国見にとって苦手なものは幾つもあるが、煩さはその中でも最たるものに分類される。それがまさしく今日この日だった。
 入学したてで高揚していた気分が落ち着き、地獄のような真夏を乗り越え、ようやく高校生活も穏やかに過ごせるようになった頃、高校生活最初の文化祭がやってきた。普段は無機質に見える廊下や壁には、生徒たちの手によって鮮やかな装飾が施され、学校全体がどこか非日常的な空間と化している。生徒たちは、この日のために貯め込んでいたエネルギーを放出させるが如く、校内の至る所で大声を飛ばしていた。どのクラスもどの部活も、自分たちが準備してきた努力の集大成を見て貰わんと、出し物の集客に余念がない。

 同級生のみならず、ともすれば受験を控えた三年生までもがみな浮き足立つこのイベントに、国見はさしたる興味を見いだせなかった。強いて言うのなら、チョコバナナやりんご飴など、祭りの出店でしか見かけないようなものが食べられることが楽しみなくらいだ。
 周りに比べて文化祭にあまり熱を上げていない国見が、その微々たる気力を費やしたのは、クラスではなくバレー部の出し物のほうだった。中学時代から体育会の文化に揉まれてきた国見にとって、大抵の場面において部活を優先してしまうのは、もはや体に染みついた性といえるものだ。
 青葉城西高校バレー部の伝統として受け継がれている恒例の出し物は、教室内でも使えるホットプレートを用いたクレープ屋という至って簡易的なものだが、三年の及川の存在もあり、客足には事欠くことが無かった。国見はそんな人気者の先輩の隣で、とりわけ人の多くなる昼時に当番を任ぜられたことを恨みながらてきぱきと業務をこなしていた。
「おつかれ!」
「…ん」
 やがて担当交代の時刻となり、国見がエプロンを畳んで荷物をまとめていると、同じくこの時間帯の当番を課せられていたマネージャーのが傍に寄ってきた。彼女と共に教室を出ると、廊下だけでなく窓の外からも賑やかな音が飛び込んでくる。どうやら中庭で吹奏楽部の演奏が行われているらしい。その誰しも耳にしたことのあるメジャーな曲を聴きながら、この後の時間の過ごし方に考えを巡らす国見の顔を、隣に並ぶが覗き込んだ。

「国見ちゃん、この後どうする?予定ないなら、一緒に他のクラスの模擬店まわろうよ」

 は、中学時代から国見の名をちゃん付けで呼ぶ唯一の女子だった。人当たりが良いとは言えず、取っつきにくさを指摘されることの多い彼をそう呼ぶことができる人間は部内でも数少ない。学年は離れているが、彼女は及川と気が合うようで、この『国見ちゃん』という呼び名も及川による影響が大きいようだった。もっとも、国見をそう呼ぶ人間は及川の他にはいなかったため、当然といえば当然ではあるのだが。
 国見は、ワクワクとした様子で目を輝かせる彼女をじっと見下ろした。は国見とは正反対に、文化祭を心の底から楽しんでいる様子だ。元より明るい性格の彼女は、こういったイベントごとには毎度浮かれていたな、と中学時代の記憶をなぞる。

「…お前と付き合ってるって勘違いされるのが嫌だから無理」
「ひどいな!」

 国見ちゃんって本当つれない、と呟きながらも、はさほどショックも受けていない様子で笑っている。彼の邪険な物言いが、決して悪意によるものではないと理解しているからだ。国見は、彼女のさっぱりとしたこの性格が嫌いじゃない。
 一聴すると辛辣な言葉をかけた国見だが、内心ではとの間柄をそれなりに居心地良く思っている。それにこの後の予定など友人のクラスの模擬店を覗くくらいなのだから、本来ならば彼女の誘いを断る理由もない。
 しかし二人で歩いていれば、周りの同級生からの冷やかしを浴びせられることは確実だろう。彼女との仲をいたずらに邪推されるのは、彼にとってひどく面倒であると同時に、少なからず気恥ずかしさを感じさせることでもあった。
 とは中学時代から比較的仲も良く、ただでさえ昔から冷やかされることが多かった。付き合いの長さという点では金田一も全くの同条件ではあるが、とりわけ彼女とは家も近く、必然的に金田一より長い時間を共にしていたことがその一因だろう。
 あまつさえこの文化祭というイベントは、時として男女にとって特別な意味を擁するもののようで、「こんな日に一緒に居るなんて、やはり付き合ってるのではないか」と安直に噂される展開は想像に難くなかった。
 当のは、普段からそういった冷やかしは意にも解さぬ様子で、周囲の目など気にせずこうして朗らかに声をかけてくる。それはすなわち、彼女が自分を特別視していないことの表れだと国見は捉えていた。
「私、もうすぐクラスの当番なんだけど、あともう少し時間あるんだよね。だからそれまで時間潰そうと思って」
「へー。何やんの」
 条件反射のようにそう訊ねる。基本的に、国見は他人に対してあまり興味を示さない人間だった。故に、他のクラスがどんな出し物に注力しているかということも例に漏れない。勿論、意識せずとも耳に入ってくる情報は少なくないが、一方で文化祭当日までこっそりと準備を進めるクラスもある。そして、のクラスこそがまさにその内に含まれていた。
 彼の問いかけを受けたは、一瞬だけ視線を虚空に泳がせて、口を開く。
「んー、喫茶店。いたって平凡ですよ」
「ふうん」
 良くも悪くも無難な企画だというのが国見にとっての率直な印象で、それ以上の台詞が返せなかった。だが、なんと言葉を続けようか考えあぐねる暇もなく、は笑って踵を返す。
「じゃあ、私は国見ちゃんにフラれたんで早めにクラス戻りまーす。また後でね、バレー部の片付けの時に」
「おー」
 言葉こそ不満げだが、それでも一切の嫌味っぽさを感じさせない笑みを見せ、はスカートを翻して歩いて行った。普段は気の抜けた笑顔を浮かべ、どこか言動にもゆるさの伴う彼女だが、歩き出せば背筋が真っ直ぐにすっと伸びる。その凛とした後姿や、わずかばかりに揺れる黒髪を、純粋に綺麗だと国見は思う。






(……どこか「平凡」だよ)
 派手な飾り付けをされた教室の中では、色とりどりの服装を身にまとった生徒たちが忙しなく走り回っている。各々の衣装は、有名なアニメキャラクターのものや、あるいはメイド、ナースなどと全く異なっており、しっちゃかめっちゃかで統一感などあったものではない。教室のドアにでかでかと掲げられた看板を再度見やれば、そこには『コスプレ喫茶』の文字がある。国見は、このクラスに立ち寄ったことを早くも後悔し始めていた。

 と別れた後、適当に校内をぶらついていた国見だったが、一時間も経たぬうちに暇を持て余していた。再びバレー部の教室に戻って手伝いに参加しても良かったが、それもそれで面倒だ。どうせなら、日頃の退屈な授業や体力を消費する部活に縛られないたまの休息を貪りたかった。
 時計を見れば十三時四十分。十四時頃になれば、一時間遅れで当番に入った金田一や仲の良いチームメイトが店番を切り上げる頃合いだ。国見はとりあえず金田一にメールを入れ、彼らとの合流を待つことに決めた。
 そこで、それまでの中途半端な時間を潰すために足を運んだのが、のクラスの喫茶店だった。本当はジュースでも買って一人でベンチでぼんやりしているほうが性に合うが、校舎外は人が多く、校内にも座り込める場所は少ない。そんな時、先ほど自分を誘ってくれたのことがふと頭をよぎり、なんとなしに立ち寄ったのだ。

 このクラスは大分繁盛しているようで、人入りも多かった。手の空いた生徒がほとんど見当たらぬほど、それぞれが皆せかせかと動き回っている。教室内に足を踏み入れると、挨拶こそ飛んできたものの、すぐに対応しに来る生徒はおらず、国見は手持無沙汰のまましばしドアの前で棒立ちになっていた。
 ややあって、一人の女子生徒がそんな国見の存在に気付き、すぐさま教室の奥に向かってヘルプを呼んだ。するとまもなく、その高く通る声を聞きつけた他の生徒が衝立の向こうから顔を覗かせる。国見はにわかに目を見開いた。

「はい!いらっしゃいま――、え、国見ちゃん!?」
「……」

 目の前に現れたのはだった。満面の笑みで飛び出してきた彼女は、しかし国見の姿を見るやたちまち固まってしまった。かくいう国見も、何か返事をしようにも、彼女のその格好に気を取られ、反応を返すタイミングを完全に失ってしまう。
 が着ているのは、薄い水色のチャイナドレスだった。その淡い色は、ドレスから伸びる四肢の白さをより引き立てている。普段の部活でのは、大量のドリンクボトルを抱えていたり力仕事もそれなりにこなしているため、さほどか弱い印象を受けたことはなかったが、今の彼女の姿はそんなイメージを覆すほどのものだった。彼女が比較的細身であることは認識していたものの、いつもならジャージや少しサイズに余裕のある制服に覆われているはずの肩の丸み、腰の細さを目の当たりにするのは初めてだ。ってこんなに細かったっけ、と彼は内心独りごちる。
 国見の目を奪ったのはそれだけではない。のスカートの丈は膝元まであるものの、揺れる裾の下に伸びるのはどう見ても素足だ。大胆なスリットから覗くなめらかな太ももが目に入り、彼は存外動揺していた。普段晒されることのないそれは、何か見てはいけないものを覗きこんでしまったような背徳感さえも抱かせる。せめてストッキングくらい履いとけよ、と理不尽な文句を突き付けたくなる気持ちを押し殺し、彼は己の波打つ心の揺れに見て見ぬふりをした。

「な、なんで来たの…!?」
「来ちゃ悪いのかよ」
「だって国見ちゃん、こんなの見たら絶対笑うじゃん!平凡って言っとけば、冷やかしに来られることもないかなって思ってたのに…!」

 普段とは似つかわしくない、どこかしおらしい表情を見せたまま、は国見を奥の席へと案内する。その後に続きながら、国見は彼女の後ろ姿を密かに盗み見た。長い髪はお団子状にまとめられ、ばっちりと施された化粧の効果もあいまって、いつもよりもどことなく大人びて見えた。彼女の大胆に晒されたうなじが目に入ると、たちまちむず痒い気持ちになる。部活時の彼女はいつも髪を低い位置で結っており、首裏は隠れていることが多い。ゆえに今日の彼女の姿は、国見にとって至極新鮮なものだった。

「…言っとくけど、これ先輩とかに言わないでね頼むから」
 国見がテーブルにつき、手元のメニューに目を落としたところで、すかさずが身を屈めて耳打ちをしてくる。唐突に距離を詰められたことで、国見の心臓は一瞬跳ね上がった。
「は?」
 思わず顔を上げれば、は羞恥心にのまれた顔をして、居心地悪そうに目を泳がせている。
「だって、及川さんとか花巻さんとか、あとで絶対いじってくるに決まってるじゃん!今のところバレー部では国見ちゃんしか会ってないし、国見ちゃんさえ黙っててくれれば多分先輩たちにバレないから」
 なるほど、確かに彼女が名を挙げた上級生たちは、のこの格好を嬉々としてからかいの種にするだろう。
 バレー部一年生の数は決して少なくないが、のクラスに居るバレー部員は奇跡的に彼女だけだ。そのため彼女の言うとおり、国見が誰かに言いふらさない限りは、この姿を他のバレー部員に直接見られる可能性は低くなるかもしれない。
 そう納得したのもつかの間、悔しそうに身を捩る彼女の姿に、国見はまたも気をざわつかせた。彼女が少し身体を動かすだけでも、タイトな衣装に包まれたボディーラインはより浮き彫りになってしまう。率直に言ってそれは、今の彼にとって目のやり場に困るものでしかない。
 高校生。それが男にとって最も情欲にのまれやすい年頃だということを彼は同性として心得ているし、また男である以上、彼自身も多少なれどそういった欲が湧くこともある。それでも、このように視覚にわかりやすく訴えるコスチュームや色仕掛けには安易に引っかからない人間だと自負していたはずだった。その上とは、中学時代も含めて三、四年も一緒に過ごしてきた仲だ。今まで彼女に対して邪な気持ちを抱いたことは一度も無く、こんな感情に見舞われるのは初めてのことだった。ゆえにそれは、彼自身をひどく戸惑わせた。

「すいませーん、チャイナ服のお姉さーん!注文いいっすかー!」
「あ、はい!少々お待ちくださーい!」
 少し離れた席から飛んできた大声に、二人は弾かれたように視線を向ける。お世辞にも爽やかとは言い難い笑みを含んでこちらに手を振っているのは、恐らく国見やともさほど歳の変わらない若さの二人組の男だった。国見は、彼らがに向けているその視線が下心を含んだそれであることに瞬時に気が付いた。
「じゃ、国見ちゃん、ゆっくりしてってね」
 しかし、当のはそんなことには全く気付かない様子でそう言い残し、男たちの待つテーブルへと慌てて足を向けようとする。

、待って」
 気づけば国見は、の手を思わず掴んでいた。完全に無意識だった。彼女は豆鉄砲を食らったような顔をして、きょとんと国見を見下ろしている。不思議そうにじっと見つめてくるその顔を見て、彼はようやく自分の取った行動を理解した。それは本当に咄嗟の判断で、明確な自覚や決意は後からついてきた。
「…やっぱり行く」
「え、何?」
「さっきの。一緒に文化祭まわろうってやつ」
「ど、どうしたの急に…」
「いいから。俺が行きたい」
 つい先ほどあっさりと断られた申し出を、何の前触れもなく突然受け入れられれば、誰だって戸惑うだろう。案の定も、手のひらを返したような国見の態度に困惑しているのか、少しばかり口ごもりながら言葉を続ける。
「でも……当番終わるまで、まだ結構時間あるよ」
「別にいいよ。どっかで時間潰して待ってるから」
 口では一緒に文化祭をまわりたいと言いながら、表情は先ほどよりもぎらぎらとしている国見。その言動のちぐはぐさは、の目にはさぞかし不思議に映っただろう。しかし、そんな頑なな様子を訝しむように首を傾げながらも、彼女はわかった、と素直に頷く。そして今度こそ「また後で」と言葉を残して、国見のテーブルを離れていった。
 自分の手からするりと抜け出した彼女の細腕や、男たちの待つテーブルに駆けていく背中を眺めたのち、国見は意味もなく目の前のメニューに視線を落とす。カラフルに並んだ文字列の内容など、少しも頭に入ってきやしない。

 先ほど彼女は、自分以外の部員にはまだこの姿を見られていないと言った。
(――見せてたまるか)
 の腕を掴んだ瞬間に彼の胸を占めたのは、その思いだった。部員のみならず、他の誰にもだ。その感情の訪れは、言葉にして認めるのを憚られるほどに突然のことで、彼自身をも驚かせる。こんなことで芽生える感情などあまりにも軽薄に思えて、いっそ気の迷いだと見て見ぬふりをしてしまいたい。けれど。
 彼女の纏うゆるやかな空気。気の抜けた笑顔。しゃんと伸びた背中。毛先の整った黒髪。まるで映写機が映し出す写真のように、彼女を構成するパーツの一つ一つが代わる代わる脳裏を流れてゆく。思えばその感情は、決して唐突に訪れた夕立のように降って湧いたものではなく、長い時間をかけて、とうの昔から心臓の手前まで根を張っていたのかもしれない。この時、この瞬間に至るまで、ずっとずっと前から。
(……わりー、金田一)
 依然として微熱に浮かされたような心持ちのまま、彼は、先ほど連絡したばかりのチームメイトに向けて、再度メール画面を開いたのだった。

 機微に聡い国見という男は、幸か不幸か、己の感情の変化にも敏感であった。
 彼は、くゆるように芽生えたこの感情の名を知っている。



「オーベルテューレ」
(2014.05.30)