純化
 すうっと透きとおった透明の雫が、頬の横を掠めてゆく。廊下の一角で、ティエリアは立ち止まった。
(またか。)

 少年―その美貌は、あるいは少女と言ってもよい―のようなあどけなさの残る顔立ちからは想像もつかぬほど、低く厳しい声である。眼鏡の奥の双眸にはめいっぱいの苛立ちが湛えられ、その緋色の瞳は、より一層炎のように深く燃え、赤くぎらついているようにさえ見えた。
 は返事こそしないものの、壁に備え付けられたスライドグリップを強く握り直し、無言のまま振り返る。涙をいっぱいにためてティエリアを見つめ返す彼女は、眉を八の字にして、今すぐにでもこの場を去りたいと言わんばかりの表情を隠そうともしない。彼らは互いを得意としていなかったのである。
 脆弱――ティエリアの浮かべる彼女の人物像はその一言に尽きる。事実、彼女はいわゆる「泣き虫」であった。ティエリアが、ソレスタルビーイングの中でもひときわ批判的で、冷酷なまでに理詰めな性格であることは事実だが、それを差し引いてなお、が皆に比べ涙を流す場面が多いのもまた現実であり、ブリーフィングルームのモニターに映しだされた数々の惨状をじっと見つめては、ひとり涙を流すことも少なくなかった。
 その手で命を摘むことを、己の意思で選んだ者が、戦闘毎に涙を流す。ティエリアにとって、その矛盾は到底許せるものではない。彼女には彼女なりの信念があるのかもしれないが、そんなものを理解する気など彼の中に生まれるはずもなく、嫌なら出て行けばいい、と彼女に向けて幾度も声を荒げては、周りの者に宥められていた。
 鬼のように厳しい人格を持つティエリアであったが、他人の惰弱な姿を何度も目の当たりにして、気を害することはあれど、いい気分になることはない。他人が何を思い何をしようが、自分には関係のないことだと主張しながらも、実のところ、彼は至極うんざりしていた。
「何度言えばわかる。ミッションの度にそうめそめそされては、こちらの士気にも関わると」
 は何も言葉を発さず、無重力の中その場に立ち尽くして、ティエリアの足元のあたりに視線を泳がせている。口は一貫して真一文字を結んだまま、時折、スロウモーションのようにゆっくりとまばたきだけを繰り返す。暖簾に腕押し、という言葉が、彼の頭を掠めた。
 彼は以前にも同じように彼女を戒めたことがあったが、憤りをあらわにするティエリアの横で、は両の腕で己の身を抱き、ん、と小さく呟くだけで、それ以上は何も言わなかった。ティエリアは、あの時のぼんやりとした、俯き加減の彼女の横顔を思い出していた。
「君の行動は、非常に不愉快だ」
 ティエリアは、良くも悪くも非常に厳たる性格である。顔色も変えず、表情さえ崩さず、どんなに辛辣な言葉でも、気兼ねなくはっきりと口にすることができた。そんな苛烈な物言いの前に、大抵の者は委縮してしまうということを彼は知っていたし、むしろそれを利用して相手を黙らせる手段に出ることも厭わなかった。
 しかし、俯いて唇を噛んでいた彼女は、やがてそっと目線をティエリアに合わせ、
「あなたにはわからないわ」
 臆する様子もなく、濁りのないまっすぐな瞳で彼を見据え、そう告げた。
 疲れとストレスを訴えるやつれた顔。小さな唇はかすかに震えている。それでも、不屈の芯を感じさせるその声と眼光だけは、どんな罵声や暴力よりもきつく彼を縛り付けるのだった。
 ティエリアは気付く。かなしいまでにまっすぐな瞳の輝きが、どこまでも深い諦観のまなざしであることに。それが彼を苛立たせるもの。
 身を翻し、廊下の奥に遠ざかっていくの後ろ姿を横目に、憤りさえ感じながら、やがて彼も素早く踵を返す。力を込めて床を蹴れば、細身の身体は容易く宙に浮いた。
(あれを、弱さと呼ばずしてなんと呼ぶというんだ。)
 自身を鈍らせるあのまなざしが、まるで蛇のようになまめかしく自分に巻きついて、みるみるうちに己を蝕んでゆく気がして、その感覚はいっそう彼の不快感を強めた。
 それでも、彼女がなびかせる黒髪をすり抜けて、こぼれ落ち、浮遊する涙の粒を、彼はふと、うつくしいと思う。








(110413)