残照の射す空の真下で

 は最近、不安に感じることがあった。
 彼女には恋人がいる。竜崎という名の、一風変わった青年だ。
 痩身で、青白い皮膚。きちんと寝ているのか心配になるほど、目の下には濃い隈が刻まれていた。軟弱そうだが、意外と腕っ節が強い。
 彼女の額を曇らせるのは、ほかならぬ恋人のことだった。
 今日も喫茶店の、いちばん人目につきにくいテーブルで、ふたり向き合って座っている。
 竜崎はの視線を受けながら、まったく気にしない様子でコーヒーをすすった。
「竜崎。聞いてる?」
 問いかけられて、ようやく顔を上げる。カップは手離さないまま、淡々と返事をした。
「はい。聞いていますよ。どのケーキを頼もうか、ですよね。安心してください。支払いは私が持ちます」
「それじゃない。それはテーブルに着いていちばん最初の台詞でしょ? そのあとにもっといろいろあったでしょ」
 竜崎は左手をくちもとへやり、親指をひと舐めした。どこかとぼけた口調で指摘する。
「いちばん最初、という言いまわしは日本語として不適切です。あとで後悔、がおかしいのはわかるでしょう? 同じ欠陥をふくんでいます」
「……あんまりふざけてると殴るよ?」
「殴られるんですか……。ふむ。あなたに反撃するわけにもいきませんし、かといって黙って殴られるのも嫌ですし」
 いっこうにまじめに対話しようとしない竜崎に苛立ち、は強くてのひらをテーブルに叩きつけた。
 にらみつけ、相手を威圧しようとするが、当の竜崎はまったく怯まない。
 たまたま隣りのテーブルの人が広げた新聞の見出しが目に入ったらしく、あからさまに話題を逸らしにかかる。
「もうすぐ選挙ですね。は民自党ですか? 憲立党ですか? 民国党という選択肢もありますね」
「……は自民党、という言いまわしはおかしくない?」
 さきほど間違いを正されたのが悔しくて、つい話に乗っかってしまう。
「おや、私としたことが。しかしまだ甘いですよ。は民自党、というのはは民自党に投票するんですか、の省略です。これは文法的に誤りではありません。前後の文脈を把握していないと、会話の内容がつかめない欠点はありますが。しかしそのケースを想定しても……」
「そんなことはどうでもいいの。私はね竜崎、あなたの話を聞いてるのよ!」
 激しく言い立てられ、竜崎は目を丸くした。そのまま静止して動かない。
 ずいぶんそうしているので、が言いすぎたかと心配しはじめたころ、彼はぽつりとつぶやいた。
「私は日本の国籍を有していないので、残念ながら選挙には……」
「また選挙の話か! もういい、別れる!」
 まるで唾のように言葉を吐き捨てて、は席を立った。奢られるのは悔しいので、伝票を引っつかんでいく。
 一人残された竜崎は、深いため息をつき、砂糖の浮かぶコーヒーをひと口ふくんだところで、重大なことに気づいて小首を傾げた。
「……別れる?」
 まさかここまで事態が悪化するとは想定していなかった。世紀の名探偵、まさかの目算狂いだ。

 と竜崎が付き合い始めて、半年ほどになる。出会いは駅前の洋菓子店だった。
 何を注文しようか迷うに、竜崎が後ろから自分の好きな商品をすすめたのがきっかけで、会話が始まった。
 実は竜崎が声をかけたのは、単になかなかレジの前をどかないに苛立ち、さっさと決めてもらおうと思ったからなのだが、結果として慕いあう関係になった。
 付き合って三ヶ月したころから、は竜崎についていろいろたずねだした。住所、職業、会えないときは何をしているのか、などなど。
 無論、彼には話せないことばかりだ。はじめのうちは過去ではなくいまが重要だとか、自分はを好きだからそれで十分だとか、そうやってごまかしてきたが、それもさすがに限界に達したというわけだった。
 怒りを噴出させるを前に、なんとか切り抜けられないものかと、言い逃れを図ったものの、みごとに失敗してしまった。
「……あれは、私が悪いんでしょうか」
「どうしたんだ、竜崎」
 隣りでパソコンの画面とにらみ合っていた月が、心配して声をかけてくる。
 竜崎は手元のキューブ状の砂糖を積み上げては壊すといった作業を続けながら、ぼんやりと口を開く。
「月くん。月くんにとても大切なひとがいるとします」
「……ああ」
 月は頭の中に自分の家族を思い浮かべた。
「言っておきますが恋人という意味ですよ」
 付け足されて、あわてて想像を修正する。月は二、三回軽くうなずいた。
「うん、それで?」
「月くんはとても危ない仕事……たとえば殺し屋とか、殺し屋とか、殺し屋とか、とてつもないリスクを負った仕事をしています」
「待て、あきらかに殺し屋を強調してるだろう。僕はキラじゃない」
「恋人に自分のしていることはまったく話せないし、めったに会えません。その理由すら教えるわけにはいきません」
「おい、無視するなよ。僕はキラじゃないぞ」
 しつこく突っ込みを入れる月。だが竜崎はあっさり聞き流す。
「自分の立場が相手にしれることで、危険なことに巻き込んでしまうかもしれないからです。しかし、何も教えられないことが原因で、恋人との仲はだんだん気まずくなってきます。さて、どうしますか、月くんなら」
「……それは、竜崎の話か?」
「いえ? 私の友人の友人のそのまた友人の話です」
 むきになって否定するなら、別段それでも構わない。
 月はそう考えて、そこには触れずに相談に乗ってやることにした。
「……そうだな。謝るしかないんじゃないか? 事情があって何も話せないけど、その……好きな気持ちには変わりないと」
「やはりそれしかありませんか。妙案はありませんよね。こう、上手くごまかせ、かつ経歴を一切問われない方法……」
「嘘の経歴をつくりあげるとか。竜崎なら簡単だろ?」
「友人の友人のそのまた友人の話です」
「……じゃあ、友人の友人のそのまた友人にそう言ってやれよ」
「しかし」
 竜崎は片手で頬杖をつき、虚ろな目を天井に向けた。
「それは誠実な態度ではありませんよね」
「ごまかすのがそもそも誠実じゃないからな」
「しかし嘘をつくのに比べたら……うん、決めました。やっぱり素直に謝ります」
「ああ、それがいいよ」
 そう相槌を打って作業へ戻りかけた月の袖を、竜崎の指先が引き止めた。
「……なんだよ?」
「実は、さきほどからの話は私のことなんです」
「知ってるよ。どう考えても竜崎のことだろ」
「それで、月くんに頼みがあるんです」
「無視か」
 竜崎はくるりと椅子を回転させ、身体ごと月に向き直った。
 自然と、月も竜崎のほうを向く。
 差し向かう形で、竜崎はまっすぐに月を見た。
「上手い台詞を考えてくれませんか? 私はこういうの苦手なんです」
「僕だって得意なわけじゃないんだけどな」
「では、私が考えた台詞を批評してください。改良してよりよいものを考えようと思います」
「……わかったよ」
 月は渋々承知する。変なことに付き合わされてしまったと悔いながら、竜崎が名案を思いつくのを待った。
 ややあって、竜崎が表情ひとつ変えず、甘い言葉を吐きはじめる。
「あなたは私にとって何より大事な人です。私には事情があって、あなたに打ち明けられないことが数多くあります。だから、私にいま言えるのはこれだけです。愛しています」
 月は瞼を閉じて聞き入っていた。意見を述べようと口を開きかけた瞬間、ドアのほうから悲痛な叫び声が聞こえてきた。
 ふたりが驚いて振り返った先には、てのひらで口を覆う弥海砂の姿があった。
「し、信じてたのに、信じてたのに月のこと、よりによって竜崎さんとなんて……! ひどすぎるよ月!」
「……ちょ、ちょっと待て海砂! 何かものすごい勘違いをしてるぞ!」
 別に海砂に惚れているわけでもない。誤解されるのは構わないが、その内容が問題だった。
 月は急いで駆け出した。海砂の背中を追う。
 モニター室に一人残された竜崎は、角砂糖を一欠けら口に放り込み、これからどうしたものかと考えをめぐらせた。

 は鏡の前に立ち、眉間の皮膚を伸ばしてみた。竜崎と揉めて以来、ずっと顔をしかめているため、皺のあとができてしまった。それもこれも竜崎のせいだと考え、さらに腹をたてる。もう絶対許すものかと息巻いて、ソファに腰を下ろした。
 ふと、テーブルの端で液晶画面を点滅させている携帯が目に入った。ここ数日、頻繁に着信が入る。いうまでもなく相手は竜崎だ。もちろん、一度も出ていない。事情をすっかり吐露してくるまで、まともに口をきく気はなかった。
 その日の夕方。は投函されたばかりの新聞を手に、リビングでくつろいでいた。アイスコーヒーの入ったカップを傾けつつ、一面をざっとながめる。
 ふと左下の隅に、見慣れないタイプの記事を見かける。
「……ん?」
 よく注目してみれば、記事ではなかった。
 広告だ。どこかの企業が掲載させたものだろうかと考える。だがこんな出来すぎた偶然がそうあるとも思えない。さほど大きくない広告のスペースには、ごく短い英文が記されていた。
“I’m sorry. You mean so much to me.”
 文末にはRyuzakiと署名されている。
「何これ? 竜崎? でも、まさかそんな……」
 タイミングよく、電話がかかってきた。怒りを忘れて、つい通話ボタンを押してしまう。相手はやはり竜崎だった。
「お久しぶりです、
「……久しぶり。あのさ、今日の夕刊、見た?」
 婉曲に問いかけてみる。
 何を言わんとしているか伝わったらしく、竜崎は少しだけ嬉しそうな声を出した。
「ああ、見てくれましたか。あなたの取っている新聞を調べて、その新聞社に無理を言ってスペースを空けてもらったんです」
「……な、何言ってるの? そんなの、すごいお金かかるじゃない」
「まあ、確かに一般的な金銭感覚で考えれば、安いとは表現しがたい額でしょうね」
 平然と答えられても、には何がどうなっているのかわからない。
 長い間事態を把握しようと努めたあと、脳裏に浮かんだひとつの疑問を口にした。
「あなた、何者?」
「あなたの恋人です」
「……別れるって言ったじゃない」
「私は同意してません。交際は二人の合意の上に成り立ちます。であれば、破棄する場合もやはり合意を経るのが基本であるべきです」
 婚約、もしくはそれに準ずる関係ならともかく、交際に法的義務はないし、根拠もない。
 はくすりと笑いを漏らす。下手な理屈をこねまわす竜崎がなんだか必死に思えて、おかしかった。
、これから会えませんか?」
「……いいけど」
 少し迷ったが、のほうにも問いただしたいことがある。承諾して、待ち合わせ場所をたずねた。

「……ねえっ、竜崎っ!」
「……そんなに大声出さなくても聞こえますよ?」
「いやだってこれうるさすぎ! っていうか竜崎免許持ってるの!?」
 プロペラが空を切る音がけたたましく、景観を楽しむどころではない。
 の身体はいま地上を遠くはなれ、上空数百メートルに浮かんでいる。
 待ち合わせのビル前へ行くと、竜崎が現れ、話もそこそこにビルの中へ連行された。
 長い間エレベータに乗ったあと、屋上へ出ると、そこには一台のヘリコプターが止まっていた。
、ほら、真っ赤な空がきれいですよ。夜空もいいですが、私は夕焼けのほうが好きですね。何せ夜になるまでの短いあいだしか見れませんから。その儚さが美しさをより引き立てます」
「無視!?」
 免許の話はあっさりスルーされた。
。空は広いですね」
「……空が狭かったらおかしいでしょ、惑星は球体なんだから」
「こうして広大な空間の中に身を置いていると、抱えている悩みがどれもちっぽけに思えてきませんか?」
 竜崎はそう問いかけながら、計器から目を逸らし、を一瞥した。
 見交わしたのはほんの一瞬だったが、彼女は竜崎の瞳の中に、空よりなお広い無辺際の空間を見つけた。茫漠たる荒野、あるいは天体の死滅した宇宙。竜崎は彼の内側に、途方もない大きさの空洞を抱えているのではないか。
 そうは思った。
「……それは、私への嫌味?」
 内心、竜崎を許してもいいと思いかけているのに、口からは正反対の文言が飛び出した。
 素直になれない自分に、自己嫌悪を感じながら、外の景色に視線を移す。西の方角から広がる残照が、散り散りに浮かぶ雲を赤く滲ませ、その陰影を鮮明に分けた。
「そういうわけではありません。気に障ったらすみません。……
「……何?」
「私には、あなたに言えないことが山ほどあります。ですが、誤解しないで欲しいのは、やましいことがあるからというわけではないんです。それがあなたのためだと、私が考えたからです」
 は軽く竜崎をにらみ、その目じりに恨みをにじませた。
「何それ。ぜんぜんわかんない」
「わからなくていいです。私にはそれすら説明できません。……ただ私があなたに言えるのは、愛しているという言葉だけ。過去を持たない私に語れるのは、あなたへの愛だけです。……それでは、だめですか?」
「……そんな未来のない恋愛、私」
 そこまで言いかけたのを、竜崎が遮った。
「未来はありますよ。私はこのままの付き合いで終わるつもりはありませんから。……そうですね、遅くとも二、三年後には結婚してもらうつもりです」
「け……結婚!?」
 さすがに驚いて、シートから身体を起こし、竜崎を振り返った。
 彼はくちもとだけで微笑んでいる。心持ち楽しそうにしていた。
「未来ある恋愛といえば、普通結婚では?」
「いや、それはそうだけど……。そうだけど……あんまり突然で」
「ちなみに、私は日本人ではありませんし、日本にとどまることもできませんので、一緒に諸国をまわっていただきます」
「……私、初級の英語しかできないんだけど」
「教えて差し上げます」
 は長い間考え込んだあと、やがてぽつりとつぶやいた。
「本気?」
「本気です。日本語にはマジという俗語がありますね。それを使うならマジです」
「いや別に俗語を使う必要はないけどさ……。私に拒否権はないの?」
「もちろんあります。ありますが……」
 竜崎は寂しそうに、若干顔をうつむけた。物憂い声で続ける。
「断れたら、私はあなたをさらうかもしれません」
「……それ拒否権あるって言わないよ」
「そうですか。……そうですね。まだ先のことですから、ゆっくり考えてください」
 言いながら、深い感慨のこもった横顔をする。
 は竜崎のそんな表情を視界の隅にとらえて、何を言おうか考えるうちに、怒りを挫かれている自分に気づいた。面と向かって愛を囁かれれば、悪い気はしない。ただ、いつかまた不安に陥るだろうという予感はした。
「ところで、なんでヘリコプターなの?」
「知人に相談したところ、女性の機嫌を取るにはロマンチックな雰囲気をつくるのがいちばんだと言われまして……」
 あれから弥の誤解を、月に頼まれてふたりがかりで解いた。その後、女性のことは女性に聞くのがいちばんだと考えて、それとなく弥に意見を求めてみたのだ。
「ロマンチック?」
 は怪訝そうに機内を見回した。
「狭いわうるさいわで、ぜんぜんロマンチックじゃないけど」
「じゃあロマンチックにしましょう。キスしていいですか?」
 いきなり竜崎が身体を傾けてきた。首を伸ばして、顔を近づけてくる。
「えっ? いや、ちょ……」
 戸惑ううちに、くちびるがかぶさる。
 触れ合った部分を通して、互いの心音が重なるようだった。
 熱い気息が混ざり合う。
 濡れた舌がすべりこんできた瞬間、はそんなものよりもっと重大なことに気づいて、あわてて大声を上げた。
機体が、ぐらつく。
「ちょ……竜崎! 操縦! 操縦してよー!」

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