「やっぱり居た」
 すぐ目先にある校舎の角からひょっこりと覗いた顔を見て、私はこの後に自分の胸がひどく抉られることを一瞬で察し取った。
 校舎裏に位置する裏門の近く、しかも時刻はもう七時を回っている。部活動を終えた生徒たちも既に帰路についている頃だ。薄暗いうえに人気も少ないこんな場所にまで現れるこの男の意地の悪さは、とことん底抜けのようだ。なんとまあご苦労なことで。それでも、この時ばかりは大げさに呆れ顔を作ってやる気力さえなかった。
「げーんき?」
「うるさい二口」
 百八十センチを優に超える大男が私を見下ろしている。至近距離で、花壇に座ったままその顔を見上げるには、首の負担があまりに大きかった。
「あれ、予想以上に落ち込んでんな」
「……何しにきたの」
「ん?ちゃんがヘコんでんだろうなーと思って」
 語尾にハートマークが三つほど並びそうなくらいに軽やかな声で、普段は決して使わないおちゃらけた呼び名を口にする。その爽やかな笑顔は、台詞の意地の悪さと全くそぐわず、ひどくちぐはぐだ。こいつには良心というものが備わっていないのだろうか。一年生の頃から同じクラスでそれなりに関わりあってきたものの、私は今に至るまで、二口の心からの親切や優しさを受けたことは一度もない気がする。
「…見てたの?」
「見てたっつーか、あんな部室棟の近くで喋ってたらそりゃ見えるだろ」
 サッカー部のグラウンド、ウチの部室の目の前だし。肩を竦めながらそんなことを言うので、私は恥ずかしさとみっともなさで消えてしまいたかった。よりにもよって、あんなにみじめな姿をこいつに見られてしまうなんて。
 内心、早く帰ってくれとひたすら念じていた私の願いもむなしく、二口は重そうな部活のエナメルバッグを地面に下ろす。まさか、ここに居座るつもりだろうか。一応、不快を露わに苦々しく睨みつけてみたものの、案の定二口は私の隣に遠慮なく腰かけた。高さのない花壇と、彼の持て余された長い足や丸められた大きな上体は、ひどくアンバランスに思えた。
「だからあれだけ言ったじゃん俺」
「……二口には関係ない」
 その言葉の冷たさと重みを理解した上で口を開けば、自分でも驚くほどに冷えきった声音となった。いつもならば、そんな突き放すような言葉をかけることはない。しかし今回はさすがに別だ。土砂降りのように荒れきった精神状態の今、扱いの至極面倒なこの男を相手にできるだけの心の余裕を、私は持ち合わせていなかった。それでも彼は私の隣で、そのよく回る舌を動かし続ける。
「相手はあんだけモテ男くんじゃん。しかもサッカー部のエースだし。そりゃお前じゃ厳しいわ」
「……」
「てかもう既に彼女とかいるんじゃねえの?俺、あの人が女子と帰ってんの見たことある」
「…二口、」
 明確な非難と拒絶の意を込めて彼の名前を呼ぶ。それでも二口の憎まれ口は止まることを知らず、私への辛辣な嫌味を次々と吐き出していった。可愛くないだとか、釣り合わないだとか。ただでさえすり減りきっていた心に、それら一つ一つが容赦なく突き刺さっていく。もううんざりだ。

「…もうやめてよ!」
 今までにも幾度となく彼に苛立たされてはきたが、面と向かって本気で声を荒げたのは初めてのことだった。二口の大きな瞳がより一層開かれるのが見て取れる。それでも、一度切れた堪忍袋の緒は、そう簡単に元には戻らないものである。
「わかってるよそんなの!先輩に振り向いてもらえないことくらい知ってるよ!だからもういいじゃん。どうせあんたの言うように、ブスなんだから、…誰にも好いてもらえないんだから、せめて片想いくらい好きにさせてよ!」
 胸の内を捲し立てるように吐露すると、堪え続けてきた感情が一瞬のうちに溢れ出し、涙が堰を切ったようにぼろぼろと流れ落ちていく。涙を拭う手も追いつかないため、私の視界はぼんやりと靄がかっている。表面張力のようにぎりぎりを保っていた私の理性は、あふれんばかりの負の感情によって、砂の城のように一瞬で崩れ去ってしまった。
「もういい加減にしてよ、いつもいつも、二口ってなんなの?こんな時くらい、少しぐらい優しくしてくれたっていいじゃない。それとも、落ち込んでる人間の傷を抉るのって、あんたにとってはそんなに楽しいことなの?」
 身体中を満たすありったけの憤りを込めて声を張ろうとしたものの、零れ落ちる言葉たちはすぐに涙と震えにのまれ、弱々しいものと化してしまう。二口への怒りと、失恋の悲しみや情けなさがない交ぜになって、この上なく最低な気分だ。

「……あのさあ」
 沸騰しきった脳の熱も冷めやらぬまま俯いていると、しばらくの間ひたすら押し黙っていた二口が、やがて静かに声を発した。先刻までの腹立たしいほどの明るさとは違い、硬く冷静な語調だった。
 逆上されるだろうか、あるいは意にも介さずか。次に続く彼の反応が検討もつかず、私は「もうどうにでもなれ」と思考を投げる。ここまでくればもうヤケだ。そう思っていたのに、次の瞬間に告げられたのは、あまりにも予想外の答えだった。

「優しくしたら、俺のこと好きになってくれんの?」

 その言葉は、人気のない暗闇の中にはっきりと浮かび上がった。
 動揺が私の脳内を一瞬で駆け巡り、考えるよりも先にはっと顔を上げてしまう。しまった、と思った時には既に、鋭い瞳がまっすぐに私を射抜いた。
「なあ」
 入学して間もない頃からのクラスメイトだった。大抵が口喧嘩であったとはいえ、毎日のように会話を交わしてきた。それでも一度も目にしたことのない、私の知らない表情が目の前にある。
「…っ」
「っ、おい!」
 一瞬だった。弾かれたようにその場から逃げ出そうとする私の手を、二口が間一髪で素早く掴む。彼の目は、私のつま先が動き出すその瞬間を見逃さなかったのだ。
「待てよ、逃げんなって頼むから!」
 あっけなく逃亡の機を奪われた挙句、私を逃がすまいとばかりに先ほどよりも近い距離に引き寄せられる。全力でもがくものの、身体も大きく力も強い相手からは逃れることができなかった。
 これ以上騒ぎ立てれば、それこそ恥ずかしくて居てもたってもいられなくなるだろう。やがて抵抗することを諦めた私の様子を見、二口は安堵したように息をついてから口を開いた。
「……悪かったよ。さっきのはさすがに言い過ぎた。……言っとくけど、別に本気で思ってねえから」
 最後に小さく付け加えられた言葉に、私はまず驚いてしまう。あの暴言の数々が彼の本音ではないなんて、考えもしなかった。思ってもいないなら最初から言うなよ、と追及してやりたかったが、二口の強張った表情からひしひしと伝わる必死さを前に、そんな返事は喉の奥に引っ込んでしまった。
「…俺だって、好きな奴の泣き顔なんか、すき好んで見てるわけじゃねーよ。…でも今は正直、思う存分泣いてさっさと他の奴のことなんか忘れろって思ってる」
 普段とは比べものにならないほどに小さく弱々しい声で一気にそう言って、二口は俯いた。先ほどまでこちらに向けられていた栗色の双眸は、短く切られた前髪に隠されてしまう。
「…ふ、二口」
「……なに」
「わ、私のこと好きなの……?」
 私は、恐る恐る、未だ信じがたい仮説を確かめようと試みる。勘違いや聞き間違いであればひどく恥ずかしい。それでもやはり、この男が自分に好意を持っているなど、到底信じられなかった。だってあの意地悪で嫌味な二口だ。私を可愛くないと散々こき下ろしてきた男だ。
 それなのに、目の前の彼の頬が、暗闇でもわかるほどに赤く染まり出すものだから、私はとうとう何も言えなくなってしまった。
「……うるせーな、悪いかよ」
 ついに羞恥心に耐えきれなくなったのか、二口はとうとう片手で顔を覆い、大きく顔を背けた。間近で見るその手のひらや長く伸びる指は、私のものより一回りも二回りも大きく骨ばっている。私は、彼がこちらを見ていないのをいいことに、熱に浮かされたような心持ちのまま、その指先をぼうっと見つめていた。
 すると、ふっとその顔が上げられ、大きな瞳が再び私を捉える。
「お前さ、さっき誰にも好かれないとか言ったよな」
「そ、れが、なに」
 私はすっかり緊張に身を囚われてしまい、絞り出す声もかすれたものだった。喉の奥がきゅっと締まって、呼吸さえままならなくなってしまいそうだ。
「そうじゃないって証明してやるって言ったらどうする?」
 少しばかり赤さの残る頬はそのままに、それでも熱を含んだ目で射るように私を見る二口は、私の知る彼とはまるで別人のようだった。今すぐにでもその視線から逃げ出したいのに、指先さえも動かない。

 聴いたことのない、柔らかい声が私の名前を呼ぶ。大きな手のひらが私の腕を掴む。
 もう、逃げられない。



「君の名前を逃げ水に浚う」
(2014.03.22)