ファンタスティック・ナーヴ
(月島くんと付き合いたて)




 私が月島くんについて知っていることは数えるほどしかない。バレー部で一番背が高くて、ポジションはミドルブロッカー。成績優秀で女の子に人気があって、そして、好きなものはショートケーキ。これはつい最近、月島くんと仲の良い山口くんに教えてもらったことだ。
 美味しいケーキのお店があるからという私のデートの誘いに、月島くんは表情を崩さぬまま、抑揚のない声で「いいよ」と二つ返事で頷いた。彼は声も、表情も、瞳の動きにさえ変化が滅多に見られない。彼が大口を開けて笑う顔も、それどころか、些細な喜びをあらわにした表情も、私はまったく想像さえできないのだ。
 私は彼の好むものをほとんど知らない。けれど、彼が疎むものはいくつも知っている。それは私が彼を好きになってから今に至るまでの約一年の間に、少しずつ己の身で感じ取ってきたものだ。彼の嫌いなもの。喧噪、人ごみ、人と群れ合うこと――。



「…すごい人だね」
「………う、うん」
 休日、都心部、眼前に広がる人ごみ。やってしまった。今、私は内心非常に焦っている。
 電車に揺られて30分ほどに位置するこの街に、そのケーキショップはあった。店に向かうその道中、具体的に言えば、駅前から徒歩約10分ほどの道のりにおいて、予想外の混雑に遭遇してしまったのだ。この辺りで、何かのイベントでも催されているのだろうか。
 ちらりと彼を見上げて表情を伺うと、その綺麗な顔は顰められ、それはもう見事なほどに嫌悪感丸出しの表情だった。「うわあ…」という声が今にも聞こえてきそうで、私は頭を抱えたくなった。
 月島くんは人ごみが嫌いだ。それを私は十分すぎるほど理解している。だからネット情報を駆使して目的のケーキショップの最も混雑する時間帯を調べあげ、わざわざその時間帯を外して待ち合わせ時間を設定したのだ。けれど、さすがのこの混雑ぶりは想定外だった。
「…ああ、芸能人のイベントか」
 月島くんは人ごみの中のある一点に目をやり、やがて合点のいったようにそう呟いた。
「え?どこかに書いてある?」
「ほら」
 彼が指差した方向を目で追いかけてみるものの、人ごみに遮られ何も見えない。
「み、見えない…」
「小さいもんね、君」
 からかうような声音と共に少しだけ笑みを浮かべる月島くんを見て、私はぎゅうと胸が絞られる。

 月島くんは、とても物静かな人だ。普段から表情に乏しい上に、口数も少ない。放たれる言葉のほとんどは短いものばかりで、それこそその場のひと言ふた言のやりとりで完結してしまうような話題ばかりだ。彼は自分自身のことを全くといっていいほど口にしない。
 彼のことをもっと知りたいと思う。どんなことが好きで、何をしている時に、誰と一緒に居る時に楽しいと感じているのか。知りたいことや訊ねたいことはいくつも頭に浮かぶのに、それでもそれらの疑問を彼にぶつけることはできなかった。「なんで?」とあの冷ややかな声で一蹴されてしまったら、彼に嫌悪感を与えてしまったら。そう思うと、彼にぶつけることができず行き場を失った疑問のこたえを、頭の中で思い浮かべて想像を広げてみることしかできないのだ。
 要するに私は、彼に嫌われることがどうしようもなく怖かった。


「――ちょっと、!」
 頭上から降るいささか上ずった声にはっとして顔を上げれば、眼前には見知らぬ人の背中が迫っていて、ぶつかるすんでのところで月島くんに強く手を引かれた。
「…何やってんの、ぶつかるよ」
 いつもよりも近い距離で、少しだけ焦りの滲む顔が私をじっと見下している。暑い日差しを受けてなお汗ひとつ滲んでいないその顔は、とても涼やかだ。こんなにも至近距離で彼の顔を見るのは初めてで、私は思わず息を詰める。自分の胸に手を当てずとも、鼓動音は低く重く脳裏に鳴り響いていた。
「ごめん!…ちょっとぼーっとしてて」
 先ほどの彼のものよりもずっと上ずった声で返すと、既に彼はいつものように毅然とした表情を取り戻しており、その涼しげな眼を僅かに細めて私を見た。
「ほんと注意力散漫」
 そう言い終わらないうちに、月島くんはふいと前へ向き直って、そのまま歩き出した。
 ああ、やってしまった。どんくさい女と思われてしまっただろうか。彼はとてもスマートな人だから、呆れ返ってしまったかもしれない。
 そこまで考えたところで、彼が先ほどからずっと私の手を握ってくれていることにようやく意識が至った。先ほどは咄嗟のことで気が回らなかったが、今になってようやく、触れる彼の手の感触と、肌越しに伝わる体温が、私の脳を焦げ付かせる。
(私、いま、月島くんと手を繋げてる。)
 嬉しい。どうしようもなく嬉しい。けれど。


 あ、という表情で、月島くんは私のことを見て、そして振りほどかれた自分の手のひらを見た。ほんの一瞬のことだった。
「あ、もう大丈夫だよ。ありがとう」
 私は彼と付き合う上で、細心の注意を払っていることがある。それは、極力彼の嫌がることをしないことだ。
――どんくさいよね、君。
 月島くんはよく、私に向かってそう言った。彼は、私が目の前で転びそうになればその長い腕で支えてくれるし、私が転んでしまえば、筋肉などないようなこのぷよぷよの腕を引っ張り上げてくれるのだ。『よそ見しすぎ』、『バカじゃないの』。そんな憎まれ口を叩きながらも、彼はいつだって私を助けてくれる。けれど同時に、私はきっと彼を度々呆れさせていた。だから、そういう時は少しでも早く彼の機嫌を元に戻したかった。
 だから今も、そう。
 彼の嫌いなもの。喧噪、人ごみ、人と群れ合うこと。ただでさえ―予定外のこととはいえ―こんな喧噪の中に連れてきてしまったのだから、これ以上彼の気持ちを澱ませる要素は取り除いておきたかった。
「あっそう」
 月島くんはそう言って、私によってほどかれた手をそのまま自分のボディバッグにやって、ベルトの位置を調節し始めた。そしてそれきり、何も言わなかった。



 都心部から離れて私たちの最寄駅に着く頃には、すっかり陽も落ちていた。空の橙は、藍に薄く溶かれたような色と化し、足元は既に薄暗かった。休日だからか、辺りには私たちの他に人影はあまり見当たらず、ほとんど彼と私の二人きりのような状態だった。
「じゃ、帰ろうか」
 月島くんが私を横目に見てそう言ったので、私は頷いて、そのまま私の数歩先を歩く彼の背中を追いかけた。
 駅からいくらか歩いて、もうじき彼と私の家の分かれ道に差し掛かろうという頃だった。月島くんがふいに立ち止まり、くるりと振り返って私のほうへと向き直った。先ほどまでは、辺りの薄暗さも手伝って表情を伺いにくかったけれど、面と向き合ってようやく、彼が物言いたげに眉根を寄せているのがわかった。
「あのさ、」
 彼の声音はとても落ち着いているのに、その表情だけがひどくもどかしそうだった。

「何考えてるのかは知らないけど、、僕と付き合ってるって自覚ある?」

「はっ?」
 私は息を吐くように、あるいは口に含んでいた飴玉を舌の上から落としてしまった時のように自然に、ぽろっと、そう零していた。
「えっいや、…ん!?んんん!?」
「…何その反応」
「いや、だって、何で!?」
 『僕と付き合ってる』。彼の発したこの言葉に、私は驚いた。というよりも、月島くん本人がそれを口にしたことが信じられなかったのかもしれない。いや、そりゃあ確かに、私の勘違いでなければ一応付き合っていますよ。付き合って頂いておりますとも。けれど何故、こんなにも突然。
 動揺で目を白黒させる私をよそに、月島くんは静かに溜息をつき、視線を逸らして口を開く。
「近づこうとすれば距離を取られる。顔を覗き込めば目を逸らされる。挙句の果てには手まで振り払われるし。…彼女に毎回こんな態度とられて、気にしないほうがどうかしてるでしょ」

 彼女!!!!!!!!!!!
 月島くんが今、彼女って言った。彼女って言った!?
 私は、自分の顔がたちまち茹蛸のように真っ赤に染まっていくのを感じながらも、もはや焼き切れてしまいそうな思考回路を正常に戻そうと必死に試みる。しかし、そんな私の懸命の努力をよそに、彼はつかつかと私のほうへ歩み寄り、いきなり距離を詰めてくるものだから、私の目尻には涙まで滲んでくる始末だ。勘弁してほしい。
 けれど、私の見間違いでなければ、彼の瞳も一瞬だけ、ひどく寂しげに揺れたように見えた。ほんの少し、ほんの一瞬だけ。それは先ほどまでの涼やかな表情とは別人のようで、私が初めて見るものだった。

、僕の事嫌いなの?」
 その言葉を聞いて、私はようやく気付くのだ。彼のその表情が、傷ついているそれだということに。
「すきっ、好きだよ!」
 間髪入れずに言葉を返すと、気持ちに比例して声は大きくなった。頬の熱はまだ引かない。思わず自分の両手を頬に当てて俯く。一刻も早く、この頬の赤みが収まってくれればいい。そう思いながら私は意を決して、不機嫌そうに、しかしどこか傷ついたような眼でこちらを見据える月島くんを見つめ返し―決して視線を逸らさないように―、慌てて口を開いた。
「す、好きだけど……月島くんってドライだし、前に人と触れ合うの嫌いだって言ってたから、手を繋いだりするのも好きじゃないんだろうなって」
 心臓と脳を激しく揺さぶられながらも、慎重に言葉を選びながら喋れば、声はひどくたどたどしいものとなった。私が次に紡ぐ言葉を思案して口を噤んだのと同時に、月島くんは盛大に溜息をついた。
「…いつそんなこと言ったのさ、僕が」
「い、嫌じゃなかったの?」
「確かに人ごみは嫌いだし、人に触られるのも好きじゃない。でもそれとこれとは別でしょ」
 月島くんは、真正面から私の左手を掴み、強張る私の手のひらを柔くほぐすようにして、その長い指を私の指に絡めて薄く笑った。
「これでもまだ、僕に嫌がられるって思う?」



「ファンタスティック・ナーヴ」
(2013.08.08)
お話のネタは恋ちゃんから頂きました。ありがとう!
良かれと思っていつも距離とり続けて、それにしびれを切らした月島くんに怒られたい。