End of the world



他のキャラクターの死の表現があります。
全体的に鬱屈としています。うっすらメリバかもしれません。









 この街は、眩い白が溢れている。

 海岸からほど近い広場で催される市場では、早朝にも関わらず活気づいた声が飛び交う。フルーツや野菜などが放つ彩やかな原色は、この街の白壁に慣れきった目を毎度刺激した。
 ハワードは、通りにひしめく大きな呼び声の間を縫い、目当ての店でいくつかの食料品を買い込んでいった。抱えた紙袋の中で、彼女がとりわけ好む固焼きのパンがほんのりと熱を持っていた。
 通りを抜けようと真っ直ぐに闊歩すれば、見知った店の主たちが次々に彼に声をかけてくる。特に顔馴染みの肉屋の主人と、少しばかりの談笑を交えながら彼は思う。この街の住人達はみな、余所から来た者にも気さくであった。

 ハワードは、店主らから受け取った果物やらパンやらを入れた紙袋を抱えて、朝陽を受けた白い石畳の道を歩いている。彼の家はこの街の高台にあり、その道中には急な坂道が続く。足裏に硬い石の感触を感じながら少しばかり登れば、青年の身体とはいえ息が上がるほどだった。
 コツコツと響く己の足音を聴きながら、ハワードは今一度足を止め、坂の上にそびえる自分たちの住まいを仰いだ。住み始めてもう三ヶ月になるものの、この街の坂の多さには未だ慣れることを知らない。自分たちの家はまだいいほうで、さらに高い位置にも民家は多くあった。それでも本当は、彼女のためにも、より低い土地に家を持ちたかった。しかし、この街に移り住むにあたり、暮らすことが可能な土地は限られており、やむなく今の家に住まうはこびとなったのである。それでも、彼はそれなりにこの家を気に入っていた。

 この街の生活は穏やかだ。時間や空気のすべてが、ゆっくりと流れているように感じられた。今まで一切の無駄を省くよう教え込まれ、日々急き立てられるように懸命に生きてきた彼にとって、この安寧の暮らしはあまりに馴染みないものだった。彼の生まれ故郷であるドイツも、北部ゆえの厳格な土地柄であったため、この街の朗らかな文化に慣れることには相当の時間を要した。

 そんな彼が、ともすれば自身の性格と正反対ともいえるような文化を持つ、この地中海の小さな島に居を構えたことには理由がある。それは、彼の恋人であるの願いゆえだった。ハワードは、自分とこの街で暮らしたいと度々言っていたの笑顔を脳裏に呼び起こす。
 彼女は、以前任務で赴いた、このエーゲ海を望む街をいたく気に入っていた。この地に身を置くことは、彼女の積年の願いだったのだ。また、彼女は同時に、常日頃からひどく窮屈な顔をしたハワードの心を解きほぐすためにという願いも込めて、温暖で光の溢れるこの街を選んだのだった。
 ハワードは今一度、自身の歩いてきた坂道を振り返る。眼下には真っ青な海と白に彩られた家々がそびえている。

 彼の日常を占めるのは、すべてを塗りつぶすような白と、目も眩むほどの青だった。













 が目を覚ますと、そこは瞳を刺すような白の世界だった。
「…、さん!!」
 弾かれたように発せられた上ずり声が、目を覚ましたばかりの彼女の鼓膜と脳を容赦なく刺激する。それは、彼女の白ずむ意識をじわじわと揺り起こしていった。
――ハワード。
 金色の前髪から覗く切れ長の瞳は、の知る普段の彼のものとは思えぬほどに大きく見開かれ、感情の揺れを色濃く映していた。
 駆け寄ってくる彼に言葉を返そうと口を開くものの、喉から出るのは言葉とも言えないような呻き声だけだった。まるで、声の出し方を忘れてしまったかのように。はたまらず恐ろしくなり、四肢を動かさんと試みるが、脳神経が指先に微かに震えを伝えるのみで、彼に手を伸ばすなどもってのほかだった。視界に映る自身の腕の大部分には包帯が巻かれ、僅かに露出した肌には点滴が繋がれていた。身に覚えのないその環境は、未だ状況理解が追いつかぬままの彼女の不安を一層強めた。
 そんなの動揺を察しとったのであろう、ハワードは彼女の力ない手のひらに、自身の両手をそっと重ねて微笑む。
「…良かった。さん、本当に……良かった」
 ひどく震える彼の声や、歪められたその表情を、はただぼうっとした頭のまま見つめていた。白く塗りつぶされた部屋の中で、自分とハワードの二人だけが存在すること以外に、彼女には何ひとつ現実を把握するための欠片が与えられていなかった。
 何もわからない。思い出せない。
 この瞬間の彼女の意識は、まるで生まれたての赤子同然ともいえるものだった。エクソシストという自らの肩書きも捨て、だだ広い海原の中でひとり浮遊しているような心持ちであった。
――ハワード。
――ここはどこ?
――私たち、どうしてここにいるの?
 心もとない不安を抱えながら、は瞳で訴えかける。言葉にできなくとも、彼ならば機微に汲み取ってくれるだろうと信じていた。
「…さん」
 彼女の思いがどれほど伝わったのかは定かではない。だが、先ほどよりも確実に、芯の強さを感じさせる声音で、ハワードはの名を呼んだ。重ねられた彼の両手が、僅かながら硬く強張っていることに彼女は気付いた。そこに込められた力から、ハワードが何か大切なことを伝えようとしていることは容易に読み取れた。
さん」
 再び、静かにその名を呼び、やがて彼はこう言った。

「戦争は終わりました」














 コバルトブルーの砂粒が詰まった砂時計。いつかの任務地のギリシャの諸島で手に入れたというそれは、のお気に入りだった。教団内の彼女の部屋を訪ねれば、いつだって、小さなテーブルの上にその砂時計は鎮座していた。エクソシストという立場上、多くの国の土地を踏んできた彼女であったが、中でも特にその街を気に入っているようだった。いつかあの地に住まうという彼女の淡い夢は、ハワードが、その耳にたこができるほど聞かされていたものだった。
 彼女は、その街に溢れる幾多の白壁と、そこから見下ろしたエーゲ海の美しさが忘れられないのだという。彼女の持つ砂時計――白木で出来た外枠と、ガラスの中の真っ青な砂。この色彩のコントラストを眺めていると、あの情景を思い出すことが出来るのだと言っては笑った。
 彼女が焦がれるギリシャの地を、ハワードは己の眼で見たことがなかった。そのため、彼女の熱情とも呼べるほどのその想いが、いまひとつ理解できなかった。写真などで目にしたことはあるものの、正直なところ、それほど熱を上げるに相応しい美しさがあるようには思えなかった。
「そんなに魅力的な場所なのですか」
 決して否定をするでもなく、穏やかな口調を心掛けたつもりではあったが、彼女には全て見通されているようだった。少しだけ困ったような顔で、は笑みを浮かべた。
「ハワードも、その目で見ればきっとわかるわ」
「……その街を?」
「そうよ」

(「あの白は、すべてを許されていると思える」)














 真っ白な壁と、壁一面を切り取ったように嵌め込まれた大きなガラス窓のある家。それもまた、彼女が望んだものだった。
 壁も家具もすべて白で統一された部屋の外、ガラス窓の向こうには、青々とした海が広がっている。は、いつでも海を展望できる住まいを望んだ。薄暗く、陽の光も閉ざされた教団の中に身を置いていた二人にとって、これほど光に満ち溢れた生活は久しいものだった。
 鮮やかな色のコントラスト。彼女が望んだ夢の欠片に包まれた空間で、二人は朝食を取っている。
「肉屋のご主人が、ベーコンをサービスしてくれました」
 ハワードはそう言いながら、作りたてのベーコンエッグと薄く切ったパンを皿に乗せて、に差し出した。傍らには、つい先刻手に入れたオレンジで出来た、彼の手製のジャムが置いてある。ハワードは料理に長けており、日々の食事の支度はもっぱら彼の仕事だった。
「この街の食べ物って美味しいわ。フルーツも、野菜も、お魚も全部」
「ええ、とても」
 常温に晒され、柔らかくなったバターにナイフを入れながら、ハワードは静かに応える。それは彼自身も常日頃、心から感じていることだった。健全な生活を営むこと。健全な食事を楽しむこと。この街は、なんて眩いのだろう。
「こんなに美味しいごはん、リナリーたちにも早く食べてもらいたいな」
 アレンなんか、あっという間にたいらげちゃうだろうね。ここに住みたいなんて言い出すかも。おかしそうに目を細めたは、微笑みを浮かべながら視線を上げる。ハワードは、そんな彼女の視線を追うようにして、カウンターの上の写真立ての中で笑う、かつての戦友たちを眺めた。
「会いたいなあ」
 リナリー・リーが人一倍そうだったように、も同様に教団を心から愛していた。食事時、あるいは読書の合間、眠る前のひと時。彼女は幾度も、その写真を愛おしそうに眺めるのだ。
 私の足の怪我が治ったら、すぐにみんなのところに会いに行けるかな。それは毎日繰り返される、彼女の無邪気な問いかけだった。今のの足には、最後の戦いで受けた大きな傷が残っていた。車椅子に乗せられた自身の両足に視線を落とす彼女に対して、ハワードは惜しみない笑顔で応える。ええ、勿論。治ったら、すぐに会えますよ。
 窓の外ではカモメの鳴き声が止まない。海と潮風の音。ハワードは目を閉じる。ここは、時間という概念が失われたような街だ。













「彼女の足はもう治らないでしょう」
 駆け付けた病室で静かに告げられたその言葉は、ハワードの心を打ち砕くに十分すぎるほどの威力を持っていた。固く組んだ指先は震えだし、瞳の焦点はぼんやりと失われていく。縋りつく思いで医師を仰ぎ見れば、沈痛な紺碧の瞳と視線がかち合った。老齢で皺の刻まれた顔に輝くその双眸は、まるで岸壁に埋め込まれた宝石の原石のようだった。
「……一生、ですか」
 絞り出した声は情けないほどに掠れた。気の毒に感じたのであろう、医師の目に宿る悲哀の色がより濃くなった。
「…あと少しで、切断もやむを得ない状態でした。こうして、四肢が残っていることさえ奇跡といってもいいくらいだ」
「でも、」
 もう、彼女と一緒に歩けないだなんて。
 唇から零れ落ちた言葉は瞬時に涙に埋もれ、ハワードは一瞬で後悔の念にのまれた。言葉にしてはいけなかった。信じたくなどなかった。口にすれば、それはより現実味を帯びて彼の身に重くのしかかった。椅子の上で背を丸め、組んだ両手に額を押し付ける。強く噛みしめた口元から漏れ出す息は小刻みに震えていた。彼の全身を、脳を、心を、ただ途方もない絶望だけが満たした。頭がうまく回らない。意識の濁流に身を任せ、このまま消滅してしまいたいと願った。
「……彼女と、どこか静かな街で暮らしなさい。」
 それでも、頭上から降りかかる医師の沈痛な声が、ハワードの逃避を許すことなく、彼の意識を残酷なほど現実に繋ぎとめた。



 現実。


 ルベリエ長官が死んだ。
 アレン・ウォーカーが死んだ。
 教団や中央庁から遠く離れた土地でひとり、戦争の勝利を告げられると引き換えに、ハワードは己の核であった人物の死を知った。
 彼らのみではない。リナリー・リーや神田ユウ、ブックマンJr.――エクソシストや鴉、中央庁の人間のほとんどが死んだ。狭隘な環境下で生きてきた彼の小さな世界の中で、残されたのは彼ただ一人であった。
 彼女についての知らせを受けたのは、それから一週間後のことだった。遠く離れた国で同じく戦いに身を置き、生死不明であった彼女が、奇跡的にも一命を取り留めていたという。今まで己を縛り上げていた立場から、半ば放り出されるように解き放たれ、最早守るべきものも失うものも無くしたハワードは、誰の許可も得ることなく、何の迷いもなく、彼女のいる国へ向かうチケットを取ったのだ。


 ハワードは再びのろりと顔を上げ、目を刺すような白いシーツに横たわるを見下ろした。露出する肌の大部分を覆う包帯の痛々しさが、彼女の受けた損傷の凄惨さを物語っていた。酷いありさまだ。それでも、彼がここに到着する前よりは、遥かに病状が安定したのだという。

(私たちは生きている)

 ハワードとは、確かにここに生きていた。この先も生きていかねばならなかった。その事実は、今の彼にとってひどく現実味を欠いたことのように思えた。まるで縁遠い国における他人事のように。
 長い間、戦争という茫漠たる大きな渦に、この身の全てを捧げて生きてきた。それでも、それが自分たちにもたらすものは何一つなかったのだと、ハワードは痛感する。数千年にも及ぶ長い戦争が終わり、その腕から解放された彼の手元に残されたものは、皆無に等しかった。彼は、積年の過酷な環境によって、自分の生きる道を考える術をとうに奪われていた。

 これは、神が与えた罰なのか。
 忠義を誓った人間を、同胞たちを救えなかった、自分達だけが生き残ったことへの罰だというのか。
 命を賭した戦いから解放された喜びの味は、どこまでも空虚で無味なものだった。













 現実。

 逆行性健忘症。それが、追い打ちをかけるように通告された彼女の病名だった。
 目を覚ました時、は最後の戦いの記憶をすべて失っていた。つい先日まで、教団から離れた異邦の地で、自らがアクマとの戦いに身を賭していたことも。ゴーレムから日に日に告げられる仲間の死も。彼女は何ひとつ覚えていなかった。

「アレンやリナリーたちはどこ?」
 意識を取り戻し、やがてハワードと会話ができる状態までに回復したは、何の疑いもなくハワードにそう訊ねた。
 彼女に残された最後の記憶は、半年前まで遡るものだった。その後に蓄積された思い出はすべて失われていたのだ。記憶障害――すなわち記憶の逆行だ。
 今の彼女は、彼らの死を「知らない」。彼女の愛した世界が変わり果てたことを「知らない」。

「――彼らは今、ここから遠く離れた地にいます。今の私達がいるこの国からは、ずっと遠い国です」
 彼女の瞳が不安げに揺れるのを、ハワードは見逃さなかった。目を細め、自分に成し得る限りの柔い笑みをつくる。何も心配することなど無いと言うように。彼は、彼女を少しでも安心させる術を求めていた。
「戦争の直後で、彼らはみな母国の復興に追われています。世界がもう少し元に戻ったら……さんの身体が良くなったら、じきに会いに行きましょう」
 ハワードが喋っているその間、は口を真一文字に結んだまま、じっと彼の瞳を見つめていた。ハワードは、己の全身に緊張が巡ってゆく感覚を感じながらも、その焦燥を懸命にひた隠す。彼女のあどけない双眸が、今だけはまるで蛇のように思えてしまい、ひどくぞっとした。
 本当は、怖くてたまらなかった。自分は、うまく笑えているだろうか。うまく隠しきれているだろうか。彼女に悟らせてはいけない、そんな確固たる使命感だけが彼を突き動かしている。
「そう……まだ、会えないのね」
 息をひそめるようにして、彼女の反応を窺っていたハワードの不安をよそに、は素直に彼の言葉を受け入れている様子だった。
 長い年月を共に過ごした戦友にもかかわらず、彼らは何故一度さえも顔を見せに来ないのか。何にも代えがたいほどの愛を教団の仲間に注いでいた彼らが、何故ひと言の会話を交わすこともなく、母国に帰ってしまったのか。そんな疑問を、は一切口にしない。彼女は何も疑わず、ただひたすらに信じているのだ。
 彼女のビー玉のように澄んだ瞳が、まっすぐにハワードを見つめた。
「……夢を見てるみたい」
 うわごとのように彼女は口を開く。けれどその瞳はひたむきな光を秘めていた。
「何故?」
「だって、もう、戦争のことを考えずに生きていけるなんて」
 どうしたらいいのか、わからない。
 それはまるで、初めて見る雪原を前に、恐る恐る足を踏み出すかのような喜びと不安。その対極の感情に揺れる瞳を見つめ、ハワードは瞑目した。そして強く思う。世界から取り残された彼女を、守りたい。

「――退院したら、私と共に暮らしてくれませんか」
 声の震えを抑えられなかった。それでも、そう告げたハワードの顔は、今まで彼女に向けられてきたどの表情よりも柔らかい。
「…ハワードと」
 未だぼんやりとした様子の彼女の手を握り、ハワードは頷く。
「……そうです、私と。さんと私とです。二人で、静かな土地で暮らしませんか。さんの好きなあの街で、共に」
 彼の脳裏には、いつか写真でしか見たことのない風景が広がっていた。彼女の愛した街。白に許された街、エーゲ海の島へ。
「――ああ、」
 彼女が静かに目を閉じる。
「終わったのね。本当に」














 朝食で使った食器類を洗い終えたハワードは、ふと、窓辺に座るに視線を向けた。少しばかり開いた窓から吹き抜ける潮風が、彼女の栗色の髪を柔く揺らしている。
 ここには、の望むすべてがあった。彼女は、自身がかつて望んだ白と青の世界に生きていた。それでも、本当に望むものに触れることは、もう二度と叶わない。

さん」

 車椅子に腰かけたは、膝元に乗せられた分厚い本から視線を外し、ハワードのほうに顔を傾けた。窓辺の光を通すその髪を揺らし、彼女は陽だまりのように笑う。なあに、と応える甘い声が耳に届く。彼にとって、この光景のほかに望むものは何一つ無い。この世界で、彼女だけが生きる意味だった。彼の意識にあるのは、戦争によって失われた時間を、彼女と共に取り戻すことだけだった。皮肉にも、この時間という概念が死んだような街の中で。


「愛しています」

 失われた世界の中で、彼女だけがすべてだった。





「End of the world」
ぼんやりと、サントリーニ島をイメージして書きました。
(2014.04.08 むぎこさんへ)