Don`t make advances to my sweet 
 がたりと椅子を引く音に顔を上げた神田の目の前にあったのは、いつになくくたびれた様子のの眠たげな顔だった。自分の知っているあのはつらつさと今の彼女の様子を照らし合わせた神田は、怪訝そうに眉根を寄せた。普段の彼女とあまりにもかけはなれすぎているからだ。
 しばらくは気にせずに蕎麦を啜っていた神田だったが、どうしても気に掛かってしまいさりげなく彼女を伺い見る。しかし、日頃ならば彼女自ら投げかけてくるはずの挨拶すら口にしない。どうやら言葉を発する気は毛頭ないらしく、普段よりもずっとゆったりとした手つきで黙々とパンケーキを口に運んでいる。
 もどかしいことが苦手、かつお世辞にも気が長いとは言いがたい性分の彼にとって、そのスピードは苛立ちを募らせる要因でしかなかった。なるべく気を荒げないようにと舌打ちをひとつして口を開く。これは彼の苛立ったときの癖であったが、同時に精神安定を図るためのものでもあった。
「やけに眠そうだな」
「うん…寝不足なんだよね」
 周りに人がいることもお構いなしに、は大きなあくびをする。その声は眠気ゆえか、ふわふわとしたトーンで丸みを帯びている。あくびに次いで今度は盛大に伸びをし始めた彼女を見やり、仮にも恋人の前だぞ、と若干の呆れを含んだため息を漏らしながらも、神田は内心安堵する。いつかのように、高熱を出した挙句目の前で倒れられては、正直こちらの身が持たない。彼は瞬時に、当時の自分の取り乱し様、そして偶然その場に居合わせたアレンとラビから数週間に渡り浴びせられた冷やかしの言葉の数々を思い出し、忌々しげに舌打ちをする。
 その原因、もとい当事者であるはまた黙り込み、ゆったりと食事を再開していた。しかし意識はうつらうつらしているようで、時たま瞼が重たげに落ちてきて、そのたびに細い指が目をごしごしと擦る。まるでリスのようだと密かに笑みを零し、そっと彼女の額に手を伸ばす。白い瞼が完全に瞳を覆っているのをしっかりと確認し、思い切り額を指ではじく。
 ばちっ。ああ、クリティカルヒット。神田の口元が意地悪くつりあがる。
「いたっ…何するの」
「こんな所で寝るほうが悪い」
 は、しれっと言い放つ神田を睨む。しかしどうやら眠気にはかなわないらしい。口ではぶつくさ言いつつも、せわしなく瞬きを繰り返し、瞼を擦り続けるのに必死といった様子だった。
「何かあったのか」
「いや、昨日アレンと一緒にラビの部屋にポーカーしに行ってさ…」
「待て」
 が何の気なしに口にした言葉を聞くが否や、一瞬で神田の声のトーンが低いものへと変化した。眉間にはいつもに増して深く皺が刻まれている。
「お前…あれほど他の野郎の部屋には行くなと…」
「やだなあ神田、さすがに私だってそれぐらいの危機感は持ってるよ。だからちゃんとアレンも一緒だったし」
「それが甘いっつってんだ!なんでモヤシは無害扱いなんだよ!」
「無害ってそんな、害虫じゃあるまいし。だってアレンだよ?あの可愛いアレンが何かするわけないじゃない」
 神田の持てあます苛立ちやもどかしさには寸分たりとも気付かずに、小さく微笑みさえ浮かべるは、痛いくらいに向けられる鋭い視線をものともせずにフォークを動かし続けている。
 この馬鹿、と湧き上がる焦燥を無言の睨みに乗せて彼女にぶつけるが、どうやら効果はないらしい。
「可愛かろうがあいつも男なんだよ、ちゃんと理解してんのか!」
「え、でも男っていうよりは男の子って感じだよね」
「…お前な……」
 彼女の異性に対する意識のあまりの生ぬるさに、神田はその場で頭を抱えたくなった。
 誰にでも親切で天真爛漫なは、ただでさえ他人の目を引く。そして教団内の人間の中でもひときわ人気者なのだ。彼女に想いを寄せる男を幾人も見てきた―もっとも、そのたびに脅しをかけて、すぐに追い払ってはいたが―彼にとって、彼女の意識の甘さについては危惧すべきことに他ならない。には少しばかり危機感といったものが欠けている。彼は常日頃からそう感じているのだった。
 再び目の前に視線を戻すと、彼は一瞬ぎょっとする。先ほどまでの眠たげな眼が嘘だと言わんばかりに大きく開かれた双眸には、とてつもない歓喜の色が宿っている。
「もしかして神田、嫉妬…?嫉妬してくれてるの!?」
「アホか。呆れてんだよ」
「そんなぁ!」
 正直、の予想は紛れもない真実だった。しかし神田はそれを悟られないよう、平坦な声音を保ちながら即答する。
 そして彼女にとってそれは期待を裏切る答えである。肩を落とし、残念そうに目を伏せた。
「ひどい、愛する彼女に対して…」
 その声はだんだん小さくすぼんでいき、最後には小さな両手が彼女の顔を覆う。今にも泣きそうだとこちらが不安になるほどにか細い声ではあったが、これが彼女お得意の泣き真似であることを知っている神田は、一切の無視を決め込み、湯飲みに口をつける。しばらくするとが不満そうに顔をあげた。やはり涙の跡などどこにもない。
「あのさ、嘘だとわかっててもリアクションは欲しいんですけど」
「生憎、そんなくだらねェことに付き合ってる暇はないんでな」
 そんな言い方はあんまりじゃないか、とは困ったように笑みを浮かべる。どうやら眠気は覚めてきたようだった。
 人の気も知らずにふざけやがって。神田は胸の内で大きく息を吐いた。
 まったく、何故俺がこんなにも気を揉まねばならないのだろうか。甚だ納得がいかない。しかし一度目を離せば、彼女は何をしでかすかわかったものではない。また自分以外の男に言い寄られることもあるだろう。そう思うと、やはり自分はこの少女から目を離してはいけないのだという使命感に似た感情が強く湧き上がることは、どうしても否めなかった。
 再びしっかりと注意を促すべく口を開こうとした彼は、突然顔をしかめ動きを止めた。
 疑問を感じたが彼の視線の先を辿り、そのまま背後を振り返る。そこにはバターブレッドとサラダを乗せたトレイ片手に、気さくな笑顔を浮かべるラビが立っていた。と目が合えば、右手を軽く上げて挨拶をする。
「よっ、お二人さん」
「あ、ラビ!昨日はどうも!」
「消えろ」
「ひでぇさユウ…」
 容赦ない物言いと尋常でない眼光の鋭さにラビは怯んだが、次の瞬間にはぴんと閃いたように僅かに目を見開き、口元には笑みが戻る。先ほどとは少し違い、どこか企みが見え隠れするような、にやにやとしたものではあったが。
「ユウ、もしかしてオレが昨日と一緒にいたからって、妬いてんの?」
 途端、神田の目つきが数倍鋭くなり、大きな舌打ちが響いた。
「ふざけたこと抜かしてんじゃねェ。斬るぞ」
「冗談さね」
 飄々と肩をすくめながらの隣に座るラビを見、神田の機嫌はさらに悪化した。昨夜ラビの部屋で楽しげに笑い合っていたであろう二人の姿を想像してしまったためである。自分以外の男に何の躊躇いもなく笑顔を向けるの姿がありありと思い浮かぶ。彼は再度舌を打ちたくなる衝動に駆られたが、それを押さえ込み、ただ睨みをきかせるだけに留めた。
「ラビ、違う違う。ただ呆れられてただけなのよ。私も残念。せっかく期待したのになー」
「言ってろ」
 心底残念そうに口を尖らせると、平静を装いつつ嫉妬の念を持てあます神田を交互に見やり、ラビは楽しげに笑う。
 それから三人はしばらくこれといった会話もなく、静かに朝食を口に運んでいた。普段ならばやかましいほどにぺらぺらと喋るラビですら口をつぐんでいたのは、少しでもに会話を持ちかければ、前方から即座に舌打ちや冷たい視線が飛んでくることを察知していたからだ。元々気の短い神田だが、そこにが絡んでくるだけで比べ物にならぬほど荒っぽさを増す。たかが一言二言の言葉を交わすことさえも許してはくれない彼に、ラビは苦笑いを浮かべることしかできなかった。
 まるで子供を守るライオンだな。
 その考えが伝わったのだろうか、神田の目が侮蔑するようにふっと細められた。まずい、バレたか。そう思ったラビが冷や汗をかき始めていたとき、突然が声を上げて立ち上がった。二人の間に張り詰めていた緊張の糸は突如思わぬ形で断ち切られ、神田とラビの肩は一瞬びくりと強張る。
「どうしたんだよ」
「司令室に呼び出されてたの忘れてた!」
「……アホだな」
 それは言わないでよと笑いながら、彼女は残った朝食を口に詰め込んだ。手早く食器を片付け始め、一分も経たないうちにトレイを手にして椅子から立ち上がる。そして数歩足を踏み出したところでこちらを振り返り、ふっと笑みを作る。
「それじゃあ、お先に行くね」
 去り際に満面の笑顔を残して慌しく走っていくその後姿が見えなくなるまで見送り、神田はひとつ息をついた。そしてゆっくりとラビを見据える。
「おい」
 潜められた低い声に答えようと唇を動かす間もなく、物凄い速さでラビの団服の襟刳りが掴まれ、力強く引き寄せられた。神田は襟を引っ掴んだ手にさらに力を込め、すかさず今日一番に低く、凄味を利かせた声で呟く。眼前にあるその顔は驚きで固まっていた。
「今度俺のいないところであいつに近付いてでもみろ。すぐに刻んでやる」
 鋭い目がラビを射抜いた。


Don`t make advances to my sweet
(081022/神田)