耳元に感じる唇の熱、鼓膜を震わす低い声は、私の脳髄までをも溶かしそうなほどに熱く、とろけるくらいに甘い。 「Trick or Treat」 この世の誰よりも蠱惑的なテノールがよりクリアに脳に響く。この確信犯め、と歯噛みした。やはり彼は意地が悪い。 諦めたようにその腕に身を委ねると、神田は勝ち誇ったように、楽しげに笑った。 甘く、とろけるような (081019/神田) |