贔屓目なしに見ても、常に周りから格好良いと評される人だった。私の恋人である月島蛍という人は。
共に同じ高校に通っていた頃から―さらにいえば、まだ彼との交際が始まる前から―、彼が沢山の女子たちの注目の的であることは知っていた。彼より一つ上にあたる私の学年の間でさえ、彼の整った顔立ちと飛び抜けたルックスの良さは噂になっていたほどだ。「進学クラスの月島くん」といえば、校内でも名前が通っているほうだった。
部活を終えてバレー部の皆で帰ろうとしていた時も、彼に声をかけに来た勇気ある女子は何人かいた。また、そんな果敢な猛者たちがいる一方で、本人に直接話しかける勇気のない女子も大勢居たのだと思う。そんな彼女たちから、バレー部のマネージャーというだけで、月島くんについての情報を求められることも少なくなかった。とても可愛らしいラブレターを、彼に渡してほしいと半ば無理やり押し付けられたこともある。
そんなことは全く意に介さぬ当の本人は、自らの外見になどまるで興味がないといった顔をしていたけれど、同世代の男子よりも遥かに高い身長、すらりと長く伸びる手足、整った目鼻立ち、想像をかきたてる物憂げな表情といった彼を形成するパーツの一つ一つが、多くの女子の目を惹きつけてやまなかったのだ。
外見のみではない。彼は大体のことをそつなくこなすことができた。学業成績の良い人間が集められた進学クラスの中でも、その安定した優秀さは抜きん出ていたようだったし、スポーツにおいても恵まれた体格を生かして、バレー以外のスポーツも難なくこなしていた。
そんな彼のネックと言い得る特徴といえば、常に周りとは一線を引いて、何においても熱を注ぐ様子が見られないところだった。中学生の頃から続けているバレーでさえ、「ほどほどに」「楽しく」やれればそれでいい。入部当時、彼は事もなげにそう言っていた。
けれど、それは本当に最初だけのことだった。本人の自覚のほどは定かではないが、彼のバレーに対する姿勢や、他人との接し方は、学年を追うごとに着実に変化していった。
彼は何でもできた。その上、さらに成長しようとしている。
だから、私も努力した。月島くんの隣に並んでも恥じない女の子になりたかった。月島くんの彼女と胸を張って言えるような、誰にも文句を言わせないほどに魅力的な女の子になりたいと思った。私よりもずっと成績優秀な子や、私よりもずっと美人で華奢な女の子たちの心ない陰口が耳に入ることも少なからずあったけれど、それでも絶対に、彼のことを譲るつもりはなかった。
烏野を卒業してからは、煩わしい校則に縛られることもなく、ようやく日常的に化粧やお洒落をできるようになった。特別元がいいわけでもないのだから、せめて努力でカバーしなくてはいけない。
自分に似合う服を着て、自分を一番よく見せるための化粧もわかってきた頃には、周りの人たちからの褒め言葉を貰える回数も、以前よりもずっと増えていった。
少しでも月島くんに見合うようになりたい。ただその気持ちだけが、私を突き動かしていた。
2.
彼と並ぶときに感じる後ろめたさや劣等感が、全てまっさらになったかといえば、それは嘘になる。それでも、昔よりもずっと心軽く傍にいられるようになったことは事実だった。彼と一緒に過ごす時間は本当に、何よりも楽しかった。
出会ってから数年経った今も、相変わらず月島くんは人の多い場所が苦手で、彼と過ごす時間のほとんどは私か彼の家のどちらかになることが多かった。私はどちらかといえば休日になれば外に出かけたがるほうだったけれど、彼と付き合い始めてからは、家で過ごす時間の穏やかさも悪くないものだと思うようになっていた。
けれど先日、珍しく外に連れ出してくれた月島くんは、私が前々から行きたがっていた、混雑必至の人気の美術展に付き合ってくれた。そしてその帰り道に、付き合い始めて一年という記念に私にネックレスを贈ってくれたのだ。
――さんが喜ぶだろうと思って。
目を伏せて、少しだけ顔を背けながらそう呟いた彼を見て、ああ、これだから大好きなのだと改めて実感したばかりだった。
だからこそに違いない。そんな喜ばしい出来事からまだ数日しか経っておらず、きっとひどく浮かれていたからなのだ。大学のサークルの飲み会の席で、一人あっという間に酔っぱらってしまったのは。
友人たちの間では、私が『月島くん』という恋人にべた惚れなことは周知の事実だったので、飲み会の席では、毎度彼の話題を振られることがお決まりのようになっていた。そして、それは今日もまた同じことだった。いつもならば、大勢の前で惚気話をするほど天真爛漫な乙女でもないし、うまくごまかして煙に巻いてしまうことが多かったのだけれど、今日に限っては駄目だった。
「そのネックレス、『月島くん』に貰ったの?」
そんなたった一言だけで、ここ数日の間浮かれ続けていた私はまんまと舞い上がって、普段よりもずっと饒舌になり、そして案の定べろんべろんに酔いつぶれた。
出かける直前、月島くんから電話口であれだけ「気をつけてよ」と念押しされたのに。本当はこんなに飲むつもりじゃなかったんだ。でも、月島くんのことを話しているのが楽しくて、――つまり何度も繰り返すようだが、私はひどく浮かれていた。
「おい、大丈夫?」
左隣に座っていた同学年の男の子が心配そうにこちらを覗き込んでくるが、私の顔を見た瞬間に眉を顰めた。ああ、今の私はさぞかしうつろな目をしているに違いない。
「ありがとう、大丈夫…」
「大丈夫って感じじゃないだろ。誰かに送ってってもらうか?家、この辺だろ?」
「いや、遠いです…」
そう、ここから帰るのならば、自分のアパートよりも、月島くんのマンションのほうが遥かに近いのだ。それに、誰も居ない寂しい自宅に帰るよりも、月島くんの待っている家にお邪魔したい、と思った。
「…月島くんに会いたい…」
気付けば、その言葉は自然に唇から零れていた。それは、普段なら絶対に人前で言わない台詞だった。蚊の鳴くような小さな声だったけれど、口に出してしまえばもう遅い。月島くんの顔が見たくてたまらなくなってしまう。机にゆっくりと突っ伏しながら、恋人の名前を再度繰り返す私は、わざわざ心配してくれていた彼のことをひどく困らせたに違いない。この時の私は、どうしようもなく面倒くさくて扱いにくい女だった。
月島くん。
会いたい。月島くんに、会いたい。
3.
「――」
だから、次に目を開けた時、これは夢じゃないかと思った。
私の目の前に、制服姿のままの月島くんが立っている。照明の落とされたこの空間の中で、彼の身を包む真っ白なシャツはとても眩しかった。普段は第一ボタンまできっちりと留めて着用しているはずの詰襟の上着は、スクールバッグと共に彼の腕の中に抱えられている。
驚いて、嬉しくてわけがわからなくて、たまらず彼の名を呼んだ。アルコールで身体が火照っているからか、声もふやけたものとなってしまう。
「つきしまくん」
うまく呂律が回らない。頭はぼんやりとしていて、何故彼がここにいるのか、さっぱり理由に思い至らない。私、月島くんに電話なんてしたっけ。
目を覚まして早々、みるみるうちに思考回路が鈍くなっていく中で、けれども彼の不機嫌そうなその表情だけははっきりと認識することができた。
あ、月島くん、機嫌悪いかも。
そう感じて、すかさず彼に言葉をかけようと思った瞬間、彼はそれを見破ったかのように、私よりも一瞬早く口を開いた。
「帰るよ」
案の定、機嫌の悪い時に出すような低い声でそう言って、月島くんは椅子の背にひっかけていた私の荷物を手際よく回収し、すぐに私の手を引いた。
「えっ、え?」
意識も危うく、未だ混乱から抜け出せずにいる私の動揺にはお構いなしに、彼はサークルの面々に会釈をするが否や、早足で出口の方向へと歩き出す。
「、お幸せに!」
背後からそんな野次が飛んでくる。私は改めて、自分の目の前にある大きな背中を見上げた。そうだ、月島くんが会いに来てくれた。アルコールで馬鹿みたいにふやけきった私の脳は、その事実の甘さだけを繰り返し反芻する。ただ幸福にだけ身を任せていた。自らの身勝手もだらしなさも、彼の不機嫌の理由を考えることも、その時だけは全て忘れて。
4.
「月島くーん」
そう呟いて、真っ暗な夜空を背負う彼の顔を仰ぎ見れば、大きく涼しげな瞳が私を見下ろした。言わずもがな、月島くんはれっきとした男の子だけれど、その顔立ちは見惚れてしまうほどに綺麗に整っていて、出会ってからもう数年にものぼる付き合いを経てもなお見飽きることがない。男の子のものとは思えないくらいきめの細かい肌や、すっと通った鼻筋、少しだけ色素の薄い双眸、くっきりと幅の広い二重瞼。それらはどれをとっても、文句のつけようのないほどに完璧なものとして私の目に映った。
「どうしてきみは、こうもかっこいいのかなあ」
酔っぱらっていても、いつもと変わらず彼に見惚れてしまう自分に呆れながら、頼りない舌でたどたどしくそう言うと、月島くんは心底理解できないといった顔をする。
「…はあ?お酒で頭沸いたの?」
「うふふふふ」
「……不気味なんだけど」
眉を顰めてそんな憎まれ口を叩きながらも、決して私の身体を支える手は引っ込めたりしない。昔からそうだった。ともすれば嫌がらせと取られかねない辛辣な嫌味を口にしながら、それでも決して私から目を離さずにいてくれるのだ。彼はそういう人だった。
「月島くん」
せり上がる想いを持て余した私は、力を込めて彼の身体にしがみつく。耳には、先刻の彼の呼び声がずっと焼き付いていた。。いつもなら絶対に呼んでくれないはずの呼び方だ。何故、と考えるよりも、先行する喜び。こんなに濁りのない幸せな気持ちは久しぶりだった。
5.
目が逸らせない。
気付いた時には、月島くんの顔がすぐそこにあった。まだドライヤーのかかっていない彼の湿った前髪から雫が伝い落ちて、私が横たわるシーツに音を立てて染みを作る。覆い被さる彼の身体によってつくられた影が、視界に落ちてくる。
私の両手の自由は彼によって奪われているけれど、手首を握るその力は加減された微々たるもので、それが月島くんらしいと思う。彼は言葉こそ棘があるけれど、乱暴なことは絶対にしないのだ。
「人の気も知らないで、そうやって誰にでもへらへらしてさ」
激情を必死に押し殺したような、僅かに上ずった声だ。声は小さいけれど、熱がこもっていることは痛いほど伝わってくる。皺のよった眉間、苦しそうに細められる目。弧を描く口元はわずかながらぎこちなく歪んでいる。いつもは気分が悪かろうが嫌味を言う時だろうが、あんなにも容易く、完璧な笑みを形作るというのに。
こんな月島くん、知らない。
「……さんはあまりにも危機感なさすぎ」
彼はしばしの間黙り込んでいたけれど、やがて私の両手を解放して、ことさら小さな声でそう呟いた。
「え、」
その瞬間、私は思わず再度目を見開いた。まさか、そんな。
ああ、でも。もしかして、それって。
先ほどまで溶け落ちそうにまどろんでいた両目をぱちぱちと瞬かせながら、半ば信じられない気持ちで恐る恐る訊ねた。
「…もしかして、嫉妬、してくれてたってこと?」
そんなわけないだろう、そう思いながらの問いかけだった。だって、相手はこの月島くんだ。大抵のことには無頓着で動じない彼が相手なのだ。現に、今までに束縛をされたことだって一度もない。自分から愛情表現を示すことだって滅多にない彼が、まさか。そう思っていたのに。そのまさかだった。月島くんが、先ほどまでの苦しげな表情を引っ込めて、気まずそうな―まるで母親に叱られると悟った時の子供のような―顔で目線を逸らすものだから、私は思わず、空気も読まずに「ええ!?」と素っ頓狂な声をあげてしまう。いつもならば「うるさいよ」と冷ややかな声が飛んでくるはずなのに、それでも今の彼は何も言わず、ただ伏し目がちに押し黙ったままだ。
ああ、どうしよう。彼が私に対して怒っていることも、私が彼を苦しめていたこともわかった。けれど、それでも。
「月島くん!!」
「!? なっ…、」
とうとう私は込み上げる感情を抑えきれず、勢いよく身を起こし、その広い背中に両手を回した。バランスを崩しそうになった月島くんが上げた不意の声すらも、私にとっては愛おしくてたまらなかった。なんて可愛いんだろう。大切な、私の一番好きな人。
「心配かけてごめんなさい。ちゃんと反省もしてます。でもやっぱり我慢できない。月島くん好き、ほんとに大好き」
「……、なに、それ。そうやって言ってれば、僕を丸め込めるとでも思ってるわけ?」
「違うよ!」
至近距離で、しかも強い語調で即答する私を前にして、逆に彼が言葉に詰まってしまったようだった。少しばかりの沈黙のあと、月島くんは眉を八の字に下げて瞑目し、長い溜息をつく。これは彼が気が抜けた時だとか、困った時に見せる顔で、この表情を浮かべる時にはもう既に、怒りはほとんど収まっているのだということを、私は前々から知っている。
「…僕、言ったよね。飲みすぎるなって」
「うん」
「さん、うんって言ったでしょ」
「…うん。ごめんなさい」
そうだ。酔いの醒めきった頭でよく考えてみれば、つい先ほど、部活帰りの疲れた身で、制服姿のまま私を迎えに来てくれた月島くんの心情に思い至る。
周りが皆半袖に身を包んでいる中でも、ただ一人詰襟を着こなしているような彼が、先ほどはその上着を脱いでしまっていた。肩をかすかに上下させ、色の白い頬はわずかばかり赤く上気していた。きっと、この蒸し暑さの残る夜道を急いで駆け付けてくれたのだろう。
それに、彼はうるさい場所が心底苦手なはずだし、あまつさえ煙草の匂いで溢れた空間に足を踏み入れるなど本来ならば考えられないことだった。すべて、私のためだ。
途端に、胸が絞られたように痛み出す。酒で理性が飛んでいたとはいえども、あの帰り道に一人幸せに浮かされていた己の身勝手さを振り返ると、自責と羞恥の思いに駆られ涙が滲みそうになったが、歯を食いしばって必死に堪えた。ここで泣くのは、あまりにも卑怯だ。
「月島くん、ごめんね。私浮かれてたの。友達に月島くんのこと喋ってたら、ほんとに舞い上がっちゃって…。でももう、ちゃんと気を付ける。月島くんに迷惑かけないし、嫌な思いもさせない。約束する」
彼の中にある私への疑いを少しでも拭いたくて、私はその大きな目を真っ直ぐに見据え、きっぱりとした語調でそう告げた。それでも、絶対に嫌味のひとつふたつは飛び出すだろう。そう覚悟を決めて待っていた。けれど私の予想に反して、彼はただ、黙って口を真一文字に結び、その表情を隠すように、私の首元に顔を埋めてくるのみだった。
「…あんまり心配かけないでよ」
耳元で小さく呟かれたその言葉が、いつもの皮肉屋な彼とは程遠い弱々しさで、私はたまらなく愛おしくなってしまって、再び彼の大きな背中に腕を回した。

(2013.10.18)