インモラル・ヒーロー
(※いわゆる「寝取り」のような、あまりよろしくない表現があります。閲覧は自己責任でお願い致します。)








 俺はずっと、一番になりたかった。
 ワイミーズハウスにいた頃から、俺はニアが憎かった。涼しい顔をして、なんてことないような素振りで俺から一番の座を奪い続けるあの男が。
 あいつが、俺にたった数点の差をつけて、誰よりも満点に近いテストの答案用紙を片手に真横を通り過ぎるたびに、何度歯を食いしばり、身の捩れるほどの悔しさに耐え忍んできたか。あいつはいつだって、俺に見向きもしなかった。
 努力を怠ったことなど一度だってない。幼い頃から、俺の前にはいつもニアという存在が立ちはだかっていたのだ。あいつを超えるためになら何だってした。勉学、運動、語学、教養。あらゆる分野でニアに勝るために、血の滲むような努力を重ねて、しかし、それでも敵わないのが現実だった。

「わたしは、メロがたくさん頑張ってること、ちゃんと知ってるよ」
 テストのたび、競争ごとのたび、皆が一斉にニアを取り囲み持てはやすなかで、だけは、俺の傍でそう言って笑っていた。
 はじめは惨めなだけだった。たとえ努力がニアに勝っていたとしても、結果は結果だ。俺はどんなに足掻いてもいつも二番手。それは、この施設にいる誰もが皆知っていたことだ。誰もがニアに羨望と憧憬の念を抱き、その実力を褒め讃え、そして俺のことを惜しみと同情の眼差しで見た。だからこいつも、どうせ俺を憐れんでいるんだろう。偽善者め。そう思うと憎しみすら覚えそうになった。事実、同情ならやめろと冷たく突き放したことだってある。けれどあいつは決して俺から目を逸らさず、友好的な態度を崩さなかった。はいつだって俺の傍にいた。悔しいが、日に日に彼女が俺にとっての絶対的な存在となりつつあることは、認めざるを得なかった。
 気付けば俺は、どうしようもないくらいにのことが好きになっていた。冬のことだった。







 やがて春になり、そして冬が来て、春が来て――また冬になった。俺が彼女を好きになってから迎える、二度目の冬。忘れもしない。雪がしんしんと降り積もる静かな晩だった。
 天井の高い廊下の先、俺の立つ場所から十数メートルほど離れたところに、とニアが立っていたのだ。俺はたまたまその現場に居合わせた。柔らかい絨毯の敷かれた廊下は長く続いているが、このときは俺たちの他には誰の姿も見えなかった。
 珍しい組み合わせだな、と思った。二人が会話しているのを、俺はほとんど見たことがない。純粋な興味と、この世で最も嫌いな男とが言葉を交わしている光景へのささやかな嫉妬心。その両者に突き動かされて、俺は柱の陰からその様子を眺めることにした。
 どうやらのほうがニアに用件があったらしい。いつも通り表情のない顔で振り向いているニアと、そのニアを走って追いかけてきたらしく、少しだけ息を切らせたは俺に背を向けていて、その表情は見えなかった。
 ロジャーから預かったいくつかの書類を手渡しながら、は懸命にも、日常的な話題を投げかけてはいるようだったが、ニアは相変わらずどこか億劫そうな面持ちで、それに最低限の口数で応えることしかしていない。
 会話は早々に打ち切られ、用が済んだとわかるや否や、やがてニアが踵を返して歩き出した。間を置かずして、もすぐにこちら側へと身体の向きを変える。
 その時、不幸にも俺は見てしまったのだ。
 この世の幸福をめいっぱい噛み締めて、それを隠さんとするようにはにかんだ笑み。耳まで赤く染まったその顔を。


 俺はその一瞬ですべてを察してしまった。彼女がニアに恋をしているということを。


 いつから――。そう考えた途端、足元から崩れおちてしまいそうな絶望が全身を支配していった。
 俺が密かに想いを寄せていたこの二年間、彼女も同じようにずっと、ニアを想い続けていたのだろうか。どんなきっかけで、あいつはニアを好きになったのだろう。本当は、ただ俺が知らなかっただけで、二人は以前から親しくしていたのかもしれないし、そうではないかもしれない。いずれにせよ、それらは俺の知るところではなかった。
 その後も、が俺の前でニアへの想いを打ち明けることはなかったが、それでも意識して観察してみれば一目瞭然だった。今までの俺が気付かなかったのも不思議なくらいだ。それくらい、わかりやすく態度に出てしまう奴だった。恐らく、ニア本人ですらもとうに気付いていただろう。
 は時たま、ぽつりぽつりと、水滴を落とすように慎重に、「ニアがね、」とあいつの話を持ち出すようになった。俺に恋心がばれてしまうのが怖いのか、その話題も意図的にあまり長くは続けなかったけれど。それでも、あの男の名前を呼ぶの声があまりにも優しいから。その響きを耳にするだけで、俺は死んでしまいそうだった。
(どうして、よりにもよってニアなんだ。)
 俺には決して見せない表情、声、真っ赤に染まった頬。それらの全てが俺を朝から晩まで延々と苦しめ続けた。







 ワイミーズハウスを出ていくと決めて間もなく、彼女は血相を変えて俺のもとへ飛び込んできた。奇しくも、それはまた寒い冬の日のことだった。
「メロ!出ていっちゃうって本当なの…!?」
 普段よりも上ずった声でまくし立てながら、俺に詰め寄ってくる。その顔からは、戸惑いや焦燥、不安の念が十分に伺い取れる。俺のことでこんなに必死になるを見るのはいつ以来だろうか。無表情を装いつつも、少しの満足と優越感が湧きあがった。
 俺は、投げかけられた問いに肯定も否定もせず、何も言わないまま、開け放たれたままのドアを閉める。その動作を見ただけで、彼女は事の真実を悟ったようだった。
「…嘘でしょ?そんな、いきなり…。そんなこと、一言も相談してくれなかったじゃない!」
「どうして俺が、お前に言わなきゃいけないんだ」
「そんな……」
 呆然と見開かれた目が俺を見つめている。
「…きっとニアだってこんなこと望んでない。メロが出ていったら、ニアも絶対悲しむよ」
 その言葉を聞いて、先ほどまでのこそばゆくも温かい感情は一転して熱を失い、ひび割れたものへと変化していく。ああ、興醒めだ。こいつは、こんな時にもまたニアか。ニアがニアがって、うるさくてかなわない。
「いつ、決めたの?なんで、」
「俺はもう二度とここには戻らない」
 うんざりとした気持ちのまま、はっきりとそれだけを告げ、彼女の言葉を容赦なく遮った。語調は自然と堅く尖ったものとなる。彼女の純粋なる善意も、今だけは俺を馬鹿にしているものとしか思えなかった。
 Lの敵討ちの前に、これは俺がニアに勝つために用意されたゲームなのだ。その「対戦相手」と協力し合うなどもってのほかだ。反吐が出る。
 俺はニアとは違う。キラを捕まえたいがためだけに動いているわけではない。

「待って、メロ!」
 自分を置いて部屋を去ろうとする俺の腕を引っ張り、必死に引きとめようとするの瞳は、既にうっすらと張った涙の膜で草露のように潤んでいた。濡れ羽色の双眸は、俺の中に渦巻く悪意だとかそういった負の感情のすべてを吸い上げてしまいそうで、どうしようもなく眩しかった。
「離せ」
 己が情に流されてしまわぬよう、でき得る限り冷酷な声で低くそう告げると、案の定、の瞳が一瞬怯む。しかし彼女はめげずになおも食い下がってくる。
「ねえ、どうして!?あなたたちが協力すれば、キラだって絶対に捕まえられるんだよ!」



「俺はお前が死ぬほど大嫌いだ。もう二度と顔も見たくない」

 その時が浮かべた表情を、俺は生涯忘れることはないだろう。









「メロ」
 あれから五年の時を経て、二度と会わないと決めた女がいま、俺の目の前に立っている。眩暈がした。どうして。
 メロ、と彼女はもう一度、響きさえ噛みしめるように俺の名前を呼んだ。まるで夢ではないことを、己が手で確かめるように。
 顔を見た瞬間、帰れと一言だけ告げてドアを閉め切ってしまうことだってできたはずだ。けれど、俺にはそれができなかった。指先すら動かせなかった。が、あまりにも美しく成長していたからだ。
 当時、肩につくかどうか程度の長さだった外跳ねの髪は、今はまっすぐと艶やかで、胸元までかかっている。丸く整えられた睫毛は長く伸び、唇には薄く桜色の紅が乗っている。そこにはもう、かつての少女はどこにもおらず、ただ、一人の女に成長した彼女だけが存在していた。
「突然、驚かせてごめんなさい。嫌がられるだろうとは思って悩んだんだけど……どうしても、会いたくて」
 は、ばつが悪そうに目線を泳がせている。ニアがこの場所を教えたのだということに、俺はすぐに思い至った。どこまでも余計なことばかりしてくれる男だ。苛立ちを抑えきれず小さく舌打ちをする。
 もう二度とあのワイミーズハウスには戻らない。そして何よりも、なにがあってもこいつにだけは絶対に会わないと心に誓ったというのに。
「…会いたかった、メロ」
 ひどく情けないことに、俺は不覚にも、この女を追い返すタイミングを、完全に逃してしまっていた。






 暖房の効いていない部屋はひどく肌寒く、空気は乾燥している。埃はそこらじゅうに舞っているし、読み散らかした新聞や膨大な数の資料の束が、床も机もお構いなしに辺りいっぱいに散乱していた。楚々としたいでたちの彼女が立つにはあまりにも不釣り合いな場所だったが、は嫌悪を示すことも、顔を顰めることもせず、興味心のままにきょろきょろと目を動かしていた。
 いくら招かざる客人とはいえ、同じ学び舎で育った旧友である。部屋に通しておいて、何のもてなしもしないのもさすがに気が引けたので、手元にあったチョコレートを荒い手つきで彼女のほうへ放ると、そんな俺の粗野な態度を目にしてなお、は心から嬉しそうに笑って、「ありがとう」と呟いた。艶のある声は、それだけで俺の胸の芯を甘く痺れさせる。
 ベッドに腰掛ける俺に背を向けて、彼女はカーテンの隙間から見える窓の外の景色を眺め出す。そこには、覆い尽くす曇天の雲を突き破らんばかりに高くそびえ立つ高層ビルがひしめいており、その足元ではたくさんの乗り物や人がせわしなく行き来する。窓を閉め切ったこの部屋にも、道路を走る自動車の鳴らすエンジンやクラクションの音が、微かに届いている。三十階から見下ろす地上は、ひどく猥雑だ。
 日中とはいえ、電気もつけずほのかに薄暗い部屋の中で、白い壁、黒いカーテン、その奥に覗く灰色の雲、そして目の前に立つの長く黒い髪。その一角だけは、まるで一枚のモノクロ写真のようだった。
「ニアはメロのこと、すごく心配してた。無関心なように見えて、 意外といろんなことを気にかけてる子なのよ」
 いくつかの当たり障りのない会話を交わしたのち、はそっと指先で鍵盤を押すように、静かにそう言った。その言葉は、彼女を取り巻くモノトーンの空間に音もなく溶け込んでいく。
 俺がいかにニアを毛嫌いしているかを熟知する彼女は、俺の機嫌を極力損ねぬよう言葉に気を遣っているようだったが、その気苦労もむなしく、俺の気分はあの時のように低落し始めた。彼女の口からあの男の名を聞いたことにより湧き上がった怒りは、着実に身体の内側を浸食していく。
 ニアを深く理解しているかのような口ぶりも、ますます俺を苛立たせた。いつの間にそんなにあいつのことに詳しくなったんだよ。お前の理解を得られるのは、ずっと俺だけであるべきだったのに。
 むしゃくしゃする。腸は煮えくりかえり、怒りで身が焦げそうだ。かといって、そんなやり場のない気持ちを吐露することもできない俺は、ただひたすらに、その豪雨のような感情の波に飲まれぬよう、きつく瞑目した。
「どうでもいい」
 苛立ちを押し殺し、吐き捨てるようにそう言うと、はこちらへと振り返って、悲しげな眼差しで俺を見つめた。
「…メロ、変わったね」
 沈んだ表情と同様に、その声音も暗く淀んでいる。俺は黙って彼女を見上げる。
「昔はもっとよく笑ってたし、……そりゃあ仏頂面していることのほうが多かったけど、もっと表情豊かだったというか、たくさん怒ったぶん、たくさん笑っていたわ。……今のあなたの表情、私、見たことないもの」
 だんだんと、俺を憐れむように喋るこいつがひどく滑稽に思えてきた。なんとおめでたい女だろう。的はずれ。本当になにもわかっちゃいないのだ。こいつの物憂い表情や何もかもが、笑いがこみ上げるほど可笑しく感じるのに、それは同時に、俺を惨めな気持ちにさせるものでしかない。
「……なんで来たんだ…」
 膝の上で手を組み、背中を丸めてうなだれて、俺は唸るように言葉を絞り出す。口をついて出たのは、自分で思うよりもずっと痛々しい声だった。息苦しさと悔しみとで、気がおかしくなりそうだ。
「…変わったのはお前のほうだろう」
「え?」
「お前は、嘘吐きだ!!」
 声を張り上げ、テーブルの上に置かれたグラスを思いきり床に叩きつけた。耳をつんざくような破壊音とともに、の足元には真っ赤なワインの海が広がってゆく。散らばったガラスの破片で怪我をしていないかなんて、気遣ってやる余裕もなかった。もっとも、そもそもそんな心配ができる立場でもない。暴力的な感情だけが、嵐のように俺の胸の内に吹き荒れている。
 ずっとメロの傍にいる。そう言って小指を差し出した、あどけないの笑顔が脳裏をよぎり、俺は喉元までせり上がる熱を押し戻そうと、必死に歯を食いしばった。
「…メロ、」
 は健気にも、不安を声に滲ませながら、躊躇いがちに俺の顔を覗き込もうとする。本当に馬鹿な女だ。今が、この部屋から逃げ出す最後のチャンスだったのに。もう、戻れない。
 俺は彼女の細い腕を掴んで、力任せに自分の胸元に引き寄せた。そして、困惑のままに顔をあげた彼女の首にすかさず手をまわして強引に口付ける。
「メ、…なに…っん、」
 言葉を発しようと懸命にもがくを嘲笑うように、俺は無理やりこじ開けた彼女の唇に舌を割り入れる。酸素を求めた彼女の息はどんどんあがってゆく。吐息混じりに発せられる俺の名前を耳に、己を制していた箍は脆くも崩れ去っていく。止め処ない欲望と衝動に身を任せるなか、熱に浮かされたような頭で、ただのことだけを想った。
「いやだ…っ、 め、ろ」
「…っ、黙れ」
 そうして俺は、あの頃とは見違えるように成長したの身体を、容赦なくベッドの上に組み敷いた。







 俺がを凌辱するあいだ、彼女はずっと泣いていた。怯えてろくに声もあげられないのに、それでも掠れた小さな声で、ずっとニアの名前を懸命に呼び続けた。
 幼いころ、握れば必ずそれ以上の力で握り返してくれた手は、力なくベッドの上に投げ出されたまま動かない。それが無性に腹立たしくて、俺はその細い手首をきつく握り、ベッドに強く縫いつける。痛みは十分に感じているはずだ。けれど、その虚ろな瞳に光は灯らない。
 にあ、にあ。
 断続的に繰り返される悲痛な声に吐き気がする。こいつのこんな声、聞いたことなんてなかった。聞きたくなかった。
 日も落ちぬのにカーテンの締め切られた部屋には、の涙交じりの声と、衣擦れの音と、俺の荒い息とだけが、規則的に、密やかに響いていた。肌蹴たブラウスの合間から覗く白い肌が眩しかった。そこに散らばる、目を背けたくなるような無数の赤い痕。俺の付けた印。あまりに痛々しく、鼻の奥が鈍く痛む。だが同時に、彼女が自分のものになったかのような錯覚に、眩暈がするほどの興奮と恍惚を覚えて、俺は泣きそうになる。
 ずっと欲しかったもの。猛烈に焦がれ、触れたかったもの。それが今、俺の腕の中にある。独りよがりな独占欲に自嘲的な思いがこみ上げるも、涙が出るほどの幸福は確かに俺の胸を満たしていった。

「…、」 
 だが、気が遠くなるくらい想っても、名前を呼んでそのなめらかな頬に手をすべらせても、は俺のことを見てはくれない。 




 俺はいつだって一番でありたかった。
 一番のヒーローでいたかった。を守るための、唯一のヒーローでいたかったんだ。

 でも、初めからわかっていたことじゃないか。


 「俺は、いつだって一番にはなれない」。






インモラル・ヒーロー
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