ALIVE

 暗い道が続く。
 空にかかる黒の天幕は、月星の姿も覆い隠した。
 どこへたどり着くとも知れぬ道を、はたった一人で歩く。
 足元を照らす明かりもない。せめて、隣りを歩いてくれるだれかが欲しかった。

「おい、くん」
 上司がおいと頭につけて呼ぶときは、何か用事を言いつけるときだった。
 はノートパソコンのキーを叩く手を止めた。できれば行きたくたかったが、かといって無視するわけにもいかない。返事をしながら席を立つ。
「なんでしょうか?」
 デスクの前に寄るなり、書類を突き出された。五十枚ほどの束だ。
「これ二十部ずつコピー頼むよ」
 とりあえず受け取り、一枚目をざっと斜め読みする。見覚えのある文章が並ぶ。
「課長。同じものをつい三日前にコピーしましたけど」
「ああ。あれね、計算が間違ってて、何箇所か書き直してるんだ」
「訂正したのはどこですか?」
 がデスクの上に書類を広げようとするのを止め、上司はぱたぱたと手を振った。
「だめだよ。手間がかかりすぎる。とにかく、全部コピーし直してくれればいいから」
「私もそうしたいんですが、先月も総務から注意を受けてるんです。コピーの使用量が多すぎると。倹約を徹底するよう、指示がありました」
「あー、それじゃあさあ」
 もっともらしく考えるふりをしながら、口元には笑みを浮かべる。
「きみが間違ってコピーしたことにしといてよ」
「な……そんな、困ります」
「いいじゃないか。どうせ結婚までの腰掛けだろ、きみらOLは。俺たちは出世がかかってるんだから、出世が。今度、何かおごるからさ」
 の頭にはさまざまな抗弁がのぼり、胸には不満がつかえる。こぶしを握り締めたが、それだけだった。結局、ひとつも反論できない。
 不条理な上司に、そして何よりも不当な仕打ちに歯向かえない自分に苛立ちながら、苦い声でつぶやいた。
「結構です。要りません」
 きっぱりと申し出を断る。それが弱者にできる、唯一の抵抗だった。
 まるでそんなの心中などお見通しだとでもいいたげに、上司は口端をわずかに上向け、意地の悪い微笑みかたをした。
「あ、そう」
 は書類をひったくると、コピー機へ直行した。荒々しい手つきで作業を進める。
 ふたりの会話を耳にした女子社員の白い目が、上司に集中する。それを本人は知ってか知らずか、いちばん近くの席の女子社員に湯飲みを差し出す。のんきな態度だ。
 女性の社会進出が叫ばれて久しい昨今にも関らず、男尊女卑を匂わせる言動が多い。
 とんだ時代錯誤の上司に、をふくむ女子社員たちはすっかり倦みきっていた。

 四十分ほど電車に揺られ、改札口を抜ける。
 歩くたび足腰が軋んだ。毎晩湿布を貼っても改善しない。休息でやわらぐ痛みより、新たに蓄積する疲労がずっと多いせいだろう。
 胸には鉛の詰まった感覚がある。上司や職場の単調さに思いをはせると、重みが増した。こちらは湿布を使った応急処置もできない。手の施しようがなかった。
「ああ、辞めたい」
 の漏らしたつぶやきは、闇夜の静寂に吸い込まれ、霧散していった。すっかり口についたひとりごとだ。
 彼女は入社以来、あたりにだれもいなくなると、気がつけば退社への願望をこぼしている。あまりに現実味のない話だった。
 は華々しい学歴を背負っているわけではないし、企業が競って採りたがる才気を発揮できるわけでもない。凡庸な人間には、怠惰な環境と雑用の山がふさわしい。
 そしてその事実を、自身だれより自覚している。わかっているからこそ、明日がくれば湿布の臭いをシャワーで流し、満員電車に飛び込むのだ。
 今日は火曜だ。土曜までの日数を数えて、はため息をついた。
 ふと目に乾きを覚えて立ち止まる。ちょうど公園の前を通りかかったところだった。
 は瞬きを繰り返しながら、視界の端に一人の男を見かけた気がした。白いシャツがかろうじて暗闇にまぎれこまず、うっすらと浮かび上がっている。
 彼はベンチの上に膝をたてる、奇妙な座り方をしていた。
 はすぐにほかへ視線を移す。万が一こちらを振り向かれ、図らずも見交わしてしまったら、難癖をつけて絡まれるかもしれない。
 はひとり歩道にたたずながら、いったんコンタクトレンズを外した。目薬を点眼する。おもむろに瞬きを何度か繰り返してから、手鏡をのぞきこんだ。
 あらためて付け直そうとして、手元が狂った。コンタクトは目の縁にぶつかり、その反動で指先から転がり落ちていった。
 はあわててその場にしゃがみ込む。ストッキングが汚れるのも構わず、膝をついてあちこちに目を凝らした。
 もともと魚の鱗ほどしかない大きさの上に、この暗さだ。探し出すのはかなり困難だった。
 行き交う車のヘッドライトがときおりを照らす。尾を引きつつ遠ざかる走行音が、心に募る虚しさを煽った。の目じりに水滴が溜まりはじめる。地面に這ういまの姿勢が惨めで、情けなかった。
 いつもこんなふうだから上司にもあごで使われるのだと、自分をふくむ世界すべてに絶望した。震えたくちびるから、途切れがちな吐息が流れ出た。そのときだった。
「何かお探しですか?」
 突然、頭上から声が落ちてきた。あわてて顔を上げる。
 一人の青年が視界いっぱいにおさまった。夜空と同じ色合いの黒髪に、凍えた月を思わせるほど真っ白な肌。やけに血流の悪そうな目で、をじっとのぞきこんでいた。
 ベンチに座っていた男だ。
「ちょっと、コンタクトを」
「落としたんですか?」
「ええ」
「私も一緒に探しましょう」
 の返事を待たずに腰を落とした。上半身を屈め、コンクリートに手をつき、注意深く視線を走らせる。
「大丈夫です。お構いなく」
「視力は?」
 急な問いかけに、はいったいどんな意図があるのか量りかねながらも、とっさに答えを返した。
「0.1ですけど……」
「眼鏡は持っていますか?」
「いえ、自宅に置いてきたままです」
 普段から持ち歩かない。今日も自宅の引き出しに、ケースごと放り込んであるはずだ。
 青年は一度顔を上げた。の怪訝そうな視線を真っ向から受け止める。額を隠している長い前髪が、まつげにかかった。
「大丈夫じゃないじゃないですか」
「ええ……そうなんですけど」
 それきり青年は黙り込み、再び地面を熱心に見まわしはじめた。
 は少々困惑する。見知らぬ人にここまで協力してもらうのは気が引けるが、かといってなくした当人がただ手をこまねいているわけにもいかない。とにかく自分も探そうとうなじを垂らしたときだった。
 青年が手を置きなおした際、運悪くコンタクトを下敷きにしたらしい。プラスチックの砕ける、かすかな音がした。
「…………」
 沈黙が流れる。ふたりとも顔を上げようとしない。しばらくして、のほうから口をきいた。立ち上がりながら言う。
「ええと、探してくださってありがとうございました。割れてしまった以上仕方ありませんので、もう結構です。本当にありがとうございました」
 が深々と頭を下げている間に、青年も腰を上げた。ひどい猫背のせいで、さほどと変わらぬ背丈に見えるが、実際はかなり長身だろう。
 彼は細い首を捻って、厚い雲の重なる夜空を振り返った。
「すみません。この暗さでは、コンタクトなしで帰るのは難しいですね」
「いえ、そんなことありません。道は把握してますし、片目ははっきり見えますから、大丈夫です」
「でも危ないでしょう。帰るのは簡単でも、それまでに転倒してけがをしたり、車や自転車の接近に気づかず、重傷を負うことになるかもしれません」
「……それはさすがに」
 口ではそう否定してみせるものの、強い調子で警告されれば、さすがに不安になってくる。
 はちょっとのあいだ迷ったが、やむをえずタクシーを呼ぶことにした。こんな真夜中に地面に這いつくばる自分を見て不気味に思うわけでもなく、何か困ったのかと声をかけてきてくれた青年の好意に報いたかった。
 車で帰宅すると知れば、彼も安心するにちがいない。スマートフォンを取り出す。
「わかりました。では、タクシーで帰ります」
「タクシーですか。それなら心配ありませんね」
 青年はうなずき、がタクシー会社へ連絡するのを横で見ていた。通話を終える。
「五分ほどで車を寄越すそうです」
 受け付けの言葉を、そのまま青年に伝えた。
「そうですか」
「あの、本当にありがとうございました」
 重ねて礼を述べる。
 としては別れの挨拶のつもりだったが、青年は立ち去る気配を見せない。くちびるの先に親指を押し当て、車道を駆けるヘッドライトの残像を目で追っていた。
「もう大丈夫ですよ、私は一人で」
 の隣に並んだまま、淡々とした口調で言う。
「いえ、そういうわけにはいきません。コンタクトを壊したのは私ですから、タクシー代を払わせてください」
「いえ、そこまでしていただくわけには。それに壊したといっても、あなたは善意で私に協力……」
「竜崎です」
 唐突に話の流れを遮られ、は一瞬戸惑った。反射的に聞き返す。
「え?」
「私は竜崎といいます。そう呼んでください」
「……竜崎、さん」
「はい」
 青年こと竜崎は満足そうに返事をして、大きくうなずいた。再び車道を見やる。
 はタクシー代に話を戻そうとしたが、それより早く竜崎が口を開いた。
「コンタクト代もお支払いしなければいけませんね。五万円あれば大丈夫ですか?」
 言うや否やポケットに手を突っ込み、裸の紙幣をつまみだす。折り曲げてしまわれていたのは、どれも万札ばかりだった。五万円をに差し出す。
「いえ、結構です。受け取れません」
 強くかぶりを振りながら、両手を突き出して受け取る意思がないのを強調する。
 彼女からすれば感謝こそすれ、弁償してもらう道理がなかった。竜崎がいなくとも、彼女がコンタクトを踏み潰したかもしれないし、見つけられたとも限らない。
「そうですか」
 口ではそう了解してみせたものの、竜崎は紙幣を引っ込めようとしない。淡々とした口調で続ける。
「ではタクシー代は受け取っていただけますね?」
「え? いや、あの、どうして?」
「せめてどちらか受け取っていただかなければ、私の気がすみません」
「……いや、でも悪いのは私ですし」
「タクシー代と五万円、受け取るとすればどちらがいいですか?」
 強引な話の運び方に、はつい答えをかえしてしまう。
「そ、それならタクシー代のほうがまだいいですけど……」
「ではタクシー代をお渡しします」
 手にしている万札から四枚を取り下げ、残りをあらためて差し出す。
「え!? いや、お受けできません」
「受け取ると言ったじゃないですか」
「言いましたっけ?」
 は自分の発言を思い返す。しかし考えをめぐらせているあいだに、竜崎が強引に紙幣をつかませてきた。あわてて手を引くが、そこには皺の浮かぶ一万円札が握られている。
 竜崎は得意げに眉を上げた。我を通して気がおさまったのだろう。タクシーが現れたのをしおに、きびすを返した。
 そのまま歩き去ろうとして、一歩進んだところで思い直す。おもむろに振り返り、どこか疲れた様子で首をかしいだ。
 喉元には頚骨の形をした影が差し、白い肌との明瞭なコントラストを呈している。
「……ああ、そうでした。あなたのお名前をうかがってよろしいですか」
 はタクシーのドアを開きながら、肩越しに名乗った。
です」
「ありがとうございました」
「いえ、こちらこそ。ありがとうございました」
 最後にもう一度低頭し、車に乗り込む。姿が見えなくなるまで見送るつもりなのだろう。車が走り出しても、バックミラーに映る竜崎はこちらをずっと見つめていた。
 しかしそれもやがて遠ざかり、小さくなって、ついには見えなくなる。
「……光」
 のつぶやきはだれにも聞かれることなく、車内の底へ沈んでいった。
 月星さえ身を隠す夜空の下で、遠目にもほのかに浮かび上がって見えるほど、彼の肌は浩々としていた。きっと彼に先導してもらえば、道を誤ることもない。疲労で血の巡りの停滞した頭の隅を、そんな考えがちらとよぎっていった。

 一方、すでに車の走り去った方角を、竜崎はなおもながめている。排気ガスのかすかな匂いを感じながら、くちびるを緩く開いた。口腔内に声がこもり、くぐもったひとりごとになる。
「光、ですね。まさに」
 竜崎がの何を指してそう呼ぶのかは不明だった。けれども彼は、ひどく上機嫌だった。傍目には無感動に見えるが、口元をほんのわずかにほころばせ、満ち足りた表情をしていた。
 だれかを助けたいわけではない。もちろん感謝して欲しいわけでもない。ただ彼は正義を体現したかった。自分こそ悪の最後にして最大の難関であると胸を張りたかった。
 けれども、正義を自称する彼がたった一人なのに対して、地上を徘徊する罪人の数はあまりに多すぎた。日々彼でなければ解決をみない事件が舞い込み、分刻みに集約される情報は果ての見えないほど膨大で、真偽を問うのが煩雑になるほど錯綜する。
 四方をモニタに囲まれた密室で、彼はひたすら情報を選別し、真理へ至るたった一本の道を掻き分けていく。
 だれに感謝されたいわけでも、日々の激務を報いて欲しいわけでもない。ただときおり、半ば発作的に不安になることがあった。だれにも名乗らず、だれの目にも触れない生活が続く。自分は果たして生きているといえるのか。
 そんな問いかけが抑えようもなく胸にせりあがり、竜崎の聡明な頭脳に鈍痛を響かせる。ただ存在しているという事実のみで実存を証明できるのではなく、他者と交流し、他者に知覚されることによって存在たりうるのだとすれば、竜崎は地上をさまよう亡霊でしかない。
 すっかりルーチンワークと化した日常を、今しがた出会った女性がせき止めてくれたと、そう思った。久しぶりに人と話した感覚は、竜崎に少しの感動と、郷愁にも似た不思議な気持ちをもたらした。
「おそらくは仕事の帰り。ということは確実に明日も……」
 彼は親指の爪先に舌をあてながら、そんなことを考えた。

 竜崎の読みはあたった。次の日以降も彼女は公園の前を通りかかった。呼びかけると、のほうでも気づいて笑顔を見せた。
 ふたりは公園のベンチに腰掛け、はじめのうちはぎこちなく、徐々に打ち解けて語り合った。
 だから竜崎は毎晩、土日でおそらく彼女が来ないとわかっていても、それでも出かけていった。
 どこへ、なんの用で外出するのか知りたがるワタリに、竜崎は澄ましてこう言い返した。
「彼女が笑ってくれるんですよ。……行かないわけにはいきません」
 無論、捜査はおろそかにしていない。日中に眩暈を起こすほど頭を酷使し、時間の都合をつけた上でホテルの密室をあとにした。
 外気に触れながら、暗い空の下、彼女と並んで談笑すると、自分は生きているという実感が湧きあがる。
 竜崎はいまや自由を掴み、囚人ではなくなった。彼にとっては、さしずめ自由の象徴であり、彼女と過ごす時間は、有意義な無駄そのものだった。
 竜崎は、あらゆる知識を蓄えたはずの頭脳に、いま新たな事実を書き加える。意味のないことにこそ意味がある。あらゆる状況において通じる言い分ではない。無意味はどこまでいっても無価値でしかないことも。往々にしてありうる。
 それでも自分に必要だったのは無駄な時間だったのだと、そう悟らずにはいられなかった。
 はある日、弱々しい街灯にその横顔を照らされながら、力なく微笑んだ。光に淡く縁取られた輪郭をきれいだと思いながら、竜崎は黙って耳を傾ける。
「毎日が退屈で仕方なかった。……もういやで、何もかもいやで、でも何よりいやなのは自分。全部嫌いなのに、戦うことも、逃げることも出来ずに身をすくめるばかりの自分。変化を恐れている自分。でも、あなたと話していて少しわかった気がする。きっとあなたは強い人なんだね。……うん、私と違って、いやなことはいやだってはっきり言えて、したいと思ったことをためらいなく直視できる人。私もそういう人になれたら」
「同じ人間ですから、私もあなたもそう変わりませんよ」
「そうかな……。そういえば」
 は何か思い出した様子で、竜崎を振り返った。
「はじめて会ったとき、公園で何してたの?」
「ああ……そのことですか」
 竜崎はどこか物憂げな目を、夜空に投げかけた。瞳と空、双方の漆黒が重なり、どんな光をもってしても砕けぬ深淵が浮かび上がる。
「光を探していたんですよ」
「……光を?」
 は過日の自分のつぶやきを思い出して、意外そうに尋ね返した。
「はい。星が出ないかと期待していました」
「残念だったね。……今もこの通り、星なんて出ないよ」
 面白くなさそうに空を仰ぐ。隅々まで雲に覆いつくされ、一筋の月明かりすら差し込まない。まるで地上を照らすのを頑なに拒んでいるようだった。
「いえ。そうでもありません。星には出会えませんでしたが、光は見つけました」
 は頬のあたりに視線を感じて、竜崎に向き直った。ひたむきな眼差しで、まっすぐにを見つめている。竜崎の暗い、あらゆる光を跳ねのける瞳に、一瞬きらめきがちらついた。
 それがいったいなんだったのか、にはわからない。街灯の明かりが入り込んだのかもしれないし、竜崎の精悍な顔つきが見せた錯覚かもしれない。
 それでもは、たとえ幻影でも、光を見つけた。竜崎が手を握ってくるのを許す。彼の手は骨ばっていて、冷たい皮膚をしていたが、心に安らぎを与えてくれる、不思議な感覚がした。
「一緒に歩きましょう。この手を離さなければ、私たちはひとりになることはありません。……道を踏み外してもいい。道なんてものは、人が歩いたあとに勝手にできるものです。行く手を照らす光はありませんが、そんなものは要りません。もっとまばゆく、あるいは弱々しいかもしれませんが、何よりいとおしく思える光に、私は出会いました。……あなたはどうですか?」
 は二、三回うなずく。そのたび竜崎の手を強く握りなおした。
「私も見つけた。きっとこれがあれば、私は歩いていけると思う。傷だらけになっても、道に迷っても、歩いていける」
「こうして手を握っていましょう。どちらがどちらの手を引くのではなく、ふたりして迷って、途方にくれて……。それでも私はいいと思います。正しい道なんて、きっとだれにもわかりませんから」
「うん……」

 竜崎とはじめて会った日から一ヶ月ほどが経ったころ。はいつものように上司のデスクに呼び出される。
 彼は湯飲みに溜まっていた茶を飲み干し、に突きつけてくる。
「お茶頼むよ、くん」
 は間髪いれず言い返した。
「ご自分でどうぞ。子どもじゃあるまいし、お茶くらい入れられるでしょう」
 上司の顔色が変わった。歪んだ頬とくちびるの震えが、噴火の兆候を示している。
「どういうつもりだね、くん。きみはいつからそんなにえらくなったんだ?」
 は片手を腰にあて、威圧的な姿勢で上司を見下ろした。
「それはこちらがお聞きしたいくらいです。せいぜい十数年長く働いてるからといって、何をそんなにえらぶってるんです? いろんな場面で誇示しないと保てないほど、あなたの上司としての権威は薄っぺらいんですか?」
!」
 その場のだれもが固唾を呑んで見守る。少なからずの境遇と自分を重ね合わせている女子社員は、皆一様に奥歯を噛み締めた。意志の動き始めた目をしている。
 怒声を浴びせられたは、けれどいささかも動じることなく、それどころか冷笑してみせた。
「大声で威嚇すれば部下を操縦できるとでも? ……バカらしい」
 凛と伸びた背中を上司に向ける。
 彼はのうしろ姿を忌々しげににらみつけた。唾棄せんばかりの顔つきで吐き捨てる。
「覚悟はできているんだろうな?」
 は振り向きざまに何かを投げつけた。薄いそれは上司の鼻先にぶつかり、デスクの上に落ちてゆく。封筒だ。
 そしてその表には三文字、たった三文字だが、彼女の強い決意の滲んだ文言が刻み込まれていた。退職届。
「覚悟という言葉がそれを指しているなら、どうぞお受け取り下さい」
 あっけに取られている上司を無視して、自分の席に戻る。私物をすべてまとめた。デスクに残ったのは、入社以来世話になったノートパソコンが一台だけだった。これは会社の備品だ。持ち出すわけにはいかない。
 会社にはなんの未練もない。もしそういった後ろ髪を引かれる感情があるとすれば、それはこのノートパソコンに対してだけだった。物に対する愛着。それ以上のものを、彼女はついに見出せなかったのだ。
 力強い足取りで歩き去る。だれにも別れは告げなかった。
 もう二度とすれ違うことのない同僚を横切り、廊下を突っ切って外に出た。
 長い間空を塞いでいた雲はどこかへ流れ去り、残っているのはいくつかの小さな塊。今夜ならあるいは、月星も顔をのぞかせるかも知れない。
 は会社を振り返ることなく、ただ前だけを見据えて進んでゆく。
 不安がないとえいば嘘になる。すぐに新たな仕事を探さなければいけなかった。明日からまたあちこち駆けずりまわることになるだろう。
 でも大丈夫だと思った。いまは隣にいないが、指先には確かな感触が残っている。
 
 独房のようなホテルの密室で、竜崎はモニタに目を凝らしている。機械的で単調な作業が続く。彼にはのように生き方を変えることはできないし、選ぶこともできない。
 それでも大丈夫だと思った。キーボードを叩くこの手は、確かに彼女の体温を覚えている。
 だから竜崎は忘れない。自分が生きた生身の人間であり、歩調を合わせてくれる人がいることを。

 距離を隔てた二人のつぶやきが、偶然にしては必然性を感じずにはいられないタイミングで、ぴたりと重なった。
「あなたという光を見つけた」
 だから私は生きるのだ。

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