「何時だと思ってるわけ?」
 受話器越しのその声は、未だ酩酊の残滓が残る私の頭を急速に冷やした。まるでバケツいっぱいの水を容赦なく浴びせられたように、ふわふわと浮ついた熱は一瞬でひしゃげて、代わりに火玉の落ちた花火の燃えかすのような苦い感情だけが胸に残った。身体中の血の気が、みるみるうちに引いていく。
「……ごめん」
 もはや考えを巡らせる余裕などなかった。まるでこの言葉を言うことがあらかじめ決められていたように、それは自然と口から零れていた。開口一番に発された蛍の声は、それだけの威圧感を帯びていたのだ。あれこれと言い訳や弁明の台詞を選ぶことさえ許さないほど、どこまでも冷ややかな声音だった。
 ごめん、と再度謝罪を紡ぐと、彼は口を噤んだ。電話の向こうの微かな室内音さえも雨の音にかき消され、彼と繋がっている感覚がうまく掴めない。
 駅とはいえども、こんな真夜中に出歩く人影はほとんど見当たらず、終電もとうに過ぎ去ったホームには静寂だけが残されている。昼間のように遠くで走る電車の音ももう聞こえない。大学生の頃から夜遊びもほとんど経験してこなかった私にとって、こんなにも寂しい駅の風景を目の当たりにするのは初めてのことだった。さながら自分ひとりだけが暗闇に投げ出されたかのような心細さに、思わず唇を噛む。茫漠とした寂しさも虚無感も、すべては自業自得だ。
「……今日はもう、このまま漫画喫茶かどこかに泊まって、明日の朝帰る…」
 それは、重くのしかかる沈黙に耐えかねた末に絞り出した選択だった。幸い明日は土曜で特別な予定もないため、このまま外泊をしても支障はないと考えての発言だった。そもそも電車やバスどころかタクシーも掴まらないこの状況下では、そうするほかに術はない。この駅から自宅アパートまでの距離を歩けば、優に一時間以上はかかってしまうだろう。倦怠感の残った身体で懸命に家を目指すだけの気力も体力も、私には残っていなかった。
「は?」
 しかしその一言は、蛍の鋭い声で容赦なくぴしゃりと跳ね除けられてしまう。何言ってんの?と冷やかな声で続けざまに言われれば、もう私には黙ることしかできなかった。“だって” だとか “でも” だとか、そういった類の台詞をこの場で発することは、電波一つで繋がっている、そして私が帰るべきアパートで苛立ちを募らせているであろう彼の機嫌をことさら損ねてしまうと感じたからだ。
 返事に窮したまましばし押し黙っていると、受話器の向こう側で一つ溜息を吐く音が聴こえた。
「…今どこなの?迎えに行くから」
「え、いや……」
「いいからどこなのか言いなよ」
 もごつく私の様子もお構いなしに、蛍は先ほどよりも強い語調で口早にそう言った。二の句を告がせない頑なな雰囲気に、顔を見ずとも彼の苛立ちや焦燥が伝わってくる。恐る恐る自分の居る駅の名を告げると、「わかった」という一言だけを残して、通話は半ば一方的に切られてしまう。ようやく緊張から解放された私は、ベンチに深く腰かけ直し、大きくひとつ息をついて目を閉じた。音も明かりもほとんど無い空間で瞑目すると、このまま闇に溶け込んでしまいそうだと錯覚しそうになる。




 正直に言えば、今は蛍と顔を合わせたくなかった。
 それは、昨晩彼との間に生じた衝突を、未だ消化できずにいたためだった。原因はひどくありふれたもので、私が日頃の蛍のすげない態度に痺れを切らしたことに端を発する。要するに、彼が自分を好いてくれているのか、わからなくなってしまったのだ。
 蛍は昔から淡白で、お世辞にも愛情表現豊かとは言い難い人間だ。また、どうにも素直になりきれない性分ゆえに、本音をうまく言葉で伝えられないことが多いらしく(かといって、態度で十分に示しているかと言われればそうでもないが)、今までにも同様の理由で小さなすれ違いが起こることはあった。私自身、蛍のにべもない対応に耐えかねて、恋人としての自信を失いかけることも度々あった。それでも、彼の言動の端々に垣間見える優しさや好意の欠片を拾い集めて、少しでも彼の不器用な愛情を汲み取る努力をしようと心掛けてきたつもりだ。
 しかしそれに加え、互いに大学を卒業して仕事に就いてからは、日々の多忙さや疲労なども重なり、今までには生じることが無かったような些細なコミュニケーションの不和も少しずつ増えていった。徐々に軋んでいきそうになる関係を修復しようと、貴重な休日に密なコミュニケーションを取りたがる私にとって、学生時代から変わらぬ彼のそっけない対応はひどく寂しいものに感じられた。良好な関係を築きたいと思っているのは私だけなんだろうか、という思いは日増しに膨れ上がり、じわじわと私の心を苛んだ。
 新生活が始まったばかりという状況もまた、私の懸念を煽る要因のひとつだった。新しい環境で他の女性に心移りしてしまったのではないかと、今まで以上に茫漠とした不安に駆られていたのだ。

――蛍はいま、私のこと、どう思ってる? 本当に、私のことが好きって言える?
 昨晩、彼に真正面から突きつけた言葉を頭の中でなぞる。改めて考えてみれば、それは少々大人げない台詞だった。そして蛍は、そんな私を前に言葉を詰まらせたまま、結局何も言葉を返さなかった。
 彼が、“好き”だとか“愛している”だとか、そういったストレートな言葉を容易には紡げない人間だということは勿論理解している。すぐに言葉を返さなかったのも、単にそういう理由だったのかもしれない。それでも私は、蛍の口からはっきりとその言葉を聞きたかった。蛍に想われている実感を失いかけていた私にとって、彼の愛情を確かめられるだけの明確な言葉がどうしても欲しかった。身勝手だと思われようと、安心できる術が欲しかったのだ。正直に言って、私の心はひどくすり減っていた。


 結局私は、そんな彼の態度にひどく傷つき腹を立て、朝もろくに会話を交わさぬまま家を出てきたのだった。
 そんな日の退勤後、気心の知れた同僚たちから飲み会に誘われた時は、願っても無い好機と思わずにはいられなかった。私は二つ返事でその誘いを快諾する。そしてすぐに携帯を取り出し、「今日は外で食べて帰る」という旨を記したメールを蛍に送信した。時刻は既に夜八時を回っていた。
 どうやら今回の飲み会は、つい最近失恋したばかりの同僚の一人を励ます目的で開かれたようだった。失恋とまではいかぬものの、同じく恋愛で痛手を負っていた私は、すっかり彼女たちとの会話に夢中になっていた。いつもならばとっくに帰宅している時間を過ぎても、普段以上のハイペースでお酒を注文し続けた。ポケットの中で幾度も繰り返される携帯の振動音にはまったく気付かないふりを決め込んで。出来ることならなるべく遅い時間に帰り、極力蛍と言葉も交わすことなく眠ってしまいたい。そんな逃げ腰な気持ちが、彼に心配をかけまいとする良心や理性を覆い隠したのだ。
 帰る時刻を先延ばしにしたところで何の解決にも至らないことは承知の上だったが、いま顔を合わせたら私はきっと可愛げのない言葉を浴びせてしまうし、お互いに嫌な思いを上塗りするだけだろうという恐れに囚われていた。日頃すぐに気を荒げることはないものの、ひとたび仲違いをしてしまうとなかなか素直になりきれないところが、まさしく私の欠点だ。
 そしてそんな暴飲の結果、気付けば私は、最寄駅へ向かう途中の乗換経由駅のベンチに一人で座り込んでいた。どんなに記憶を手繰り寄せようと試みても、オフィスの最寄駅で同僚たちと別れてからの一切の記憶が見当たらなかった。
 そして、ぼうっとした頭で状況理解に努め出した瞬間、バッグの中の携帯が突然震えだしたのだ。うまく働かない思考のせいで、画面に表示された名前を確認するだけの理性はなかった。慌てて取った電話の向こうからは氷のように冷たい声が届き、私は一気に現実へと引き戻される感覚を味わうことになる。ただでさえ、朝もほとんど口をきかぬまま出勤してきたのに、まさかこの状況を余計に悪化させることになるなんて。


 通話が切れると、携帯画面には新着の着信通知が一気に表示された。そこに幾つも連なる、月島蛍という名前。
 繰り返すようだが、私は今まで夜遊びなんてほとんどしたことがない。遅くとも、バスの最終時刻には必ず間に合うように帰宅していた。それゆえに、蛍にはさぞかし心配をかけたに違いない。その上わざわざ迎えに来てくれる徒労を思えば、ありがたく、あるいは申し訳なく思う気持ちは確かにあった。けれどその一方で、まだ昨日の軋轢を許せないと思う気持ちが拭えずにいることも、また事実だった。
 雨足はどんどん強まっている。ない交ぜになった感情の渦の中で、記憶に残る同僚たちとの談笑の余韻が嘘のように、私の心は冷え切っていった。




 受話器越しの冷やかな声を聴いてから、どれくらいの時間が過ぎただろうか。しばらく駅前で佇んでいると、ほの暗い視界の中に見慣れた水色の軽自動車が滑り込んできた。ヘッドライトの光が、雨に濡れたアスファルトに反射して視界をぼやかす。暗闇に慣れきっていた両目は、その鋭く瞳を刺す眩しさにくらんでしまう。
(――ああ、蛍だ)
 うすぼんやりと光に照らされた運転席に彼の顔を見とめ、私は寂しさから救い上げられた安堵と、この後に直面する避けがたい気まずさへの恐れの間で板挟みになった。二律背反の感情は、きりきりと胸を締め上げる。
 蛍と顔を合わせるのが怖い。その口からどんな言葉が発せられるのかを考えるだけで怖い。
 けれど、目の前に横付けされた車から逃れる術などあるはずもなく、私はすぐに小走りに近づき、震える手で助手席のドアに手をかける。運転席を覗きこむと、色素の薄いダークイエローの瞳が私を見上げた。息が詰まるほど、その視線には温度が感じられない。
 私がシートに腰を下ろし、シートベルトに手をかけている時も、蛍は一切口を開かなかった。顔を合わせた瞬間、矢継ぎ早に叱責を浴びせられることを覚悟していた私は、逆に面食らってしまう。
「……蛍」
 恐る恐る名前を呼ぶと、彼はサイドブレーキに伸ばしかけていた手を止めて、再び視線だけをこちらによこした。
「あの……ごめんなさい。迎えに来てくれて、ありがとう」
 勿論、その言葉は嘘じゃない。けれどそれは自分の居たたまれなさを解消したいがため、あるいは彼の怒りの度合いを量るための切り札に近かった。今の私には、昨夜の出来事を全て水に流して、彼に心から手放しの謝罪を述べられるだけの余裕がなかったのだ。脳裏に蘇る昨夜の場景と子供じみたプライドが、彼に心から詫びるべきだと主張する倫理観を妨げる。
「……」
 そんな私の心を察し取ったのかは定かでないが、蛍は私の謝罪には応じず、依然として黙り込んだままアクセルを踏み込んだ。
 私はそれ以上言葉を続けることもできぬまま、シャツの裾を握り締めてとうとう俯く。いつもならば、運転する彼の横顔や、首筋に浮き出た喉仏、あるいはハンドルを握る大きな手に見惚れすぎて嗜められるほどだったが、今日ばかりは膝に落とした視線をあげることができない。狭い空間の中に流れる沈痛な空気が重かった。
 居心地の悪さに耐えかねて、身体を窓のほうへ向ける。窓の外は明かりもまばらで、並び立つ店のシャッターもとうに閉まっている。暗がりの中で、バンパーの規則的な動作音と、雨粒が窓を叩くひそやかな音だけが私たちの間に横たわっていた。




 家に着くころには雨足はさらに強まり、もはや傘も本来の役割を成さないほどの大雨が降り注いでいた。蛍は、アパートに着いて家のドアを開けるが否や、さっさと靴を脱いで、私に見向きもせずに寝室に向かってしまった。
(…やっぱり、めちゃくちゃ怒ってる…)
 彼は日頃から大層な皮肉屋で、意地悪や小言を言う時はここぞとばかりに弁才を発揮する男だけれど、心の底から怒った時にはその饒舌さが嘘のように押し黙ってしまう。高校時代からの付き合いの私でさえも、そんな姿を目にすることは極めて稀だった。
 今しがた脱ぎ捨てられたばかりの、蛍のオリーブグリーンのスニーカーを見下ろす。叩きつけるような強雨のせいで、駐車場からアパートの玄関までの僅かな距離を歩いただけでも、その布地は雨水を浴びて重く色付いていた。無論、私のスエードのパンプスもじっとりと湿っており、水気を吸ったストッキングに包まれた足指にはぐずぐずと不快感が纏わりついている。
 私は、このまま玄関かドアの外で眠ってしまいたいと思った。これほど怒りに満ち満ちた蛍と一つ屋根の下、同じ部屋で眠ることがたまらなく怖かったのだ。
 とはいえ、それを実際に行動に移す勇気は微塵もない。そんなことをすれば、尚更彼の機嫌を損ねてしまうだろう。眉間の皺をさらに増やしながら文句を連ねる姿は容易に想像できた。
 いつまでも突っ立っているわけにもいかないため、玄関に一人残された私も、遅れてパンプスを脱ぎ捨てる。半ば自暴自棄になりかけていたが、「後で蛍に怒られないように」という理由から、靴を綺麗に揃えることは忘れない。こんな時でもそんなところに意識がいってしまう自分が滑稽に思え、なんだか笑えてしまった。長らく噤んでいた口を少しだけ開き息を吐くと、そこで初めて、自分の喉がからからに乾ききっていることに気が付いた。数時間前まで摂取していたアルコールの熱は、とっくに冷め切っている。


 リビングに続くほんの数メートルの廊下は照明がついておらず真っ暗で、それは私の心に淀む惨めさをより色濃く助長する。重い足取りでリビングのドアをくぐり電気をつけると、視界にあるダイニングテーブルの光景に真っ先に目を奪われた。
 思わず瞳を見開く。
 そこには、ラップのかけられた料理皿がいくつも並んでいる。固焼きの卵で丁寧に包まれたオムライス。スープカップになみなみと注がれたビシソワーズ。玉ねぎのたっぷり乗ったタコのカルパッチョ。キッチンコンロにかけられた小鍋からは、恐らくオムライス用に作られたであろうデミグラスソースの香りが漂ってくる。――これって。
 すべて、私の好きなものばかりだ。
 動揺しながらも、ひとまず喉の乾きを潤さんと思い冷蔵庫を開ければ、そこには見慣れた白いパッケージが控えめに鎮座していた。白い厚紙の箱に印字された金色のロゴ。それは私が学生時代から好んでいるケーキショップのものだ。逸る気持ちで箱の中身を覗けば、そこには私がとりわけ好きなレモンのムースケーキが二つ、中央に絞られた生クリームのひとかけさえ少しも崩れていない状態でそこにあった。
(――あ、やばい、泣きそう)
 そう思った時にはもう遅かった。鼻の奥が鈍く痺れ、それに伴うように目頭に熱が集まる。ゆっくりと一瞬きすれば、堪えようと強く噛み締めた唇の痛みも空しく、ぼろぼろと涙が頬を伝っていった。一度緩みきった涙腺をどうすることもできずに、せめて一刻も早く止めようと歯を食いしばる。
 彼の考えが手に取るようにわかってしまい、ようやく私は、己の行動を心から悔いた。
 蛍は、私と仲直りをしようと思ってくれていたのだろう。そのために、きっと普段以上に急いで仕事を片付けて、わざわざ仕事場とは反対方向の隣町まで足を運んでケーキを買って帰り、わざわざ好きでもない調理をして、私の好きな料理を沢山こしらえて。
 普段から食に無頓着な彼は、この料理を作っている時、一体どんな気持ちでキッチンに立っていたのだろうか。私が仕事を終えて玄関のドアを開ける瞬間を、どんな気持ちで待ち続けてくれていたのだろう。

「…なんで君が泣いてんのさ」

 振り返れば、淡い緑色のTシャツ(いつかの夏に一緒に行ったロックフェスティバルの会場で購入したものだ)に、ゆったりとした紺のスウェットパンツという、ラフな部屋着に身を包んだ蛍が立っていた。そこでようやく私は、彼が先ほど自室に向かった理由を理解する。先ほどまで彼が着ていたはずの濡れた衣類は、今頃脱衣所の洗濯かごの中に無造作に放られていることだろう。
 ほら、と箱ごと手渡されたティッシュを受け取るかわりに、「蛍」と静かに名を呼べば、彼の表情はいささかむず痒そうに歪んだ。
「蛍、ごめんなさ…っ、心配、かけて、」
 今度こそ、心から素直に謝罪の言葉を口にできる。すると、昨夜から胸に吹き荒れていたあらゆる感情が堰を切ったように溢れ出し、涙が止め処なく頬を濡らした。再び泣き出した私を前に、蛍はどこか肩の力が抜けたような様子に見えた。彼はこちらに一歩近づいて、目元を忙しなく拭う私の手をやわい力で握り、そのまま腕をぐっと引っ張った。私はその心地よい力に身を委ね、一足先にソファに腰を下ろした彼に促されるように、自らもそれに倣う。
 ああ、こんなにも簡単に、淀み切った気持ちがするするとほどけていく。
 彼の胸に身を預け、嗚咽が収まるまで呼吸をひそめている間、その大きな手は片時も休まずに私の背中をさすり続けてくれていた。
「…怒ってるよね」
 ようやく息も整い、私は緩慢な動きで蛍の目を見上げてそう訊ねる。涙は引いても鼻声だけはごまかせず、発した声は存外低くこもっていた。こちらをじっと見下ろす彼は、くぐもった私の声を拾い上げた後、やがて僅かに目を細めた。
「怒らないほうがどうかしてる」
 すかさず返された言葉はやはり予想通りだったものの、その声音は先ほどよりもずっと柔らかい。
「日付変わっても帰ってこないし、電話にもでないし。どれだけ心配したと思ってるの」
 いつもの、朝霧に包まれた湖のように静かな声だ。電話越しに伝わってきた刺々しさも冷たさも、もうどこにも存在していなかった。はあ、と低音のため息が続くものの、その調子は怒りよりも呆れの色に近いものだった。
「どうせ僕と顔を合わせたくなくて帰る時間を遅らせてるうちに、夢中になって飲み過ぎたんだろうけどさ」
「わ、わかっていらっしゃる…」
「そりゃあ当たり前でしょ」
 何年一緒に居ると思ってんの。私の手のひらを握りながら呟くその声がとても優しいので、私はまるで母親に背をさすられた赤子のように穏やかな気持ちになり、ごめんなさい、と再び呟いた。するとややあって、僕もごめん、と小さな声が返ってくる。躊躇いがちなその謝罪はあまりにも突然で、私は面食らってしまう。
「えっ…?」
 まさか、このタイミングで彼の口から謝罪の言葉が飛び出すなど予想しておらず、私は思わず反射的にそう聞き返してしまった。
「…言わなきゃわからない?」
 少しは察してよ、ともどかしげな顔をしながら、それでも彼は私の目をしっかりと見つめている。
「……ずっと君を不安にさせてたこと、反省してる。 …自分の忙しさにかまけて、今まで以上に無意識に君に甘えてたんだと思う。ごめん」
 蛍の視線や言葉からは、真正面から向き合おうとする確かな誠実さが伝わってくる。心臓がきつく締め付けられるような思いだった。
 先ほどまで私の手をすっぽりと覆っていた蛍の硬い指先が、そのまま二の腕へと滑り、ふたたび彼は私の身体ごと自分の胸元へ抱き寄せた。そして掠めるように唇を合わせた後、その大きな背中を丸めて、私の肩口に顔を埋める。蛍が呼吸を繰り返すたびに、細く柔らかいクリーム色の髪が私の首元をくすぐった。そのこそばゆさに身悶えをしそうになっていると、彼の口がふたたび開かれる。「昨日はうまく言えなかったけど、」
「…ちゃんと大事だから、のこと。……好きだよ」
 表情は読み取れずとも、耳元で伝えられたその言葉にどれほどの熱が込められているかは、すぐに理解することができた。
 蛍の胸板も、そこに押し付けられた自分の頬も、何もかもが熱かった。そういえば、クーラーのスイッチを入れ忘れていたことにようやく気が付く。こんな暑い空間で、こんなに熱い身をいつまでも寄せ合っていたら、互いの身体ごとすぐに蕩けてしまいそうだ。
 もう少ししたら、冷房をかけた部屋で、彼の作ってくれたごちそうを楽しもう。食後には、冷蔵庫できんきんに冷えたムースケーキを食べよう。居酒屋で存分にお腹を満たしてきたはずなのに、今の私は驚くほど空腹を持て余している。のちに彼と囲む食卓に想いを馳せるだけで、昨晩の鬱屈とした気持ちも、先ほどまで感じていた心細さや緊張も何もかも、容易に手放すことができた。
 窓の外では、地面を打つ雨音が止まない。それでも、今は耳元に彼の鼓動の音がある。先ほどまで降り注いでいた孤独や苛立ちもすべて溶け落ちてゆく。まるで熱にあてられたバターかなにかのように、あまりにも簡単に。今度こそ、携帯電話の電波にも雨にも邪魔をされない。彼と繋がっている感覚は、何物にもかき消されることなく、確かにここにある。