きみのいない生活なんて

 はシャワーの熱のこもる身体をバスタオルでくるんだ。体重計に乗つ。示された数字に小首を傾げる。いったん下り、乗り直しても結果は同じだ。
 数秒遅れて、物憂い声が脱衣所に響いた。
「……さ、最悪」
 打ちひしがれてその場にしゃがみこむ。膝の上で軽く腕を組み、そこに顔をうつぶせにした。
 濡れた髪の合間から水滴がしたたり、額をゆっくりと伝い落ちてゆく。
「原因は……考えるまでもないよね」
 は長い息を吐き出した。ちょっと気を遣わないうちに体重が増加した理由は、彼女自身身に沁みてわかっている。
 ふと立ち上がり、脱衣所に併設された洗面台の前に立った。鏡の中に映る姿は、心なしか頬が膨らんだように思えた。
 胸の底に広がる悲愴感を、はあわてて打ち払った。固い決意を胸に脱衣所をあとにする。

 翌日。都内の某ホテル。
 明晰な頭脳に恵まれ、また努力を欠かさなかったおかげもあって、膨大な知識を得るに至った名探偵Lは、昨晩に済ませ損ねた雑務を一気に片付けていた。ときおり、パソコンの画面の右下に表示される時刻を確認する。十一時半を過ぎたところだ。あと三十分弱経てば、恋人のがたずねてきてくれる。
 途中で小休憩を挟んだとしても、十分仕事を終わらせることができる。前もって余暇を作った上で、恋人とのひとときを楽しむつもりだった。
 すでにワタリに頼み、二人で食べる予定の菓子も用意してある。上質なチョコレートをふんだんに使ったガトーショコラだ。L自身が食べたいというのももちろんあったが、恋人を喜ばせたいというのもまた本心だった。
 が喜ぶさまを想像していると、つい手が止まってしまう。
 もうすぐ現実の彼女を腕に抱けるのだからと、Lは自分自身を激励した。再び発光する画面に目を凝らす。
 二十分ほどが経過し、いよいよ最後の一山というところで、テーブルに投げやっていた携帯電話が鳴り響いた。からの着信だ。
 Lは着信音にこだわりはなく、たいてい購入時のままだが、彼女からの連絡はすぐそれと判断できるよう、ほかとはちがうものを設定していた。
「はい、
「L?」
 聞こえてきた彼女の声は、いつもとちがってどこか淡白だった。はにかみや照れくささといったものが一切感じられない。
 Lは不思議に感じながらも、とりあえず話を促がした。
「どうかしましたか? 
「今日、行けないから」
「……何かありましたか?」
「諸事情。しばらくそっちに行けないと思うから」
 突然すぎる展開に、携帯電話をつまむLの指先に力がこもる。焦慮をふくんだ声でたずね返した。
「どうしたんです、いきなり。理由を説明してください」
 の返答はない。電話の向こうにあるのは気まずげな沈黙だけだ。
 Lは重ねて問いかけようとするも、それより早くが話を切り上げた。
「それじゃ、そういうわけだから」
、少し待って……」
 引き止める声は、不通を意味する電子音に遮られた。
 一方的に通話を断ち切られたLは、呆然と椅子に座り込む。いったい何がどうなって、こんな事態に発展したのか、彼にはさっぱりわからなかった。
 かといっていつまでも抜け殻のままでいるわけにもいかず、今度こそ雑務を処理し終える。
 ようやく義務を果たしたころには、十二時をかなり回っていた。予定通りに作業が進まなかったのは、の奇妙な行動が気にかかり、集中できなかったせいだ
 Lは力の入らない身体を無理に押して、目の前のモニタに指を伸ばした。スイッチを切って電源を落とす。画面が暗転した途端、Lの胸裏にもほの暗い陰が差し込んだ。
 それは次第に濃く、はっきりと浮かび上がり、絶望感となって彼の気分を憂鬱にする。
「……いったい、私が何をしたっていうんでしょうか」
 答える者はおらず、弱々しいつぶやきは空気の中へ虚しく溶け込んだ。

 一方のは、早速綿密な計画を練り上げ、実行に移していた。
 これまで通常通り摂っていた食事の量を落とし、質も減量にふさわしく一新する。具体的には油脂や糖分を削り、代わってたんぱく質を多めに摂取するように調整した。
 自然と味気ない、簡素な献立ばかりになったが、何も永遠に続くわけではないと自分を慰めた。
 次に、食事制限だけで痩せるのは難しいため、適度な運動も開始する。正しい呼吸の仕方や走る際の姿勢を調べ、それらに注意しつつ、一時間のジョギングをおこなった。
 目標はLと出会う前の体重だ。これを機にもっとスマートになるのもいいかもしれないと野望を抱きつつ、彼女は息を弾ませながら歩道を駆けていった。

 そのころのLはといえば、重々しく垂らしていた頭を上げ、神経質な態度で爪をかじりつつ、あれこれ思索を広げていた。恋人を喪失するかもしれない不安と、募った疲労のせいで血の巡りが停滞することに苛立ちを感じながら、彼なりに推測と検証を繰り返す。
 まず彼が想像したのは、は自分から離れたがっているということだ。
 しかしどんなことにも理由ないし原因があるとの前提に立てば、今回の一件にも彼の知らない何かがあると考えるべきだった。
「まさかがほかの男と……。いや、そんなことはに限って。絶対あるわけありません」
 見知らぬ男の幻影から目を背けるように、Lは睫毛を伏せた。
 別の可能性について思案をめぐらせる。
「なかなか会うことのできない私に嫌気が差した、とか……」
 つぶやいた直後、強くかぶりを振って全力で否定しにかかる。
 確かに二人が会う機会は限定されているものの、が会いたいと強く望んだときはLもなんとか時間をつくってきた。
 そうした自分の誠実さは彼女にも必ず伝わっているはずだ。ゆえにこの線はないと決めつけ、新たな推測に移る。
 しかし手がかりがないに等しい状況で、の微妙な心理に気づけるはずもない。
 結局自分自身で挙げた仮定を否定する十分な根拠すら見出せず、たどり着く結論はいつも同じだった。すなわち、が自分と距離を置こうとしている。
「……そんなことになったら、私は」
 Lは思いつめた様子で、抱え込んだ脚をいっそう強く握り締めた。楽観的な考え方をしようと試みる端から、不吉な予感が胸をせりあがってくる。
……。私がいったい何をしたっていうんですか」
 足元には何度となく手を伸ばしながら、結局一度も触れていない携帯電話が転がっている。に連絡し、事の次第を問いただした結果、もっとも恐れている未来が待ち受けていたらと考えると、Lは真相を確かめる勇気を持てない。
 世のあらゆる真理を導き出し、どんな現実も、真実も真っ向から見つめてきた彼にふさわしくない態度だった。
 テーブルに置きっぱなしの洋菓子に手をつける気力すら持てず、Lは泣きたい気持ちでくちびるを引き結んだ。

 いつもよりずっと質素な夕飯を済ませたは、いまひとつ満腹感を得られないことにストレスを覚えつつ、疲れた身体を浴槽に浸していた。
 やや温めの湯が心地いい。半身浴でもすれば疲れも取れ、ダイエットにも役立つ。まさに一石二鳥だと思いついたあとで、Lのことが脳裏を横切った。一方的に約束を反故にしたのだから、へそを曲げているにちがいない。
 かといってLに事情を打ち明ける気にもなれなかった。無駄な肉を引っ込めるから菓子類の散乱する部屋には行けないなどと、どんな顔をして説明すればいいのか、彼女にはまるで見当がつかなかった。
 そもそも体重が増えたこと自体、彼女にとってはトップシークレットだ。よってダイエットついて語れるはずもない。
 好きな相手の前では常に美しくありたい。それは女性としてしごく当然の願望だ。しかし、きれいになるための努力を重ねていることは、少なくとも恋人であるLには知られたくなかった。
 美に対する向上心は旺盛なものの、それに対してLの前では無関心なふうを装いたい。試行錯誤したり、骨を折ったりするさまなど微塵も見せず、いつのまにか以前よりも容姿が磨かれたかのようにふるまいたい。
 そしてふとしたときにLが変化に気づいて「なんだかきれいになりましたね」の一言でもかけてくれればなおよかった。そうしたらはいかにも思い当たらぬといった感じで「そう?」と短く聞き返すのだ。
 空想のひとときから我にかえった彼女は、夢を現実に近づけるべく、この機会に肌や髪の手入れも見直すことにした。

 Lは無関心そうにモニタの文字を目で追いつつ、キーボードを乱雑に弾く。さながら労役を科された囚人のように、黙々と義務を遂行していた。
 顔からはいつにも増して血の気が抜け、皮膚やくちびるも乾ききっている。頬は凹み、蒼い影が差した。と連絡を取らなくなってから一週間経つが、その間ろくに食事を摂っていないせいだ。
 やつれた彼を心配し、ワタリが栄養食品のを持ってくるので、それを付き合い程度に二口三口かじるほかは、何も食べていない。
 見かねたワタリからしばらく休養するようすすめられたものの、捜査の手を止めることはLの意地が許さない。
 関係各所への指示を終え、ひと息ついたLは、寂しそうにスマートフォンを見つめた。
 彼はずっと待っているのだ。恋人からの連絡を、まだ別れを告げられたわけではないというのを唯一のよりどころに、ひたすら待ち続けていた。
 しかし静寂の重圧の前に、Lの希望は何度となく押しつぶされ、か細い期待はことごとく裏切られる。
「……、私は待ってるんですよ」
 その気になればの身辺を調査させるのは雑作もないことだ。だがどんな真相が露見するかわからない。鬼が出るか蛇が出るか。そんな恐怖が常につきまとい、Lの決断を鈍らせた。
 もしほかの異性の存在が明らかになろうものなら、果てのない苦境に放り込まれるはめになる。
「……
 口にした名前を、いまほど愛しく思ったことはなかった。苦みと切なさの入り混じった薄気味悪い感覚が胸にのしかかり、Lを戸惑わせる。椅子の上に立てた両脚に肘をつき、両手を組み合わせる。
 互いに握りあった左右の手は、こめられた力があまりに強いために、小刻みに震えていた。あたかも神に祈りを捧げるかのような所作だった。
 のちにL自身そのことに気づき、自嘲をふくんだ笑い方をしながら、口早にささやいた。
「今も臨終のときも祈りたまえ」
 それはカトリックの唱える、ポピュラーな聖句の一節だった。神など存在しない。あるのはただ神を欲する人間と、ほかでもない自分だけを信じて生きる人間だけだ。常に天界はなく、あるのは地上だけ。
 そう信じるLが知っている、数少ない祈りの言葉のひとつだった。
 聖母を讃える祈りの欠片が、皮肉にも頼るべきは自分のみという事実をLに思い起こさせる。ひざまずいて天恵を乞ったところで、神は不可解なほど気まぐれな存在だ。その心や考えは俗人に推し量ることはできない。
 ゆらりと――それはこのところの不摂生がたたったせいで、彼としてはすっくと立ち上がったつもりだった――立ち上がる。亡霊のようだった面差しに、生気がよみがえった。いつもの飄々とした物腰で身を翻す。声を上げて、ワタリを呼んだ。
「ワタリ、車を手配しくれ」

 宵闇が深まり、夜と交わりはじめる時刻。
 は日課となったジョギングを終え、自宅に戻った。玄関に座り込み、スポーツ用のシューズを脱いでいるところへ、母親がやってくる。
 母はどこか落ち着かない様子で、に会いに来客が見えていることを伝えた。
 は怪訝に思って小首を傾げた。だれとも約束はしていない。かかとを引き抜いたシューズを玄関に置いた拍子に、ふと隅に揃えてある一足のスニーカーが視界に入った。
 家族の靴ではないし、もちろんの物でもない。そのくせ妙に見覚えがある。かかとの部分を履きつぶした、ところどころくすんだスニーカー。
 自然と彼女の中である人物が想起される。しかし、いくらなんでも自宅まで押しかけてくるとは思えない。
 客はリビングで待っていると母から伝えられ、とにかく足を運ぶことにした。
 玄関から続く短い廊下を抜け、リビングへ移動する。足を踏み入れた途端、はその場に縛りつけられ、動けなくなった。
 テーブルを囲む形で置かれているソファのひとつに、Lが腰かけている。
「……L!」
 ただでさえ痩せぎしなのにも関わらず、いっそう肉が落ち、その分陰影が際立っていた。眼窩の輪郭、つまり眉間の下やくまの部分などほとんど蒼白で、病的な色合いをしていた。
 彼は母が用意したであろう目の前のカップに手もつけず、代わりにじっと凝視していたが、が入ってきた途端その気配をいち早く察知し、そちらに視線を走らせた。
「……
「な……何してるの、L。どうしてこんなところに」
 すべて言い終えることはかなわなかった。腰を上げ、駆け寄ってきたLに抱きすくめられたからだ。
 彼は薄い筋肉に覆われた胸板にを押し込め、切なげな嘆息を吐き出した。数秒言葉を選んだあとで、結局心のままに語りかけようと思い直し、くちびるがひとりでに動くのに任せる。
「……もしあなたが私のもとを離れても」
 は驚いてうなじを反らそうとするが、彼女をとらえるLの腕にはばまれて果たせない。
「私はあなたを離しませんよ」
「ちょ……ちょっと待ってよL」
「いいんです。何も言わないで、まず私の話を聞いてください。私はきっと、私自身感じている以上の不満をあなたに感じさせたんだろうと思います。もし逆の立場、私がなら、私のような男を愛し続けられるかどうか、正直自信がありません」
「いやだから待ってよ、L」
 制止を無視して、Lの独白は続く。
「でも……私はいまあなたを愛しています。それだけが大事で、ほかはどうでもいいことです。勝手な言い分ですみません。……願わくはあなたにも私と同じだけの愛を返して欲しい。それが叶わないとしても、それでも私は」
「L、本当に待って。落ち着いて。いいからちょっと離してよ、まず」
 しかしLは頑なにを抱き寄せ、腕を緩めようとしない。
 はしかたなくLに抱かれたまま、半ば呆れた様子で、けれどそれ以上に気恥ずかしそうに口を切った。
「……あのね、L。なにか盛大に誤解してるみたいなんだけど、別に私Lのこと嫌いになってないよ」
「じゃあ、どうして会いにきてくれないんですか? あなたは電話さえくれなかった」
「電話しなかったのはお互いさまでしょう。私は約束破っちゃったし、こっちからはかけづらかったの。Lからかけてきてくれれば普通に話したよ。会いにはいかなかったけど」
「……やっぱり会いに来てくれないんじゃないですか」
 Lの声に恨みが滲む。
「いや……それはわけが」
「いったい、どんなわけがあるっていうんです」
 今度は憤りをはらんだくちぶりで詰問してくる。
 は返答に窮してくちごもった。Lには事情を知られたくない。しかし黙したまま彼が納得するとも思えなかった。
 彼女はさんざん迷い、どうにか切り抜けられないものか、眉根を寄せて悩んだ末、恋人の気持ちを鎮めるには、打ち明けるしかないと結論した。
「……ダイエットしてたの」
「……はい?」
「だから、ダイエットしてたの!」
 自棄になって声を張り上げる。
 Lは抱きとめる腕から力を抜き、少し離れて、の肩に手を添えた。ただでさえ大きい目をいっそう見開き、意外そうに彼女をのぞきこむ。
「……でもそれがどうして私に会いに来ない理由に」
 聞きかけて途中でやめる。彼の秀でた推理力は、こんなときにも遺憾なく発揮された。少しだけ申し訳なさそうに顔を伏せ、垂れた前髪の奥からを注視する。
「わかりました、全部。私の部屋にくると、甘いものを食べざるを得ないからですね」
「そう」
「……だからって何もくるのをやめなくても。私だってわけさえ話してもらえれば、協力しましたよ」
「そのわけを話したくなかったの」
 がそうまで隠したがる理由が、Lにはわからない。だがきっと男には理解できない心情なのだろうと推測し、納得した。
「すみません。嫌な思いをさせてしまいましたね」
「……別にもういいよ。言っちゃったらすっきりしたし」
 はまだ少し拗ねている様子だったが、不機嫌そうではなかった。気を取り直して笑みを浮かべる。
「というわけで、また会いには行くけど、私の前でお菓子食べないでね」
「ええ……それは構いませんが。でも、は別に太っていないですよ。ダイエットの必要はないと思います。痩せすぎは身体に毒です」
「痩せすぎは身体に毒、ね」
 は呆れ返って短く息をついた。身体ごと横を向き、首を捻ってLを見やった。痩せ細った姿をつぶさに観察する。
「でもそれ、Lが言うことじゃないと思うけど。ダイエットするのは私だけでいいの。Lまで痩せてどうするの」
「……すみません」
「別に責めてるわけじゃないけど。心配してるの」
「ありがとうございます。でも、解決法はすでに提示されています」
 言いながら、Lはの手を取る。彼女の手の甲を自分の頬に押し当て、その感触を確かめつつ口を開いた。
「あなたがたずねてきてくれれば、それが何よりの励みになります。食も進むと思いますよ」
「……うん。わかった。近いうちそっちに」
 その先は、突如として響き渡った怒声にかき消された。
 はびくりと肩を震わせ、Lはごく平然と声のしたほうを振り返る。
 そこにはの父が立っていた。肩をそばだて、目に角を入れてLをにらむ。
 その背後で母がそれみたことかといいたげな顔をした。
 話し込んでいたばかりに、二人とも父の帰宅に気づかなかった。
 娘であるとの関係について問いただし、主の不在中に家に上がりこみ、あまつさえリビングで睦みあうとはどういうことか。そう矢継ぎ早になじる父に動じることなく、Lは持ち前のしたたかさを前面に押し出し、悠然たる態度で前に進み出た。軽くお辞儀する。
「竜崎といいます。はじめまして。ご息女のさんとお付き合いさせていただいている者です」
 そんな淡々とした自己紹介など、父の耳には入らない。
 彼は声を荒げ、厳しい口調で説教をはじめた。とLにまとめて灸を据える。
 母のとりなしもあって、ようやく父の勘気がおさまったのは、たっぷり一時間が過ぎたあとのことだった。

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