「おかえり、お疲れ!」
「また来たの…」
 リビングのドアを開ければ、ソファの背もたれに身を預け、自宅同様にくつろぐの姿が蛍の目に飛び込んできた。帰宅早々嫌なものを見たとばかりに溜息をつきながら、蛍は背負っていたスポーツリュックを床に下ろす。いつもならば真っ先に自分の部屋に直行してしまう彼だが、今日は試合帰りの疲労した身体を引きずってきたためか、すぐさまキッチンに向かう。は、グラスにお茶を注ぐ蛍の、その冷蔵庫に並ぶほど大きな身体をまじまじと見つめた。無論、彼の呆れむき出しの表情など意に介さずである。

「なんか、ほんとに大きいねえ」
「……なに、藪から棒に」
「ほら、試合だと周りも大きいからあんまりわからないけど。近くにいるとこんなに大きいんだなあって、改めて」
 試合という単語にぴくりと反応した蛍が、渋い表情でこちらを振り返った。その顔には「やっぱり来たのかよ」という苦々しい感情がはっきりと表れている。それも当然で、彼は昨晩、試合を観に行きたいとせがむの願いを容赦なく断っており、また彼女もそれに頷いたはずだった。
「…この間もそうだけど、君さぁ、初めから僕の意見聞く気ないでしょ」
 蛍が文句を言うのも無理はない。先日の試合の際も、は今回と同様の手口で彼の意思を聞き流し、密かに試合会場に応援にやって来たのである。
「だって、どうせ蛍って絶対ノーしか言わないんだもん」
「だったら初めから訊かないでよ…。ていうかそもそも来るな」
「もー、可愛くないなあ」
 まだこれくらい小さかった頃は、今の十倍は可愛げあったのに!はそう呟き、かつて自分よりも背の低かった蛍の姿を思い浮かべながら、自身の胸元あたりの位置を手のひらで指した。
「昔はあんなに素直で私にべったりだったのに。可愛かった蛍ちゃんはどこ行っちゃったのよー」
「……いつの話してるのさ」
 十分に喉を潤した蛍は、背後で大袈裟に嘆く彼女には一瞥もくれぬまま、こなれた様子で一蹴してしまう。彼がにこんなことを言われるのは一度や二度のことではなく、むしろ日常茶飯事といっても過言でなかった。もう幾度となく繰り返されたその回顧の言葉を、彼は半ば辟易しながら毎度聞き流していた。

 過去の蛍とは、互いの家が近所同士ということもあり、蛍の兄である明光も含めてよく遊ぶ仲だった。蛍よりも三つ年上のは、歳の離れた明光と蛍のちょうど中間に位置する年齢である。そのため、明光には妹のように可愛がられ、蛍には実の姉のように慕われていた。特に、まだ幼い頃の蛍は「ちゃん、ちゃん」と言って、いつも彼女の後ろをついて回っており、彼女自身もそんな彼を血の繋がった弟のように大切に思っていた。

 しかし、明光が月島家を離れて一人暮らしを始めた頃から、同時に蛍との距離も徐々に開いていった。特に蛍が中学に上がる頃には、彼は以前にも増して殻に閉じこもるようになり、以前のような無邪気さでの名を呼ぶこともなくなった。
 彼と明光の間に何がしかの不和が生じたことを、はぼんやりと察していた。それでも、蛍の態度の変容―それは、思春期という言葉で片づけられるものとは思えぬほどだった―は、当時のにとってひどくショッキングなものであり、容易に受け入れられるものではなかった。
 彼女は、幼い頃から築いてきた関係を失うことを恐れ、蛍を必死に繋ぎとめようとした。幼少期と同様にとはいかないまでも、今日のように彼の家を時折訪ね、時には蛍が滅多に声を荒げないのをいいことに、彼の部屋に半ば強引に入れてもらうこともあった。温厚な彼の母親はいつも歓迎してくれたものの、当の蛍本人は渋い顔を隠そうともしなかった。居心地の悪そうなその様子に、はあえて気付かないふりをし続けていた。
 しかし、蛍が中学二年になった頃、ある日はっきりと告げられた言葉は、への明確な拒絶だった。「これからは、もう僕の部屋には来るな」。

 その後も、近隣住民ゆえに通学路で出くわすことは度々あったものの、ヘッドフォンを耳に当てて足早に歩く蛍は、幼馴染のをも怯ませるほど、人を寄せ付けないオーラを纏っていた。昔から、どこか他人とは一線を引いた子供だったが、明光との一件以来、その性格はより色濃さを増しているように思えた。

 そんな蛍が、烏野高校に入学し、あのバレー部に入部したと聞いたとき、は己の耳を疑った。明光の母校――よりにもよって、兄弟間に埋め得ぬ溝が生まれたきっかけともいえる場所である。蛍にとって、少なからず嫌な記憶と結びついているはずだ。その上、彼は小学生の頃から成績優秀で要領も良かったため、烏野よりも偏差値の高い白鳥沢学園に入学するとばかり思っていたのだ。
 どんなに冷たく見えようとも、蛍は決して兄のことを嫌いになったわけではないと気付いたとき、はそれまでの靄掛かった感情が嘘のように喜んだ。彼は高校入学を機にいささか丸くなったのか、次第にメールを通じての連絡にも応えてくれるようになっていった。そして先日ようやく、彼の出場試合の観戦に―ほぼ強引にではあるが―初めて漕ぎつけるまでに至ったのである。

「それより、今日の試合凄かったね!おめでとうって言いに来たの。また次のも観に行くね」
「だから見に来るなって言ってるだろ」
「だって気になるし。明光くんもそのうち観に行きたいって言ってたよ」
 は携帯を操作して、つい昨晩交わしたばかりの明光とのメールの文面を蛍の眼前に突きつける。彼女が蛍の試合を観るのは今日で二度目のことだったが、実の兄である明光は、未だ一度も弟の晴れ舞台を目の当たりにしていないのだ。夏の間に実家に戻ってきた時も、この弟に頑なに拒まれ続けていたらしい。
 兄弟間の長年のわだかまりがようやく解消されつつあること。蛍自身はそれをに一切打ち明けなかったが、家を出てからも頻繁にと連絡を取り続けている明光の口によって、それらの兄弟事情は全て彼女に筒抜けだった。
「……あのさ。言っとくけど、試合に絶対兄ちゃん連れて来たりしないでよ」
「えーーなんで、いいじゃん」
「良くないから言ってるんだろ!」
 珍しく蛍がやや声を張るが、本気で機嫌を損ねているわけではないことをは理解している。この場合の彼の「嫌」はすなわち「恥ずかしい」だ。それを分かった上で、彼女はいつも、蛍を怒らせないぎりぎりのラインを保っていた。少し前までは、昔と違って愛想の無いその態度にぎこちなく戸惑うことも多かったが、こうして再び交流を取り戻すようになってからは、そんな彼をからかう余裕も出来つつある。

ちゃん、晩ごはん食べてく?」
 そうしているうちに、蛍の母がキッチンから顔をひょっこりと覗かせた。気付けば、窓の外は既に薄暗く青みがかっていた。
「あ、大丈夫です、お構いなく!」
 の言葉を聞いた蛍の母は微笑みながら再びキッチンに戻り、再び野菜を切る小気味よい音がリビングまで聞こえてくる。これ以上長居してはさすがに迷惑だろうと思い、はソファから立ち上がった。
「蛍にも会えたし、私そろそろ帰ります。おばさん、いつもありがとうございます」
「いいのよ。いつでもうちの兄弟のお嫁に来てね」
「母さん」
 息子の制する声などどこ吹く風という様子で、彼の母は大きな瞳を細めて茶目っ気たっぷりに微笑んだ。明光と蛍の持つ大きく涼しげな瞳は、きっと彼女譲りなのだとは思っている。
「いやー私なんか勿体ないですよ、明光くんも蛍もイケメンだから絶対引く手あまたですもん」
 が笑いながらそう返せば、明らかに不満そうな顔をした蛍に無言で睨まれる。さしずめ、親の前で余計なことを言うなと口止めしたいんだろう。また説教をされる前に、早々に退散しなければ。はそう考え、彼が何かを言うよりも先にすかさず口を開いた。
「それじゃあ、お邪魔しました」
 彼の母に会釈をし、自分の荷物をまとめて玄関に向かうの元へ、蛍が静かに近寄ってくる。
「送る」
「え、いいよいいよ。すぐそこだし」
 蛍の珍しい言動に、は少なからず動揺した。彼が自らそんなふうに申し出てくれたことは今までに一度もない。は純粋な喜ばしさよりも、また文句を零されるのか、あるいは何かの罠なのではないかという疑念で思わず身構えた。
「いいから。ほら、行くよ」
 しかし、彼女がその場で棒立ちになっている隙に、蛍はあっという間にスニーカーを履き終えていた。はついに逃れる術もないまま、大人しく彼の後に続き、シャーベットカラーのパンプスに足を通したのだった。






 蛍はわざわざ家まで送り届けるなんて言ってくれたものの、彼の家からの自宅までの距離はほんの十分程度のものである。ぽつりぽつりと会話を交わしながら歩けば、すぐにの家は見えてきた。先刻の疑念は杞憂で終わり、予想していたような文句や意地悪の言葉を何一つ受けることもないまま、彼女は自分の家の門に手を掛けた。
「なんかこないだも思ったけどさ、試合見てて、蛍が烏野で楽しそうにやれてるみたいで安心した」
「……あっそう」
「やっぱりどうしたって、私にとっては今でも蛍が可愛いからさー」
 が素直に感情を吐露する一方で、蛍はの顔を見ようとはしない。足元に視線を落として、普段よりもぼそぼそとした低い声で唸るように喋るその姿は、彼が心落ち着かない時によく見せるものだ。照れているのか、はたまた興味がないのかは分からないが、そっけない反応もいつものことである。はさほど気に留めないまま、屈託のない笑みを浮かべて彼に向き直った。
「送ってくれてありがとね」
 そう言って門を開け、玄関扉へと続く階段を一段上った時だった。

「ねえ、
 いつからか滅多に呼ばれなくなった名前を久々に口にされ、は驚きで振り返った。
 蛍はをじっと見下ろしている。彼女のほうがアスファルトより高い段に立っているというのに、それでも目線は蛍のほうが高かった。

「いつまで、そうやって姉弟ごっこみたいなこと続けるつもり?」

 は、自分の呼吸が詰まるのを感じた。
「僕はもう、君が言う『可愛い蛍』じゃないし、いつまでもそういう扱いをされるのは困る」
 一切のリアクションも返せず立ち尽くす彼女に、数年前と同じような拒絶の言葉が突きつけられる。今この瞬間を見据える蛍は、あの時と同様の表情をしていた。明らかに、普段の彼の様子とは違う。いつもならば、どんなに呆れようとも最後には溜息をつきながら見逃してくれる蛍だが、今日は決して折れまいとする強い意志が伝わってくる。

 あどけなさが抜け始めた顔立ち。高く伸びた背丈。ボールを触る長い指先。玄関に揃えられた、自分のものよりずっと大きなシューズ。これほど身近な距離で彼を見てきたには、その成長ぶりがどれ程のものかなど十分にわかっていた。それでも、長い間共に育ってきたからこそ、心のどこかで彼の成長をうまく受け止めきれない自分がいたことも事実だった。どんなに背が伸びても、声変わりをしても、昔より素直でなくなっても、にとって、蛍はいつまでも可愛い弟のような存在のままだった。
 しかし、先ほどの蛍の言葉は、明らかに今までの関係を変えたいという強い拒絶だった。彼はもう高校生である。普通に考えれば、身内同然にお節介を焼く異性の幼馴染など、煙たがって然るべき年頃なのだ。いよいよ、本当に彼との距離を置かねばならない時期がきたのだと、は察した。

「……わかった、ごめ――」
「だから、」
 一際低くこもった声と共に、の腕がぐいっと引き寄せられ、その身体はつんのめるようにして蛍の胸に飛び込んだ。初めの一瞬こそ、全身のバランスを崩す恐怖で冷や汗をかいたものの、すぐに、この状況に対する動揺と戸惑いで脳裏は埋め尽くされた。慌てて彼から身を離そうとすれば、すかさずその両手がの背中に回り、逃すまいとばかりに力強く腕の中に閉じ込める。
「け、蛍」
 の口から出たのは、いつものはつらつさとかけ離れた弱々しい声だった。自分のものとは思えぬしおらしい声音に、彼女の頬の赤みは一層増すばかりである。こんな姿、蛍の前で見せたことなんかないのに。そう思いながらはきつく目を瞑る。きっと笑われるに違いない。いや、むしろ今だけはいっそ笑い飛ばしてほしい。この状況も何もかも全てドッキリだったと、悪びれもせずネタばらしをすればいい。
 そうでなければ、どうすればいいというのだ。
 引き寄せられるその一瞬だけ垣間見えた、焦燥を滲ませる瞳の揺らぎも。まるで何かに急き立てられるようにこの身体をかき抱く腕の力強さも。全てが冗談だと言ってくれなければ、こんなの、あまりにも。

「いい加減、ちゃんと色々考えて」

 彼の言葉を受けて、はようやく気付くのだ。
 あの頃の、小さく可愛いばかりの彼なんて、もうどこにもいやしない。




「賽は投げられた」
(2014.05.12)