忘れてもいいということ
「この街を出て行こうと思っています」
 それはさよならの合図だった。
 私の動きが止まったのに気付いているのか否か―おそらく、気付いてはいるのだろうけれど―、Lはこちらに目もくれずにストロベリータルトを頬張っている。
 彼は今、この街を離れると、そう言った。
 確かにLはこうして今、私と同じマンションの一室で時間を過ごしているけれど、彼は決してこの街の住民ではない。たまに私の家をふらりと訪ねて来て、お菓子を食べ、読書をし、そして時には私とテーブルを隔てて会話をする。そんな、なんでもないような時間を共にしているだけである。だが、ここ一、二ヶ月の彼は以前よりもずっと、この家に入り浸る回数が増えていたので、実質、この街を出て行く、という表現はあながち間違ってもいないのかもしれない。
 彼はここを訪れるたび、毎回違うことをして過ごした。ひたすら新聞を読み漁ったり、私の好きなショパンのCDをかけてみたり、一人でオセロを楽しんでいることもあった。ひと月、またひと月と時間が流れるごとに、私の部屋に持ち込まれるLの遊び道具は増えていった。私にとってそれは、せわしない日々の中で唯一、時の流れをゆっくりと噛みしめることができる幸福な時間だった。

 彼は食べること、とりわけ甘いものがたいそう好きだったので、私は本棚に眠っていた分厚いハードカバーに覆われたレシピ本を掘り出してきて、彼が訪問してくるときには、毎回ちがったお菓子を振舞った。
 Lの生い立ちや素性を知らない私でも、なんとなく、彼が裕福で、いい暮らしをしているであろうことは察しがついていた。彼の見た目はお世辞にも身奇麗とは言えなかったが、それでも、どこか気品や育ちのよさのようなものが滲み出ているように思えた。それに気付いた途端、私は己と彼との暮らし様の違いを想像してどうしようもなく恥ずかしさをおぼえて、値の張るチョコレートを用意して出迎えたことがあったのだけれど、Lはちっとも嬉しそうな表情はせず、しかし最後には「私はの作るものを食べに来るのが楽しみなんですよ?」、と言って口角をきゅっとあげた。Lの笑んだ顔を見たのは、あとにも先にもその一度きりであった。

 つかみどころのない人だ。きっと、たとえ一生かかっても、私には彼を理解することはできないのだろう。私は、それをひどくさみしく思う。

 言葉を失う私の動揺をよそに、タルトを食し終えた彼は、今度はティーカップの横に置かれたシュガーポットから角砂糖をひとつ、またひとつとつまみ上げ、器用に積み上げ始めた。
「出て行くって…いつ?」
「わかりません。一ヶ月後かもしれませんし、三日後かもしれない」
 私ではなく、机の上に築かれた角砂糖のタワーに意識を注ぎながら、Lはあっさりとそう言い放った。切り捨てるかの如く潔い言い方のくせに要領を得ない答え方は、彼がよく使う手でもあった。有無を言わせぬ語調はわざと。いつだって肝心なことは、そうやって濁してしまうのだ。彼がどこに住んでいて、誰と暮らし、どんな生活を送っているのか、私は彼に関する一切の情報に触れることすら許されない。
 しかし言葉こそ曖昧にぼやかされてはいるものの、彼が一週間もしないうちにここを去るつもりであろう意思は、はっきりと伝わってきた。
 Lが、いなくなる。
――ショックを受けなかったわけではない。むしろ、衝撃は言い表せぬほどのものだ。けれど、それにも増して上回る諦めの念が、悲しみに浸ることも許さず、残酷なまでに私の肢体を支配するのだった。どうしようもない。時が来てしまった。どんなに悲しみはあろうとも、彼を引き止めたいという気持ちはやはり起きなかった。
 きっと彼がこの家を訪れたあの日から、私は知らず知らずのうちに、この瞬間を迎えるための心の準備をしていたのだ。


 キッチンに立ち、使い終えた食器たちを洗っていると、背後からLの呼び声が飛んできた。
。私は眠いです」
 いささか低い声で発されたその言葉は、Lの最大級の甘えのしるしだ。彼はふとした時に、ほんの少しの甘えたがりの一面を見せるのだ。
 Lがこう言い出したら、私はすぐに作業の手をと止めて、彼の寝そべるベッドに潜り込まねばならない。賢く、けれど子供のように勝手気ままな彼は、放っておくとすぐにむくれてしまうから。
 ベッドに腰をおろし、布団の中へと両足を潜らせる。真っ白なシーツは既にLのぬくもりを吸っていて、すっかり冷たくなった私の足先のしびれを少しずつ和らげてくれる。大きな羽毛布団にくるまって、少しだけ彼の胸元へ身を寄せた。子供のようにあたたかい体温がじんわりと伝わってくる。その温度は、いつだって私を幸せな気持ちにさせた。
「……
 Lはいささか甘さの混じった声で囁き、私の身体を引き寄せた。
 そして彼はやがて瞼を閉じ、私もその真似をする。彼の腕の中で、私の意識はすぐに、深い眠りの中へと滑り込んでいく。




 トランプ。オセロ。大量のスナック菓子の入ったダンボール。大きなクッキー缶。キャンディやマシュマロの詰まったパーティーボックス。彼の持ち込んだすべてのものたちが、朝の光が差す頃には、忽然と姿を消していた。
 目覚めるとすでにそこにはLの姿は見当たらず、あれだけぬくもりに満ちていた布団の中には、今は己の身ひとつしか存在しない。しばし呆けたまま冷えたシーツを握り締めていたが、私はすぐにベッドから抜け出した。裸足でフローリングの床をぺたぺたと歩き、家中をくまなく探し回ったけれど、焦燥と心もとなさは募るばかりであった。
 無いのだ。
 Lの影の残るすべてが消え去っているのだ。
 私ははっとして、すぐさまキッチンへと駆けて冷蔵庫の中を覗いたけれど、彼のために焼いたあのストロベリータルトの残り半分も、丸ごと無くなっているのだった。
 彼と過ごした日々の名残どころか、彼が数時間前、この場所にいた気配さえどこにも見つからない。
 心にぽっかりと開いた虚無の穴に、思考がのまれてしまわぬように強く唇を噛み、部屋中を何度も何度も見回した。彼のいた跡を必死に探す、ただそれだけを繰り返した。そうしているうちに、つい先ほどまで隣にいたはずの人物は、実は幻だったのではないかとさえ思えてきた。そう、まるで彼と過ごした日々だけでなく、彼という人間そのものが幻だったかのように。
 だって、私は「L」のことを知らない。
 そしてどこにも、Lという人物がここにいたという証など、なにひとつ残っていやしないのだ。

(…ああ、そうか)


 あの人は、最後までやさしい人だった。
 彼のかけらの失われたこの部屋で、途方もない悲しみだけを抱いて、私は声もなく泣いた。






―――忘れてもいいということ



(愛しの雨ちゃんにリクエストを頂きました。
遅くなってしまってごめんなさい、あいしてます…!)
(110320)