Agony
 百合の花が嫌いだ。
 それは一瞬のうちに、僕の中に彼女の纏う香りを蘇らせた。
 先輩は、いつだってその甘い香を振りまきながら、僕の横をかけてゆくのだ。





(あ、)
 ビーフに突き刺したフォークを動かす手を止めて、少しだけ首を長く伸ばし、僕はそれを見つけた。
 視線の先で、彼女は友人と朝食を取っていた。しかし、テーブルの上に並ぶポタージュやオムレツはすべて手つかずのようで、当の彼女は、まっすぐと伸ばされた背筋はそのままに、顔だけを俯かせている。胸元までのびた漆黒の髪が彼女の輪郭を覆って、僕のいる位置からはその表情は読み取れなかった。
 僕はすかさず彼女の手元に目をやった。――やはりそうだ。テーブルにそっと乗せられた右手を、己の左手に覆い被せて、小さく丸い爪を食い込ませる。それは、彼女が感情を押し殺そうとしている時に見せるささやかな癖だった。
 それを見つけてからの僕が取る行動は決まっている。しばらくは素知らぬ顔をして食事を取り続け、そして彼女が席を立つ頃合いを見計らい、すぐに彼女のもとへと足を進めて、後ろから静かに、自分が出来得る限りのやさしい声を投げかける。
「先輩、少しいいですか?」
 その瞬間、ほんの一瞬だけ――先輩の顔は、今にも泣きだしそうに歪められるのだ。

 先輩の物憂げな顔や仕草を、僕は見逃すことがなかったと思う。彼女はそれほど感情が表に出るタイプの人なのだろう。さもなくば、僕がいつも彼女の姿を探し、その表情に目を凝らし過ぎていたからなのかもしれない。いずれの理由にせよ、僕―レギュラス・ブラックは、先輩の感情の起伏にはとりわけ敏感だった。
 僕は彼女のあらゆる表情を知っている。笑った顔も怒った顔も、泣き顔も、幸せそうにはにかむ顔も。僕はいつだって、彼女の傍で見てきたから。
 けれど、僕の前で曝け出されるそれらのすべての感情は、僕ではなく、その場にいない誰かに向けられたものだ。






 彼女――二つ年上の先輩は、よく僕の横で泣いた。人前ではいつだって笑っているような人だったけれど、泣きたいときには決まって僕のもとを訪れるのだという。先輩が、その向日葵のような笑顔と同じ数だけ、密かにこうして泣いていることを僕だけは知っている。
 決して声を上げることはせず、時折小さく嗚咽を漏らすだけの、それは声なき泣き声だった。身を切られるような思いをしながら悲痛に顔を歪めて、それでも懸命に声を漏らさず耐える姿を見ると、その身体を力任せにかき抱いてしまいたくなる。
 こんなに美しく涙を流す人を、僕はほかに知らない。丸みを帯びた頬をこぼれ落ちるそれは、きっと限りなく透明に近い澄んだ青色をしているのだろう。なんて綺麗な人。そんな彼女はきっと知らないのだ。隣に居る僕が、こんなにも欲望に塗れたどす黒い感情を抱えていることなど。
 何故スリザリンに所属しているのかが不思議でならない。それほどに心優しく、とても繊細な人だった。何度も傷ついては泣く先輩の背中は、あまりにもみじめで滑稽で、可哀想に見えたけれど、その真っ直ぐなまなざしからは、そんな愚かさなど微塵も感じ取ることはできなかった。元より彼女は賢明な女性なのである。それなのに、何故。
 僕なら先輩を泣かせない。僕なら、先輩を苦しませるようなことなんてしないのに。
(馬鹿じゃないの、先輩。)
 それでも、彼女を狂おしいほどに愛しく思う気持ちは止められなかった。






 先輩が僕の横に立ったとき、僕はすぐにその違和感に気がついた。
「あの、」
 控え目に声をかけると、彼女はこちらの視線と表情を一瞬伺い見ただけで、僕が何を言わんとしているかをすぐに察し取ってくれたようだった。そして、少し眉を下げてはにかむ。彼女はこうして、悲しいときにも幸せなときにも、同じように眉を下げて笑う。
「うん。これね、シリウスが好きなにおいなんだって」
 ローブのポケットから取り出されたそのガラスの容器には、無色の液体がつまっていた。どうやら彼から直接手渡されたものらしい。彼女の花を愛でるようなまなざしがそれを物語っていた。
 先輩は、手のひらに収まる程の大きさの丸い小瓶を光に透かしてみたり、包み込んだ両手の中で転がしてみたりして、まるでそれを宝物のように扱っている。
「おまえはただでさえ地味だから、って言われちゃって」
「…すみませんでした。兄が、そんな無礼極まりないことを」
「やだ、レギュラスが謝る必要なんてないのに!それにね、彼の言うとおりだったのかもしれないと思って。私地味だし、それに…ブスだし、せめてこういうところだけでも、もっと気を遣うべきだったよね」
 そう言ってからからと笑う先輩は、それでも本当はずたずたに傷ついているに違いないのだ。先輩を介して知る兄の物言いは、非常にストレートかつ丸みがない。しかし、愛情の欠片も感じさせないそんな冷徹な物言いさえ、彼女は常に甘んじて受け入れた。その姿勢や、彼女の意思の在りようは、僕には到底理解が及ばない。
 どこか人工的な、甘ったるい百合の香りに顔を顰める。
 吐き気がした。
 僕の好きな先輩が、ゆっくりとあの男の毒に蝕まれ、確実に奪われてゆくような底知れぬ恐怖は、僕を容赦なく苛んだ。あの人が先輩を否定するたび、彼女の魅力はひとつ、またひとつと失われていくように思えた。彼の言葉を受け止めた彼女自身が、その手で自分の魅力を潰してしまうせいで。
 僕は、香水にかき消されてしまう前の、彼女の本来のやわらかな淡いにおいを思い出す。
 どうしてあんな男なんかのために変わろうとするんだ。そんな虚飾を身に纏わずとも、あなたは今のままで十分魅力的で、誰よりもうつくしい人なのに。
 胸の内に秘めたその思いは、やはりぶつけられないまま。






 僕の兄――シリウス・ブラックは、校内で見かけるたびにいつも違う女を連れていた。
 プレイボーイのシリウス・ブラック。このホグワーツにいて、その名を知らぬ者はいないだろう。彼は良い意味でも悪い意味でも一際目立つ生徒で、ことさら女癖の悪さに関しての悪評は一向に絶える気配はなかった。そんな悪名高き彼の噂を、さすがの先輩も耳にしたことはあるだろうし、自分が彼にとって一番の存在ではないということも、おそらく理解していただろう。
 しかし彼女はそれを知りながらも、何度見ても慣れないようで、その光景に出くわすたびに咄嗟に唇を噛んで俯くのだった。
「あ…」
 先輩が声をあげて立ち止まるので、僕はすぐに合点がいった。ああ、またか、と。
 その瞳が見つめる先―僕らの立つ場所から数メートルほど離れた渡り廊下を、シリウスとレイブンクローの女生徒は並んで歩いていた。あの男の腕に己の腕を絡めて、しなだれかかるようにして歩く女は、けばけばしい化粧と身なりをしていて、自信だけは誰よりも負けないといわんばかりの目をしている。彼女はすぐにこちらに気づき、その大きくつりあがったきつい双眸で先輩をじっとねめつけて、最後には勝ち誇ったように笑みを浮かべながら歩き去っていく。
 先輩は、たとえるならかすみ草だとかすずらんだとか、控え目に可憐に咲く花のような人だった。決して派手な主張をせず、目立とうともせず、けれどその清楚な佇まいや立ち振る舞いで、自然と人の目を引いてしまうような。
 僕はそんな先輩を誰よりも美しいと信じてやまなかった。けれど先輩は、あの男の隣を歩く女の横顔や後ろ姿をじっと食い入るように見つめたあと、「やっぱり、華やかで美人な女の子はずるいよね」と言って眉を下げて笑う。
 僕がどんなに声を大にして、あなたが一番だと叫んでも、駄目なのだ。先輩が欲しているのは僕からの賛辞などではない。彼女にとっては、シリウスに気に入られないのなら、ほかの誰にどんな褒め言葉を贈られようとも、たとえ百人もの人間からの称賛を浴びたところで、それらの言葉はすべて無価値なものでしかなかっただろう。
 彼女の視線の先を追い、僕は何も言わず静かに目をそらした。
 先輩を苦しませる人間など、消えてしまえばいいのにと思う。






 その日、シリウスに呼び出されたことを打ち明けた先輩は、見るからに浮足立っていた。
「…その間抜け面、なんとかしたらどうですか」
「あ、ごめんごめん」
 頬を押さえる彼女を見て、僕は内心舌打ちをする。
 ここひと月ほどで、シリウスと先輩の逢引の回数は格段に増えつつあった。
 昼間、僕ではないあの男の隣で幸せそうに笑う彼女が視界に入るだけでも、胃が捩じ切れんばかりの悔しさを覚えるというのに、それが深夜の逢引となれば、僕は自身の内にのた打ち回る怒りに呑まれ、眠れない夜を過ごすこととなる。
 けれど、先輩があの男と共に時間を過ごせるのは、あくまであちら側からのコンタクトがあった時のみだ。あちらが望むタイミングに、あちらが望んだ場所で、あちらが望んだ時間だけ。その暗黙の了解に、先輩は決して逆らおうとしない。
 今まではほとんど彼女に見向きもしなかった彼に、どんな心境の変化があったのかは定かではないが、少なくともその変化を、先輩はとても喜んでいるようだった。それを逐一報告する時の彼女はまるで、そんな不当かつ理不尽な己の扱いさえも手放しに喜んでいるように見えて、そんな姿に苛立ちを覚えることもしばしばあった。
「ちょっと嬉しくて。こうしてあっちが私を呼んでくれる時にだけ、誰にも邪魔されずにシリウスとふたりで過ごせるから」
 これのどこが“ちょっと”なもんか。どうせあの人のことで胸をいっぱいにしているくせに。
 自然に上がる口角を必死に隠そうとして、きゅっと力の入った口元。頬を覆うその指先の合間からは、上気して赤みがかった肌がちらちらと見え隠れしている。自分ではない男のことを想っての表情だというのに、こんなにも愛おしく感じるだなんて、我ながら救いようがない。
「浮かれちゃって、馬鹿みたいね」
 自虐めいた言葉を口にしながらも、その頬は緩みっぱなしだ。そんな彼女を見て、僕は何かを口にするかわりに、ただ奥歯を強く噛みしめるしかない。
先輩」
「ん、なに?」
「なんで・・・・・・どうして、そんなにもあの人にこだわるんです?あんなのの、どこがいいんですか」
 苛立ちを抑え込んだためか、普段よりも幾ばくか低く発せられた己の声音を咄嗟に悔いる。だが、先輩は少しも気にするそぶりも見せずに僕の顔を見つめたのち、しばし虚空に目を泳がせた。自身にとって最愛の人物を貶されても、彼女は声を荒げることも、気を悪くした様子さえなく、最後には肩を竦めてこう言い放つ。
「そんなの、私が知りたいくらい」
 それは泣きたくなるほどに真っ直ぐな笑みだった。

――なんで、あんな人なんかに夢中になってるんだろうね、私。
 彼女は以前にもそう言って笑ったことがあった。
 先輩。静かに彼女の名を呼んでそっと手を握ってやると、彼女は途端にその笑顔を崩して、大粒の涙をぽろぽろと零し始めた。僕は、あの時の、丸められた小さな背中を思い出す。嗚咽で小刻みに揺れるその肩は、触れたら脆く崩れてしまいそうなほどに頼りなく、あまりに儚いものだった。
 何故、僕じゃないんだろう。
 たとえば僕が二年早くこの世に生まれていたら、彼女と肩を並べ歩くことはできたのだろうか。あるいはもっと柔和な性格であったなら。兄と同じグリフィンドールの生徒であったなら。兄のように、他人に囲まれるような人徳があったなら。
 たとえ話は好きじゃない。それにきっと彼女は、たとえ僕が兄のような人間であったとしても、それでも兄のことを選ぶのだろう、とぼんやりと感じ取っていた。この人には、そう思わせるような真っ直ぐなところがある。先輩は、見ているこちらの胸が詰まりそうなほどに一途な人だった。
 彼女のことが好きで堪らなかった。






 季節は秋を通り過ぎ、冬に差し掛かっていた。
 談話室には、僕と先輩以外に人の姿はない。僕が読みかけの本を片手にそこを訪れたとき、先輩は既にソファに身を埋めていた。何をするでもなく、ただ柔らかい長椅子に身体を預ける彼女の虚ろな瞳は、どこか遠くへ向けられていて、そこには何も映り込んではいないように見え、僕はほんの一瞬だけ足が竦んだけれど、数秒ののちに彼女の瞳が僕を捉えたとき、すでにその目は色を取り戻していたのだった。先輩は何も言わずに笑う。

 うす暗く冷えた地下の談話室は、冬になると一層冷える。青くぼんやりとした月明かりしか差し込まないその部屋で、重く黒ずんだ石畳の壁や、灰色の床の無機質さなどが、視覚的にもその冷たさを訴えかけてくる。思わずローブ越しに己の腕をさする僕の横で、先輩は、両の足をすり合わせるようにして再びソファに深く腰掛け直し、そして静かに口を開いた。
「たとえばね、シリウスがこの瞬間にだれか他の女の子と居たとしても、それでもきっと、私はそれを許しちゃうの」
 暖炉の赤が、彼女の白い肌を燃やすように染める。とっぷりと水分に富んだ黒真珠のような瞳の中で、炎の放つ光がゆらゆらと揺れているのをぼんやりと見つめながら、僕は何も言葉を返すことができない。
「やっぱり私って変かしら」
 水の注がれたグラスの淵を指でなぞりながら、先輩は呟く。自嘲気味に発せられたそれは、もはや彼女の口癖と化している言葉だった。
「…知りませんよ、そんなこと。僕に聞かないでください」
 僕は彼女を突き放すように吐き捨てた。ありあまる想いは、時として苛立ちと化す瞬間がある。いくら慣れてしまっているとはいえ、想い人が自分以外の誰かのことを口にするのは、やはり気分のいいものではない。
 だよね、と苦笑しながらも、先輩は心もとない心地でいるのであろう。口元に笑みを作ってはいるものの、それはひどく不格好で、こちらが目を覆いたくなるような悲痛さに満ちていた。
「……僕がいいアドバイスなんて出来る人間じゃないことくらい、知ってるでしょう」
 痛ましい顔をさせてしまったことに罪悪の念と後ろめたさを感じながらも、僕は出来るだけ眉を顰め、うんざりといった表情をつくる。それなのに、彼女はまた「いいの。私はレギュラスがいい」と言って笑うのだった。
―-ああ、その言葉は、なんて甘いんだろう。
 何度も、何度も、うんざりするほど自分に言い聞かせたはずだ。
 彼女は、決して自分には靡かない。
 けれど、それでも。彼女が僕の名を呼ぶたび、この胸は胸躍り、淡い期待をする。たとえ突き落とされるとわかっていたとしても。この心臓はなんて愚かなんだろう。落胆の後に押し寄せる絶望など、身をもってとうに知っているはずなのに。その瞬間、僕は無性に泣きたくなった。
 嘘つき。
 僕じゃなくたって、結局は誰だって良いんでしょう。先輩はシリウスのことしか見えていない。けれど僕も、そんな先輩のこと、そして自分のことしか見えていないんだ。
 先輩が欲しい。僕のものにしてしまいたい。その笑顔を、僕だけのために向けて欲しい。その独りよがりな欲望だけが、まるで麻薬のように僕の脳内を侵している。
 初めのころは、聞きたくもない恋愛相談に嫌気がさしたものだが、今となってはすっかり慣れてしまっていた。ブラック家の教育上、幼少期から己の感情を押し殺すことは日常茶飯事でもあったため、彼女の話に耳を傾ける苦痛にも耐えうるだけの精神力はあった。むしろそれで、彼女が自分のことを必要としてくれさえすれば、それでよかった。初めはどんな理由であれ、僕に依存して、僕を頼って、そして最後には僕なしではいられなくなって、



 そしてそのまま、僕のことを好きになってしまえばいいのに。



 ボーン、と大きく鐘の音が鳴った。気づけば、時計の針はもう十時を指している。
 はっと顔をあげた先輩は、弾かれたように身を起こし、ソファから立ち上がった。なるほど、そういうことか。彼女がこの談話室にひとりで居た理由を、いまさら僕は理解する。どうやら今夜も眠れそうにもない。
「あ…私、そろそろ行くね」
 誰と、どこに?理由など、野暮なことだ。そんなものは聞かずとも明白であった。彼女がこんなにも幸せそうな微笑みを浮かべる理由など、ひとつしか思い当たらない。
「レギュラス」
 顔を伏せている僕の頭上に、やわらかい先輩の声が降ってくる。

「ありがとう」


 ねえ、先輩。
 泣いて、泣いて、それからたまに毒を吐いて、それからまた泣いて、
 それなのに、どうしてそんなにも幸せそうに笑えるんですか。


 あまりにもやわらかいその声音に、僕は顔を上げることができず、悔しさで奥歯を噛みしめた。そうでもしていないと、兄への憎しみで今にも身が切れてしまいそうだった。
 こんなにもやさしい声で僕の名前を呼ぶのに、それでも彼女が僕を見てくれないのは、何故?
 秒針の音が耳につく。目鼻の先にある先輩の気配は消えていない。彼女はその場から動かずに、うなだれたまま一向に顔を上げようとしない僕の様子を、首を傾けて伺い見ているようだった。
「レギュラス?」
 いささか困惑した声が耳を掠める。身を屈めてこちらを覗き込んでくるその顔を見つめ返す自信がなくて、僕は唇を引き結んだまま、ぎゅっと強く目を閉じる。

 先輩、先輩、
 どうしたら僕を見てくれる?

「……いえ、」

 何でもないです。そう口をついて出た声は、平静を保つための必死さが滲み、かすかに震えていた。
 それでもやはり気がかりなのか、彼女の表情は晴れず、まじまじとこちらを見つめてくるので、僕は力を振り絞り、彼女を安心させるための笑みを口元に浮かべた。「大丈夫ですから」と、念を押すような言葉を添えて。
「…あんまり、無理しちゃ駄目よ」
 小さな声だったが、そこには僕に向けられた心配と、そしてはっきりとした困却の色が浮かんでいた。
 僕の身を案じてくれている彼女の善意も、困惑の末にかろうじて絞り出したであろう言葉も、今は物笑いの種でしかなかった。無理しちゃ駄目だなんて笑わせる。あなたにだけは言われたくない言葉だ。感情が荒れ狂う脳の片隅で、己の残虐性が鎌首をもたげる。
「じゃあ、またね」
 先輩は、後ろ髪の引かれる思いを拭えぬ顔をしつつも、やがてゆっくりと身体を起こして僕から離れていく。そうして、やがて軽やかな黒髪は僕の手をくぐり抜けていってしまう。いつもそうだった。ずっと、いつも。いつも。
 いつだって、その後ろ姿ばかりを幾度も抱きしめた。
 彼女があの人の元に走り去ってしまう瞬間、僕はいつだって彼女を引き留めたくて、その身体を掻き抱いてしまいたい衝動に駆られていた。行かないでと、何度その言葉を飲み込んだだろう。そして僕は結局、彼女の手を掴むことも出来ぬまま、ただその背中がドアの向こうに消えてゆくのを黙って見送ることしかできないのだ。そう、今に至るまで。
 だって、彼女の一番の笑顔を引き出せるのは、僕ではなく、そう、きっと――。

「――――先輩!!」







「……その香り、あなたには似合わないと思います」

 自分でも聞いたことのないくらい、泣きそうな声だった。


 すぐ側で、息を呑む音が聞こえる。
 先輩の手首を掴む掌には力がこもり、身体はひどく熱かった。汗がどっと噴き出る感覚が身を包んでいく。彼女の目を、見つめ返すことができなかった。


「…………ごめんね」


 今度こそ、僕は顔を上げた。
 彼女のその表情を見た瞬間、僕の胸には言葉にならないほどの後悔の波が押し寄せた。
 先ほどまで目まぐるしく駆け巡っていた思考は、まるで強力な雷が落ちてきたかのようにぴたりと動きを止め、血の気が引いていく感覚だけが身体全体を支配する。
 小さな手に振り払われた腕は、力なく垂れ下がった。
 その場に立ち尽くす僕を置いて、先輩は今度こそ、一度も振り向かずに駆けて行った。
 そしてやがてその足音も聞こえなくなった頃、僕はようやく全身の緊張が解けたのを感じ、弛緩した身体を力まかせにソファに預けた。先輩が消えていったドアをしばらく眺めてから、目を細め天井を仰ぐ。
 彼女は聡い人だ。おそらくあの笑顔を間近に見ることや、深い濃紺の瞳を覗き込むのもこれが最後になるだろうと、麻痺した頭の片隅でぼんやりと考える。
―-――もう、戻れない。
 ため息さえ出ない自分に気づき、両手で顔を覆うと、その唇の温度のなさに驚く。そして同じくらいに冷えた掌で、彼女が口づけたグラスを、テーブルの隅に乱暴に押しやった。
 先ほどまでは確かに掌にあった彼女のぬくもりも、残り香も、もう指のあいだをすり抜けてしまっていた。それはまるで、決してこの手の中にとどまることのない彼女自身のようで、僕はやり場のない憤りに任せて拳を握り締める。

 己の中に渦を巻く感情に身を任せ、奪うこともできたはずだ。
 その涙を拭うことや、彼女を抱きしめることはおろか、無理やりにでも唇を奪うことなど、容易く為せるわざであるはずだった。僕らはそれだけ近い場所にいたのだ。きっとそれは、彼女の恋人であるあの兄よりも、恐らくはずっと。
 あの人を見つめるその目をふさいであげたかった。そのまま彼女の手を取って、どこか遠くへ連れ去ってしまいたかった。
 けれどいつだって、あの向日葵のような笑顔が枷となる。

「、先輩……っ」





 憎くてたまらなかった。
 匂い立つ淡い香も。夏の陽のように眩しい笑顔も。ひたむきなまでのそのまっすぐさも。
 けれどそれは、僕が手に入れたかったすべて。


 僕はあなたを愛していた。
 僕はあなたが欲しかった。あなたを僕だけのものにしたかった。
 あなたが僕を見てくれること、ただそれだけを、ずっと求めていた。




 先輩は僕の前をかけてゆく。あの百合の香を振りまきながら。
 それでも僕の目は、彼女の姿を探し続ける。今も、きっとこれからも。ずっと。  

 ずっと。







Agony


I love you so much, you're my all.

片恋企画様へ ...110918 → 加筆修正 111023