とけてゆく輪郭 
 一面を雪で覆われたなだらかな丘にその墓はあった。
 もうここへ訪れて十数分と経つにも関わらず、はじっと佇んだまま、墓前から動く気配はない。少し離れた場所からそれを黙って見ていた神田だったが、とうとう痺れを切らし、辛抱ならないといった表情を隠そうともせずに彼女の側へと歩み寄った。
 ドイツの冬は寒く、今は雪も降っている。寒さにはそれなりに慣れている神田でさえ身を縮こませたくなるような気温だ、寒がりの彼女にとってはさぞかし辛いことだろう。
「おい、戻るぞ」
 あまりの寒さに不機嫌な声を出すことも忘れ、発せられたそれはとてもやわらかな色を帯びている。は答えない。
 神田は彼女の見つめる先の墓石に目を向けた。まだ建てられて二年も経たないそれには、ドイツ語で文字が刻まれている。人の名前―男の名だ。彼はその男を知っている。
 横目でを伺うが、俯きがちな姿勢に長い髪があいまって、その表情はなかなか掴めない。おそらくあの時と同じ顔をしているのだろう、と神田は思った。

 一年前、任務でこの地に訪れていた二人の前で一人の人間が命を落とした。その人物こそが、この墓の下に眠る男その人だった。
 幼くして教団に入団した神田にとって、自分の目の前で他人が命を落とすことなど見慣れた光景といっても過言ではなく、気の毒だと思いこそすれど、自らの心を痛めてまで他人の死を悼むことはしなかった。それは慣れという単純な理由のみではなく、長きに渡り身を置いてきた戦場で培ったシビアな思考と、元来の冷めた性格ゆえのことである。戦いに犠牲はつきもの。それが彼の持論であり、今もそれは変わらないままだ。
 しかし彼女は神田とは違う。誰よりも人の死を悲しみ、誰よりも死を重く受け止め、そのたびに亡き魂へと祈りを捧げひとり涙を流す。そんな経験などまるでない神田の目には、その行動は理解し得ない異質のものとして映ったが、ひたすらに祈りを捧ぐその姿や、ひっそりと組まれた白い手は、眩しいほどに美しいと感じた。

 男が死んだあの日のの姿を神田はきっと一生忘れないだろう。笑顔の消え去った表情、深い悲しみの底で息を潜めたようなあの瞳を思い出すたびに、衝迫の如く湧き上がる畏怖と不快感に苛まれるのだ。
(あの目は、嫌いだ)
 あれ以来、彼女は一度もあんな目をすることはなかったが、それでも神田は瞬時に思い出すことができる。記憶は劣化することなくそこにある。仄暗く沈み冷え切った眼差しも全て色褪せぬままで。
 幾人もの命が奪われる瞬間を数え切れぬほど目にしてきた神田とは違い、が人の死を目の当たりにするのはその日が初めてであった。本来なら奪われるはずのなかった尊い命が、自分たちの戦いの巻き添えをくらい無残にも散ったのだ。
―――私が、奪ったのね。
 深く項垂れ、唇を噛み締めた彼女の言葉を思い出す。
 頼りない背中は、まるで重すぎる罪に頭を垂れるかのように小さく丸められ、小刻みに震えていた。この小さな背中には、自分たちの背負う宿命はあまりにも重過ぎるものなのだと知り、神田は強く拳を握り締めていた。 どうしてこいつが、エクソシストなのだろう。

 その後、はコムイに連絡し、男の葬儀に参列するためにしばらくこの町に滞在させてほしい、と頼み込んだ。この任務を終えれば、二人は数日の休暇を貰える予定で、久々にゆっくりと羽休めができるはずだった。コムイも神田も反対し、一度教団へ戻り怪我の治療をすべきだと強く勧めたが、彼女は断固として折れず、自分の休暇を全て帳消しにしてくれても構わないという旨をきっぱりと告げた。最終的にコムイがそれを受諾すると、は安堵したように受話器を置いた。
 しかし、神田はなおも認めないと言い張って、を困らせた。
 彼は彼女の怪我を案じていたし―軽度とはいえ、身体のあちこちに傷を負っていたのだ―、共に教団に帰還したいという思いが強くあった。いつ任務に駆り出されるかわからない多忙なエクソシストにとって、誰かと共有する時間というものは非常に貴重なものだ。不謹慎ではあるが、神田にしてみれば、名も知らぬ人間のことよりもと過ごす時間のほうがずっと重要なことであり、だからこそ、自分と過ごす時間を捨ててまで、赤の他人のために自らの時間を費やそうとする彼女に苛立ちを感じずにはいられなかった。
「次の任務はどうすんだよ」
「ここから直接向かうの。ここから近い場所のを回してもらったから…」
 憤然とした面持ちで訊ねる神田を見上げ、はすまなそうに呟いた。しかしそれは逆効果でしかなく、彼は大きく舌を打つ。そんなにすまなそうにするぐらいなら、初めから帰還することを選べばいい。それがひどく自分勝手な言い分であることに気付かないまま、神田は険しい声でを責める。苛立ちも手伝って、いつもに増してきつい物言いだった。
「何故そんなにあの男にこだわる?赤の他人、その場にいただけの人間だろ」
 その言葉が彼女にとっていかに残酷なものであるかを理解するには、その時の神田はあまりにも愚かで、幼すぎた。
 は彼に対し、声を荒げたくなるほどの憤りと深い悲しみを覚えたが、男性相手に言い返すだけの気の強さは持ち合わせていないので、唇を噛んでそれらを留め、押し黙った。それが神田の身勝手さを助長させるものでしかないということにも気付かずに。
「何か言えよ…」
「…そんなひどいこと、言わないで。お願い…」
 それだけを呟くのが精一杯で、言葉の最後は泣きそうなほど震えていた。事実、彼女は今すぐにでも泣き出したいくらいに深く傷付いている。これ以上恋人の口から、身を裂くような言葉など聞きたくはなかった。
「もし責任感じてんなら、それは間違いだ。お前は悪くねェし、あいつの命を奪ったわけでもない。あれは敵の攻撃が―」
「でも、私がちゃんと気をつけてさえいたら…。あのAKUMAを破壊していたら…」
 彼は、助かったかもしれない。そう呟き目を伏せるの姿を見かねた神田は、思わず怒鳴り声をあげた。
「いい加減にしろ!お前はこの先、人間が死ぬたびにそうやってぐずぐず落ち込むのか!?俺たちの役目は人助けじゃねえ、“破壊”なんだよ!」
「…やめて…」
 神田は、耳を塞ごうとするの細い手首を右手で強引に掴み、左手でその頼りない肩を揺さぶる。
「そんな甘い考えは、自分の身を滅ぼすだけだ!」
「…いや、神田くん…」
「戦争に多少の犠牲は――」
「神田くん」
 伏せられていた彼女の瞳が、ゆらりと神田の顔を見上げた。
――――暗く冷え切った、悲愴に揺れる眼差し。
「もう、やめて」
 掴んだ手首の温度が一段と下がったように感じ、無意識のうちに強く握りなおそうと動いた彼の手のひらは、冷え切った手によって一瞬で振り払われた。神田は目を見開く。
 はらはらと零れ落ちる涙を見て、彼はなす術もなく立ち尽くし、そして己の言動を痛烈に悔いた。
(ああ、俺が、泣かせたのか。)
「神田くん」
 右腕がゆっくりと下ろされる。冷たくなった白い指先を温めてやることもかなわずに。

「神田くんは、残酷な人だよ…」

 言葉を返せなかった。




 風が強く吹いた。黒のコートが粉雪でまばらに白く染まっている。
 あれから一年が過ぎ、偶然にもこの町の近辺でイノセンスと思しきものが目撃されたとの情報が舞い込んだらしく、コムイから任務を言い渡された。奇しくもペアは神田とという、当時と同じ組み合わせだ。恐らくコムイが意図的にそう仕組んだのだろう、と二人は悟った。
 任務を終えたは一人でここへ来ようと思っていたのだが、この寒い中一人に出来るものかと主張する神田に根負けし、二人で訪れるという結果となったのだ。
「おい、これ以上は風邪を引く。お前寒いの苦手なんだろ。戻るぞ」
 再び声をかけると、彼女は薄く微笑んだ。
「ごめんね、ありがとう。神田くんは先に戻ってて。私は、もう少しだけ…」
 そう言ってまた墓石に向き直り、静かにしゃがみこんだ。墓石に積もった雪をさらさらと払いのける。素手で雪に触れたため、ただでさえ冷えていた手がさらに温度を奪われて、赤く悴んでいる。それに気付いた神田がすぐさま彼女の隣にしゃがみ込み、小さな手を自身の大きな両手で包みこんだ。凍てつくような指先をしっかりと握る。
「ほっとけるわけねえだろ」
 そのあたたかさに目を細めたは、少しだけ神田のほうに身を寄せた。
「神田くん」
「何だ」
「ごめんね」
 謝られる理由が分からず、神田は怪訝な顔をし、無言のまま視線で言葉の続きを促した。
「…あの時。神田くんのこと、私、残酷だなんて」
「……ああ」
 当時自分が味わった、耐え難いほどの自責の念を思い出し苦笑すると、の顔が申し訳なさそうに歪んだ。
「本当は、わかってた。神田くんが私の心配をしてくれてるってことも、神田くんの言うことが正論なんだってことも」
 神田の手を握り返す力が僅かに強まる。
「それでも、やりきれないの。今でもあの日のことを後悔する。これからもずっと私はこうなのね、きっと」
 悲しみを孕んだ表情を見ても、神田は何も言わず、咎めない。これが彼女の長所なのだ。どうあっても自分とは相容れないものだとしても、彼はそんな彼女の優しさを尊いものだと慈しむ。それはにとっても同じことだった。
「“戦いに犠牲はつきもの”――か。神田くんは今でも、あの時と考えは変わらない?」
「…ああ」
 我を折ることはせず、正直にそう告げる。
「じゃあ、――――」
 彼女は突然立ち上がり、少し離れた場所まで駆けて行く。それを追おうと彼が立ち上がった刹那、

「―――もし私が死んでも、同じことを言う?」

 雪と風にかき消されてしまいそうな声。神田の耳にははっきりと届いた。
 命を賭して戦うことを受け入れねばならない彼らにとって、その問いかけはあまりにも悲しいものだった。
 はそのことを分かっている。自分たちの生きる世界でこんな問いを投げかけることの残酷さを。
“私は死にたくない。絶対に死なない。だからあなたも、死なないで。”
 そう言えたなら、それが叶う世に生きられたなら、どんなに幸せだっただろう。
 けれど、この世界でそんなことを口にしたところで、保障のできない約束は淡い幻のようなものでしかない。側にいたいと切に願っても、未来を誓いたくとも、戦場に生き続ける限りすべては自分たちの心を切なさと不安で染め上げるだけ。交わす約束が多ければ多いほど、それらが叶わなかった時が辛いのだ。それを恐れているから、彼らはこんなにも愛し合っているというのに、ささやかな約束や、愛しているというただ一言ですら交わしてはこなかった。
 ああ、当時の自分も、これほどまでに残酷な言葉をぶつけていたのだろうか。彼女は、こんな気持ちだったのだろうか。途方もない悲しみが神田の心臓をきつく締め付けた。
「お葬式で、彼の恋人だった人に会ったの。彼女が泣いているのを見て気付いた。私たちはこういう世界にいるんだって」
 の輪郭は、降りしきる雪にさらわれてしまいそうだった。神田は懸命に目を凝らし、彼女へと歩みを進める。消えてしまわぬよう、見失ってしまわぬよう。
「戦いの上での犠牲は仕方ない。それは事実かもしれないけど、けど大切な人を奪われる側からしたら、そんな言い分は理由にもならないわ。だって、私だって許せない。もしも神田くんが死んでしまったら、って思うだけで、涙が止まらないの。気が狂いそうよ。仕方ないだなんて、思えないもの…」
「…
 それは、神田も同じだった。あの日、彼女へぶつけた自らの言葉を思い出す。
“戦争に多少の犠牲は――”
 彼女が死ぬとき、自分は果たして同じことを言えるのだろうか――考えるまでもなく、答えは明白だった。
 今この時でさえこんなにも胸を痛ませている自分が、この世で最も愛する者の死を、どうしてそんな言葉で片付けられよう。
 同時に、己の死を思い浮かべる。
 戦いで命を落とすこと。寿命を削り、人並みはずれた治癒能力を手にしている神田には、それはありえないに等しいことだ。けれど。
―――計り間違えちゃいけないよ。
 コムイの声が蘇る。人とは多少違った形であれど、彼もいつ命を落としてもおかしくない人間に変わりはない。
 今のは、壊れもののような儚さを纏っているように見える。少しでも触れてしまえばすぐに雪に紛れ溶けてしまいそうな微笑みに彼はいささか面食らい、そしてそれをかき消すように、彼女を安心させる言葉を模索する。つかの間の気休めでもいい、彼女のことを少しでも安心させたかった。
 ずっと側に居る。
 絶対に死なない。
 お前を離さない。
 だが彼は、を愛しすぎていた。それゆえに、本来なら重みを伴って然るべき言葉を、一瞬の気休めに使うことはどうしてもできなかった。それらは全て気休めなどに留まるものでなく、彼の抱く紛れもない本心であり、何よりも渇望する望みだった。
 彼女を愛しているのに、真実を打ち明けられない。愛しているのに、将来を誓いあうことは叶わない。
 この世界で想い合う者が身を寄せ合うことは、きっと何よりも儚く脆い愛の形だった。
 身を切るようなその痛みに耐え切れず、彼は固く目を閉じた。それと同時に、の口から嗚咽が零れ出す。
「私は神田くんを失いたくない…」
 神田の腕がの身体を強く抱き寄せる。驚くほど冷たい手が彼のコートを掴んだ。風は雪と共に彼女の涙をさらってゆく。すべてを覆いつくす白銀の中。


とけてゆく輪郭
(081023/神田)