いとしの足枷

 目覚めたとき、が見たのは壁だった。くすんだ、灰色に近い壁。それが四方八方を囲んでいる。見上げれば、遠くに天井があった。狭い割りに、天井ばかりが高い。
 彼女がいまいるのは、そんな部屋だった。
「……私、どうしてこんなところに」
 彼女は昨日、L――彼女の恋人であり、世界に誇る頭脳を持つ探偵だ――の滞在するホテルをあとにした。そこで、記憶が止まってしまう。次に思い出すのはもう、今し方見た壁の風景だった。
 外に出ようにも、鉄でできた頑丈そうな扉に行く手を阻まれる。
 は数回戸を叩き、扉の向こうに呼びかけたが、返事はなかった。
 どうしようもなくなって、その場にうずくまる。思い返すのは恋人の、Lの面差しばかりだ。生白い顔に、感情の見えない瞳、そのすぐ下に刻まれているひどいくま。
 どうしてこんなところにいるのか、その究明より、ここを出て外へ行きたい、その欲求よりも、切なる願いが彼女の心を揺り動かす。Lに会いたいと思った。ただそれだけだった。
 刹那、室外にけたたましい音が響いた。銃声だ。それも一度や二度ではない。何度も起こり、そのたび空間を震動させる。
 事態の危うさは、局外にいるにも伝わった。
 だが彼女にできるのは、せいぜい身の安全を祈りながら、身を竦ませることくらいだった。銃声がしなくなってまもなく、野太い男の声が響いた。
「犯人、射殺!」
「犯人の死亡を確認。……Lより通達、人質の保護を最優先」
「了解!」
 足音や声のちがいから察するに、少なくとも外に三人はいるようだった。叫んでいた内容から、彼らは何者なのか、そしてなぜがここにいるのかも、おおよそ解き明かすことができる。
 しかし、それらはにとってどうでもよい、瑣末な事柄だった。彼女の関心を引いたのはほかでもない、愛しい恋人を指すたった一字のアルファベットだ。
 まもなく、外側から扉を開く音がした。味方だろうと推察できても、緊張感から身を縮めるの前に、防護服で全身を覆ったふたりの人物が姿を見せた。
 うちひとりが、手にしたトランシーバーに向かって報告する。
「こちら突入部隊。L、人質を無事発見しました」
 通信機から、緊迫感をともなった声が漏れ聞こえる。
『了解しました。ただちに保護してください』
「了解」
 男は通信を終え、トランシーバーを横にいる片割れに預けた。部屋へ足を踏み入れ、しゃがみこんでいるを怯えさせないよう、ゆっくりと歩いてくる。の前までくると、そこに腰を下ろし、目線の高さを彼女に合わせた。黒いヘルメットに遮られ、男の顔立ちや表情は窺い知れない。
 彼は穏やかな声色で言った。
さんですね?」
 はかすかな違和感を覚えつつ、こくりとうなずいた。
「私たちはあなたを保護しにきた救助隊です。もう安全です。どうぞ、安心してください」
 男の示す配慮に相槌を打つ一方で、は目を細め、疑わしげに彼の顔をながめた。無論、ヘルメットで隠れているため、何ひとつ確認できない。そうわかっていても、観察せずにはいられなかった。
 ことさら注視された男は、あたかも決まり悪そうにうつむいた。くちもとから苦笑をこぼす。聞き覚えのあるそれに、はようやく確信に至り、いかにも怖かったのだというふうに、男の首に腕をまわしてすがりついた。
 隣りにいた男が、ほかの隊員と何やら言葉を交わしだした。作戦が無事に終わり、互いにねぎらいあっているらしかった。ごく短いあいだではあったものの、ほかに聞かれないようささやきあうには十分だ。
 のほうから問いかける。
「Lね?」
「はい」
 小声でそう返したのは、突入部隊の一員に扮した彼女の恋人――L自身だった。
 それきり二人は口をつぐみ、被害者とそれを助けた救助隊員として振る舞い続けた。

 数時間後、は人質としては異例の早さで警察から解放され、ホテルの一室にいた。
 隣りには防護服を脱ぎ、白いシャツにデニムといういつものいでたちのLが座っている。彼からたったいま、詳しい経緯を説明されたところだった。
 はLの滞在していたホテルを出た直後、犯罪組織の末端に拉致された。事の次第を知ったLは、あらゆる機関および情報網を駆使し、一味の潜伏先を突き止めた。彼の名の指示で動く私兵に紛れ込み、L本人であるのを隠して、自らの救出に赴いたというわけだった。
 犯人連中はすでに射殺されたため、尋問することはかなわなかったが、その後の調べで真相は判明している。どうやらワタリが一度、たった一度ホテルに出入りしたのを偶然――あるいは都内全域のホテルに見張りを立てていたのか――発見し、Lとおぼしき人物が宿泊している部屋に見当をつけた。
 そこをたずねたをLの関係者と断定し、ロビーを抜けたところを拉致したということらしかった。
「……すみませんでした。すべて私の浅慮から生じた事態です」
 抱えていた膝を下ろし、そこに手をついて、頭を下げる。
 はあわててかぶりを振った。
「そんな、Lのせいじゃないよ。顔上げて。……そもそも、私がぼうっとしてたのがいけないんだし」
「いえ、本当に申し訳ありませんでした」
 重ねて謝罪しつつ、椅子から立ち上がった。デニムのポケットに手を差し入れ、背を屈めたいつもの姿勢できびすを返す。
「どうぞ、ゆっくり休んでください」
 ちょうど、リビングへ通じるドアにLが差し掛かったときだった。がためらいがちに呼び止めてきた。
 振り返ると、彼女は椅子の上で絶望の影の差した、物憂い表情をしていた。震える睫毛が痛々しく、今にも涙が溢れそうだった。
「……L」
「まだ落ち着きませんか、
「そうじゃないの。……あのね」
 はそこで言葉を切った。残りを口にするべきかどうか、彼女なりに思い悩む。長い逡巡の果てに、ずっと持ち越してきた結論を吐露する。胸のつかえが邪魔して、うまく呼吸ができない。
 痛みをこらえる表情をしながら、彼女は言った。
「別れよう、私たち」
 その言葉が放たれた瞬間、Lはさほど驚きはしなかった。ただつらそうに眉間をゆがめただけだ。いつか離別を告げられる日がくる。その予感をはじめに覚えたのは、いつのころか思い出せないほど、遠い過日のことだった。以来、Lなりに覚悟を済ませていたつもりだった。しかし、いざ目の前に突きつけられた現実の過酷さに、思わず目を背けそうになる。
 彼は自分の裸の足に目を落とした。恨み言、泣き言、どちらとも取れるつぶやきをもらす。
「……やはり、私のそばにはいたくありませんか。そうに決まってますね。あなたには、安全な生活が約束されている。それを諦めてまで、私を選んでくれるはずは、ありませんよね」
「ちがうよ」
「……何が、ちがうんですか?」
 は懸命に目を凝らし、打ちひしがれるLを見つめた。飽和する涙が邪魔で、彼の姿をとらえるのが難しかった。なるたけ誤解されないよう、言葉を選びながら、途切れ途切れに訴える。
「私は、私がLのそばにいることで、怪我をしても……死んじゃったとしても、それでいいの。私は、Lを好きだから。どんな運命に終わっても、満足できる。でも、嫌なの。私のせいで、Lが捜査の手を止めなくちゃならなかったり、不安に思ったりするのだけは、耐えられないの。……今回だって、私みたいな何もできない、守ってもらうことしかできない女が、Lのそばにいたから起こったことだし」
 彼女は、その凡庸な生い立ちに似合わぬ、冴え渡った瞳をする。決然たる口調で、言葉を継いだ。
「だから、私はあなたのそばにいないほうがいい」
「……それが、あなたの出した答えですか」
「そうだよ」
 Lは表情のない顔つきで、ドアの前を離れた。亡霊のような足取りで、に近づく。一歩踏み出すごとに、苦しげな呼気にまぎれた声を、少しずつ絞りだしてゆく。
「……あなたにはあなたの人生があります。私とあなたは別個の人間ですから、あなたが決めたことについて、私が過度に干渉することは、きっとルール違反なんだと思います。でも、言っておかなければ、今際の際に、後悔の奔流に押し流されるあまり、あなたの顔すらろくに思い出せないかもしれない。……だから、私は、あなたに伝えておかなければならないんです」
 Lは、のいる椅子の前で立ち止まった。どこか恭しい動作で、ひざまずく。天界の女神を仰ぐように、彼の何より大切な恋人を見つめた。
「願わくは、どうか、私のそばに。私に、あなたを守らせてください。こんな無力な私には、自分のことすら上手く運べない私には……そんな資格はないのかもしれない。けれど、それでも、私にあなたを守る権利をくれるなら、どうか、この手を取ってください」
 言いながら、差し出した手は、細かった。骨格の浮き出た、貧相で、頼りない手。そんな光景が、の瞳に映り込む。涙と、それが電灯を受けて放散するきらめきの中に、生白い手が、ただそれだけが紛れ込んだ。
 はくちびるを無力そうにわななかせ、横を向いた。
「だめだよ。私を、惑わせないで。もう、決めたんだから。Lの足枷になりたくない。その一心で、悩んで、苦しんで、ようやく決心したんだから。鈍らせるようなこと、しないで」
「是が非でも、鈍らせたいですね」
「……あなたは、私なんかのために生きる人じゃない。世界のために生きる人だよ。私が隣りにいたのが、そもそもの間違いだった」
「私は、世界のために生きるつもりなど毛頭ありません。私が生きるのは、あなたのために。たとえ私が生まれたことに、ほかの意味があったとしても。私はそれを捨てて、あなたのために生きることを選ぶ」
 は口を開いたが、そこから飛び出たのは、嗚咽だった。何か話そうとするものの、言葉は皆途中で潰え、喉に貼りついたまま、そこにとどまる。強く首を振って自制するが、止めようもなくLに引かれる衝動を、こらえることなどできなかった。半ば崩れ落ちるようにして、Lの手に触れ、そのまますがりつく。
「……え……る。L、L……」
 やっとの思いで言えたのは、それだけだった。Lの名を呼ぶ以外、どんな言葉も、には持ちえない。身体中を駆け巡る万感の思いを伝える術を、彼女は知らなかった。
、ありがとうございます。私を選んでくれて。何があっても、全力で守ります。いかなる危険もあなたから遠ざけ、万難を打ち砕いて、あなたを守り抜きます。私の存在は、ただあなたのために。私の言葉は、ひたすら誓いのために」
 小刻みに震える彼女の後頭部と背中に手をまわし、力いっぱい抱きしめる。どんなに強い引力が彼女を連れ去ろうとしても、けして奪われないだけの強さが、自分の腕にあることを信じた。
 彼が乞うのは、運命に対してではなく、自分の力に対してだ。神に祈りを捧げたところで、目の前に潜む危機は退かない。いま腕に抱く恋人を守るのは、ほかのだれでもなく、L自身だ。
 だから彼は鋭い眼光を宿して、前を見据える。闘わずして道は開けない。
 恋人たちの未来は、気の遠くなるような奮戦の果てに続いている。

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