「お腹すいた……」 本日五度目にのぼる空腹の音が鳴り響き、とうとうは頭を抱えた。 今頃、ほかの生徒たちは、大広間で賑やかな歓談を交えながら美味しい朝食を口にしていることだろう。その光景を少しでも想像するだけで、彼女は頭がおかしくなりそうだった。 生徒の一人も見当たらない中庭では、風のなすがままに揺れる若葉が軽やかな音を立てている。けれどそれ以外は、まるですべてがまどろんでいるかのように静かだった。朝食の時間帯ゆえだろうか、これほどまでに人気のない学内の風景を目の当たりにするのは珍しいことだった。 またもや空腹の音が鳴り、彼女は自身の腹部を撫でさすった。もはや気を紛らわしてどうにかなる次元はとうに超えている。ふと視界の隅に映った花すら美味しそうに見えた瞬間、さすがの彼女も自分自身に慄いた。空腹とは、食欲とはこれほどまでに人を狂わせるものなのか、恐ろしすぎる。 「……先輩」 「ひっ」 突然、後ろから聞き慣れた声がした。は肩を強張らせたまま、自分でも驚くくらいの速さで背後を振り返る。そこに立つ黒髪の少年は、の呆け顔を見下ろして一言、「ひどい顔」とだけ呟いて顔を顰めた。と同じスリザリン寮の後輩、レギュラスである。 「失礼ですね、人を化け物みたいに」 そりゃあ化け物扱いしたくもなるだろう。は中庭の隅の小さなベンチに腰かけているが、この場所は、生徒が頻繁に通る外廊下からは見つかりにくい。すぐ傍に立つ背の高い大木の陰に隠れてしまい、死角になりやすいのだ。そのため、生徒のほとんどはこの場所を訪れないし、そもそも認知さえしていない者も少なくない。なのに何故だ。 「おまえよく見つけたな!」 「いや、まあ先輩がよくここに来てるの知ってましたし」 「ば、ばかな!」 ホグワーツに入学して五年、は嫌なことがあるとよく足を運ぶ場所がある。寮の自室、図書館の一番奥にひっそりとある人気のない席、そしてこの中庭だ。試験直前や授業中に失敗をして大恥をかいたとき、友人と喧嘩したときなど、幾度となく一人で訪れては、幾度となくすぐにレギュラスに見つかり捕獲されてきたが、この場所だけは一度も見つかったことがなかったというのに。 「レギュラスこわい…」 「はあ、どうも」 彼はの気などお構いなしに、彼女の隣、三十センチほどあいた位置に腰を下ろすが、丈の低いベンチに腰かけたことで、その長い足を持て余し気味のようだった。は密かに歯噛みする。このモデル体型め。 「朝食を取ってるとき、あなたが大広間を引き返すところを見かけたんですよ」 平坦な口調でそう告げた後、それきり彼は続きを口にしない。しかしは分かっていた。あの場所から立ち去った理由を話すよう、レギュラスが自分に無言の圧力をかけているのだということを。 追求の言葉を浴びせられる代わりに、じっと蛇のような目で見つめられた彼女は、そのままその視線を受け流すこともできず、かといって見つめ返す勇気なども持ち合わせてはいないので、とりあえず苦し紛れに視線を膝へと落とすのだった。 「しょ、食欲なくて」 「……へえ、そうですか」 渋々といった様子で口を開いたの気まずそうな顔を、レギュラスは訝しげな瞳―この目を向けられる時が、彼女は何よりも苦手である―でしばしじっと見つめていたが、やがてようやくその視線を外して、小さなハンカチの包みを取り出した。 「これじゃあ、あまり空腹の足しにはならないかもしれませんけど」 少年―十六歳の彼は、本来そう呼ばれて然るべきなのだろうが、しかし彼の醸し出す雰囲気は、青年と形容するほうがしっくりくるような気もする―のものにしては随分とほっそりとした指先が結び目を解いていく。 レギュラスはとても白くて綺麗な手をしている。それは男性特有の無骨さも持ち合わせながらも、しかし男性のそれよりもずっと綺麗で、時には女性のものよりもずっと美しく見えた。その長い指は、杖を握ることなどせずとも、妖精の粉のようにきらきらした魔法を操れそうだと錯覚してしまうほど、魅力に包まれたもののように思えた。 膝の上で解かれた包みの上には、小さなバターロールが二つばかりちょこんと乗っている。それらの表面に塗られたバターの艶を見、は思わず唾を飲み込んだ。空腹状態の今の彼女にとって、それは抗いがたい誘惑でしかなかった。 「朝食の席に来なかったのがどういう理由かはわかりませんけど…先輩もお腹が空いているんじゃないかと思って、もしよろしければと思ったんですが。でもまあ、必要じゃなかったみたいですし、そういうことなら僕が頂きますね」 「……」 レギュラスは己の膝もとから視線をあげてちらりと横を見やる。彼の手元のパンから目をそらしたまま、表情に忍苦のほどをあらわにし、それでも意地を保とうとする彼女の姿がそこにはあった。 それを見た瞬間、レギュラスは彼女が嘘をついていることや、その嘘をつき通すために必死で空腹を堪えていることを改めてはっきりと確信した。やっぱりな、と胸中で呟き、彼は僅かに肩を竦めた。やれやれ。本当にやれやれだ。 「先輩も毎回懲りないですね。意地を張るのは構いませんけど、あまり無理なことはするものじゃないですよ。すぐにボロが出る、そういうものです」 「……」 叱るというよりも、諭すような穏やかな物言いに、彼女は一気にしおらしくなる。 どちらが先輩かもわからぬような会話もいつものことである。レギュラスはの後輩で、年は彼女より一つ下であったけれど、育ちがよくいつも落ち着き払っていて、あらゆる事をそつなくこなすその言動の冷静さはまさしく「年上と見まごうばかり」と言うほかなかったので、彼のほうが先輩であるとしばしば間違えられるのも無理からぬ話であった。 遠慮なくどうぞ、と言いたげな視線を送るレギュラスに促され、は口を噤んだまま、彼の膝の上に乗せられたバターロールに手を伸ばす。一口大にちぎって頬張ると、舌の上でミルクの甘みと、バターの程よい塩加減が広がる。彼女は口元がほころぶのを抑えきれなかった。 「美味しいですか?」 そう言って、少しだけシニカルに口角を上げるレギュラスは、先ほどまで意地を張っていたが、この瞬間、内心どれだけ喜んでいるかをわかっているのだ。 「うん、……ありがとう」 そう言って、は再び残りのパンにも手を伸ばす。ぼそりと述べた感謝の言葉は、素直にすんなりと口をついて出たものであった。この時ばかりは、彼の意地の悪さを気に留める余裕もないくらいに、はようやくありつけた食べ物の美味しさに感激していた。彼女は昨日から抱え続けている憂鬱のおかげで、昨晩の食事もろくに口にしていなかったのである。「食事時には塩気のあるものに限る」と常日頃から豪語してはいるものの、今の彼女には、甘いパンも救世主のように光りかがやいて見えた。 「それで?」 「どうしたんです」と、今度こそ彼ははっきりと追及の言葉を口にする。 そしてその長い足を組みなおすのと同時に、の顔を覗き込むようにして見た。 すると、はパンを口に運ぶ手を止める。その表情は先ほどよりも和らいではいるものの、やはり俯いたまま沈黙を貫いている。こうなると、こちらがその姿勢を崩そうとしない限りはずっとこのままだということを、レギュラスは理解していた。にはそれだけ意固地なところがあった。 「……セブルス先輩、心配してましたよ」 「えっ」 の肩がぴくりとはねた。 「やっぱりあの人のことだったんですね」 「…あっ!」 やれやれと呆れ顔を作ったものの、真横でぱっと顔をあげた彼女があからさまに「はめられた」と言いたげな顔でこちらを見るので、レギュラスはおかしくなって少しだけ頬を緩ませた。あまりにも予想通りすぎる反応だ。なんとわかりやすい人なのだろう。これでもかというほどに、感情が態度に表れる人なのだ。 「大方そんなことだろうと思っていましたよ」とレギュラスが告げると、はますます不服そうな顔をつくった。 そう、いかにも彼女の憂鬱の原因は、級友であるセブルス・スネイプとの些細な喧嘩であった。 明朗快活でおてんばなと、寡黙かつ感情を滅多にあらわにしない、だが恐ろしいほどに頑固者であるセブルスは、一見反りが合わないように思われるが、入学してからずっとそれなりに親密な間柄を築いてきた仲である。 しかし、いかんせん二人の間には激しい喧嘩が絶えないのであった。実際はそれほど深刻な喧嘩ではないと当人たちは主張するのだが、普段から人と言い争うことなど皆無といってもいいレギュラスの目には、そう映るのである。そして両名と同じくスリザリン寮生であり、さらにいえば一定以上の交友もあるレギュラスが、そんな二人の間で何度とばっちりを食らったかはしれない。 「……セブルスが悪い」 「先輩毎回それ言いますね」 最後の一口を頬張りつつ、唸るように呟くを横目に、レギュラスはハンカチをたたみながら控えめに笑う。その表情はまるで母親のようであり、彼女の言葉を右から左へと受け流しているようにも見えたので、はますます納得のいかない気持ちで不服そうに口をとがらせた。 「だって本当のことだもん!」 「他愛もない喧嘩は早いうちに解決するのが得策だと、僕は思いますけど」 「今は会いたくないの」 「さっきは自分から彼に謝りに行こうとしていたくせに?」 頭上から降りてきたその言葉に、はとうとう口を噤む。いかにも図星だった。一度は大広間に足を運んだのもそのためだ。けれど、いざセブルスの姿を見とめてしまったら、やはり何と声をかければいいのか、どんな顔をして会えばいいのか、わからなくなってしまったのだ。 胸の内を言い当てられた悔しさと気恥ずかしさがないまぜになって、彼女は少しの間黙っていたが、やがて静かにこう呟いた。 「……私ね、たまに、君はテレパスなんじゃないかと思うよ」 そう思わせるほど、レギュラスはの胸の内を握るに巧みであった。けれど、当の本人は彼女の横で、事もなげな顔を浮かべている。 「貴女がわかりやすいだけですよ」 そう言って彼は立ちあがり、膝の上に少しだけこぼれたパンの食べくずを両手ではらった。そして、綺麗に折りたたまれたハンカチをポケットにしまいこむと、そのままの手を引いた。流れるような動作につられ、もまた立ち上がって歩きだす。 「今から戻っても、マッシュポテトくらいは残っているでしょう」 先輩、あれ好きですもんね。そう言って少しだけこちらを振り返るレギュラスの細められた目、光をやわらかく通す黒髪に、胸をきゅうと絞られる。 ふと気がつけば、己の胸に燻っていた意地や鬱憤の一切が吹き飛んでいることに、はようやく気がつくのである。 そうして軽くなった身で彼の背中を追いかけながら、その手を握り返すと、こみ上げる愛おしさが彼女の胸を満たした。彼の表情は、言葉は、温度は、いやな気持ちをいつの間にか静かな波のように、さり気なく攫っていってしまう。そしていつだって、その代わりに心を占めるのは甘く穏やかな気持ちなのだ。彼は既に優秀な魔法使いであったけれど、それと同時に、彼女にとって唯一の特別な「魔法使い」でもあった。 「レギュラス大好き」 握りあう指から、彼の体温がやわらかく染み出してくる。 「知ってます」 slow tempo magic レギュラス自給自足シリーズ第一弾。 (レギュラスがハンカチに包んだパンを持って迎えに来てくれたら泣いちゃう)(130407) |