自分のしてしまったことを認識するよりも一瞬はやく、彼の黒目がちの瞳が大きく開かれるのを見て、は取り返しのつかない後悔に胸を絞られた。 「…ごめん」 それは彼女の予想と一言一句違わぬ、あまりにも想定通りの言葉だった。 「俺、ちょっといっぱいいっぱいだったよな。ごめんな」 居ずまいを整えながら、孝支くんはそう言って笑う。少しだけむず痒そうな、居心地悪そうに強張った口元。恐らく、手のひらからこぼれ落ちそうなほどの感情を全て押し殺して。それでも、その声のあたたかさはいつも通りの彼だった。 先ほどまで覗いていたどこか獣めいた眼差しはいつのまにか息を潜めて、そこにはいつもの孝支くんがいる。それがたまらなく怖かった。まるで、後ろ手に何かを隠し持っているかのような。 けれどそんなものは、至極当たり前のことだった。 孝支くんだって、男の子だったのだ。 きみだけを映して 日曜の夕暮れ時、もうあと一時間もすればカーテンを閉めねばならぬ頃だった。青いベッドカバーの張られた、彼のベッドの上。特別大きいわけではないけれど、それでもれっきとした「男の子」の手が、私の身体を押し倒し、それからそっと頬に触れた。 すぐ目の前に、孝支くんの顔がある。 動けなかった。 大好きでたまらなくて、胸が締め付けられて、それこそ息ができなくなるくらいに。 ――ごめん。 あの時の孝支くんの顔を思い出すたび、胸が軋む。 高校二年生の五月、ちょうど若葉が青く色付き出した頃に彼と付き合い始めてから、丁度一年が経とうとしている。孝支くんはいつだって優しかった。同年代の男の子のものとは思えぬほどに柔らかく、どこか中性的な顔立ち。丸く穏やかな言葉遣い。彼を形作るパーツのひとつひとつは、どれも柔らかく私を包み込んだ。それゆえにどうしても、孝支くんがそんな下心を秘めているようには思えなかったのだ。 とはいえ、何の覚悟もしていなかったわけではない。仮にも私たちは年頃の異性であり恋人同士だ。あの孝支くんが相手とはいえ、そういう雰囲気になる可能性があることは分かっていた。 身体を重ねるということ。保健の教科書に並ぶ無機質な文字を追ってみても、思い描けるのはどこか現実味のないイメージでしかなかった。映画やテレビドラマで不意に流れるラブシーンを目にしたり、友人の口からごくたまに経験談を耳にするくらいで、「リアル」な知識はまだ乏しかった。その上、噂に聞く破瓜の痛みや、もしもの場合の様々なリスクにばかり思考が及んで、茫漠とした恐怖のほうが圧倒的に勝っていた。 それでも、孝支くんならば大丈夫と思えたのだ。不安は拭えずとも、彼にならば全てを預けたいと。そう思ったからこそ、勇気を出して彼の部屋に足を踏み入れた。なのに。 (怖い) 気付いた時にはもう遅かった。涙は抑えようもなく、ただただ私の両頬を濡らした。静かに震える喉の奥で、無意識に呼吸を押し殺していた。 あの瞬間、二人の間に流れる熱を帯びた空気が、ぴんと張りつめたように一瞬で変わったのが分かった。機微に聡い孝支くんは、こちらが言葉を発するよりも先にすべてを察して、私から距離を取った。 真面目な彼は自分を責めたはずだ。恥ずかしさだってあっただろう。私の行動のせいで、居たたまれない気持ちにさせてしまったに違いない。 決して下心が無かったんじゃない。きっと見せなかっただけだ。孝支くんは、本当に優しいから。 自分の家へ帰り、夕食を口にしていても、湯船に浸かっていても、暖かい布団をかぶっても、片時も彼のことが頭から離れなかった。浴槽の中で、透明の湯に浸したその身を抱きしめれば、同じように私を抱きしめた孝支くんの腕や、覆いかぶさる胸板が、否応なく鮮明に脳裏をかすめるのだった。 優しげに垂れ下がった彼の目元には、獲物を前にした獣の如くぎらぎらとした光が、確かに覗いていた。真っ直ぐに射るような孝支くんの視線。耳に届く息遣い。思い出しただけで身悶えするほどの恥ずかしさに襲われ、たまらない気持ちになる。 あの瞬間、窓の外から遠く聞こえる自転車の音も耳に届かないほど、息をするのも躊躇うくらいに、まるで水を打ったような静けさだけが彼の部屋を支配していた。まるで時が止まってしまったと錯覚しそうなほどに、そこはひどく非現実的な空間だった。 目を閉じれば、頭を焦がすようなあのひと時の映像が、幾度も再生される。 だって。 生まれて初めてだったのだ。あんな風に熱の灯った瞳で見つめられたのは。気恥ずかしさとむず痒さを内包した、嵐のように胸を焼くその感情は、それでもこの上なく幸福なものだった。 だからこそ、あの時の自分の行動を悔やまずにはいられない。 私は、きっと孝支くんを傷つけたのだ。 三年生の春、入学以来初めて、孝支くんと異なるクラスに配属されたことを心から悔やんだけれど、今日ばかりはこのクラス編成に感謝するばかりだった。昨日の今日で、彼とどうやって顔を合わせればいいかもわからない。ましてや、普段と変わらぬ顔で会話を交わすだけの毅然さなど、とても持ち合わせてはいなかった。 授業が終わり、クラスメイトが次々と教室から去っていく姿を横目に、私はわざといつもよりもゆっくりと教科書を鞄に詰め、のろのろと身支度を整えていた。彼と鉢合わせることを避けたいがための行動だった。 隣の四組は、私のクラスよりも早くホームルームを終えたらしく、廊下には一足先に帰宅する生徒たちの話し声が響いていた。孝支くんももう部活に向かっているだろう。ほんの少しばかり時間をずらすだけで問題ないはずだ。こんなことをいつまでも続けたいわけではないけれど、それでも、せめて今日だけは一人でいる時間が欲しかった。 既にクラスメイトのほとんどが出払った教室を出て、普段よりも小さな歩幅で下駄箱へ向かう。重いつま先に目を落とすと、言いようのない情けなさが胸を染め上げていった。床を蹴る上履きが鳴らす音さえもが、己の滑稽さを助長するように思えた。私は、何をしているんだろう。 「!」 下駄箱で自分のローファーに足を引っかけていると、突然後ろから名前を呼ばれて、私はあからさまに肩を強張らせてしまった。 「こ、孝支くん」 「良かった、ここに居たのかー」 「部活はどうしたの…?」 「今日はオフ。体育館の点検日なんだ」 孝支くんの呼吸は少しだけ弾んでいる。ホームルーム後に澤村くんとの事務連絡を済ませ、慌てて私のクラスに向かえば、既に私の姿が見当たらなかったものだから、慌てて玄関口まで様子を見に来たという。 「……場所、移そうか」 ああ、もう、あれだけ顔を合わせたくないと思っていたのに。この笑顔を見たら、泣きたくなるほど、やっぱり彼のことが愛しいと思うのだ。 学校の裏手の道をしばらく進んでいくと、烏野高校の生徒は滅多に寄りつかない公園がある。大抵の生徒は、放課後になると正門口の坂道をまっすぐ下って、烏野商店街で寄り道をすることが多いからだ。孝支くんに連れられてやって来た今日も、そこそこの広さのある公園にも関わらず、人は誰もいなかった。ベンチで隣に座る彼は、何かを言い躊躇うように口を噤んだまま、私のほうを見ようとしない。 交際を始めて一年、このベンチに孝支くんと共に何度も座った。ある時は、咲き乱れる桜の舞う頃に。ある時は真夏の陽に焼かれながらアイスを食んだ。雪が降り出しそうな身も凍える放課後、それでも決して帰ろうとは口にせず、寒いねと笑いながら一緒にココアを飲んだこともある。今まで重ねてきた彼との記憶をなぞり、私は胸をよぎる一抹の不安で泣きそうになった。 「孝支くん、あの」 先ほどまで俯いていた彼の双眸がようやく私を捉えた。鏡を見なくとも、今の自分の顔が強張っているのがわかる。 彼の口からどんな言葉が発せられるのか、最悪の予感だけが頭を占めていた。その言葉を聞くことがたまらなく恐ろしく思えて、咄嗟に自分から声をあげたものの、口の中はひどく乾ききりざらついていた。 「ごめんなさい」 何から話そうかと考えるより先に、口をついて出た言葉がそれだった。 孝支くんは、今まで見たことのない複雑そうな顔をして、しばらく黙り込んでいた。そしてやがて、意を決したように私を見据えて、口を開いた。 「……それは、俺とはもう付き合えない、ってこと?」 その目は私を真っ直ぐに捉えていたが、語調は存外弱々しく、恐る恐る真意を探っている様子に見えた。 「えっ!?違うよ!!」 「…そっか、…あーー良かった!マジで心臓止まるかと思った、安心した!」 予想だにしない彼の返答に動揺し、思わず今日一番の大声を出せば、孝支くんはその表情を一気に崩して、気の抜けた笑みを浮かべた。互いを包んでいた空気の淀みは、もうあっけなく消え去っていた。 「俺、に嫌われたらどうしようって、昨日からずっと不安だったんだ。軽蔑されたんじゃないかって」 「いや、待って、そんなことない!むしろ孝支くんは優しくて、それなのに私」 一度は言葉に詰まるが、再び頭の中で、彼に向けて紡ぐ言葉を必死に組み上げる。 「…ほんとはね、孝支くんなら大丈夫って思ってた。孝支くんのこと大好きだから。でも私、ああいうこと初めてで、死ぬほど緊張したし、……やっぱりまだ怖いって、思っちゃって」 私がたどたどしく紡ぐ言葉を、孝支くんは真剣な面持ちで聞いてくれている。だからこそ、唇が震えた。怖いという言葉は、ともすれば拒絶の意に取られかねない。また、それが孝支くんにとってどれほど残酷な言葉であるかも分かっていた。そのため、本人を前にして本音を告げることは、相応の勇気を要することだった。 「」 孝支くんの甘く優しい声が、静かに私の名を呼ぶ。そして、膝の上でスカートを握りしめる私のほうに、改めて身体ごと向き直った。 「は悪くないから、謝る必要なんてないよ。それに、……あんなことしといて説得力無いかもだけど、俺、今すぐにって急ぎたいわけじゃないから」 私を責めるどころか、彼はそう言って柔らかく笑う。私は胸が苦しくなった。 「…孝支くんは、どうしてそんなに優しいの?」 「いや、……えーっとさ、うん」 孝支くんは口角を少しだけ強張らせ、しばし目を泳がせた後、自身の髪に触れる。それは彼が照れた時に見せる癖だった。 「……正直言えば、俺はと、…その、そうなれたらいいなって思ってたけどさ。でも、が同じように思ってくれてないと意味ないから」 隠しきれぬ照れはそのままに、それでも屈託のない笑顔を向けてくれる孝支くんの言葉に、何一つ嘘偽りがないことは伝わってくる。なんて優しい人なんだろう。――それでも、それでもだ。 「…今、『でも、本当は引いたり嫌ったりしてないかな』とか思ってるべー」 「えっ!?」 心の内を言い当てられ動揺する私を見やり、孝支くんはいたずらっ子のように微笑んで、少しだけ意地悪げに目を細める。時折覗くこの表情を目の当たりにすると、彼が「男の子」であることを、はっきりと実感させられる。 「こうして一緒に居るだけでも、十分幸せだって思ってるから、俺。嘘じゃないぞー、本心な」 「……ねえ、孝支くん。私、もしかしたら時間がかかるかもしれない。そんな私でも、本当にいいの?」 思春期の男の子が、とりわけそういった欲に貪欲であるということは私も知っている。ゆえに、たとえこの上なく優しい孝支くんが相手と言えども、全ての心配が払拭されるわけではなかった。 「……あのさ」 孝支くんは僅かに口籠った後、依然として不安を燻らせる私の手を握り、静かにこう言った。 「心配しなくても、…俺、ずっとと一緒に居るつもりでいるから、大丈夫」 彼はその大きな目を細めて、私を見つめる。自惚れと笑われるかもしれないけれど、その表情を見ているだけで、私への想いが、痛いほど真っ直ぐに伝わってくる。孝支くんは、まるで本当に宝物を愛おしむような視線を私に向けてくれていた。 赤く染まった頬。春の木漏れ日のように甘く響く声。私に触れる手のひらの温度。春の日も夏の日も、いつだって彼はその全身のすべてを使って、私の胸を甘い蜜で満たす。 彼の手を強く握り返す。私にだけ向けられるこの微笑みを見つめるたび、その指先に触れられたび、私はこの人の手を永遠に離したくないと強く思うのだ。 (2014.05.01) |