芋虫

 どんな薄明かりでも構わぬ、物の姿を見たいであろう。
 どんな幽かな音でも構わぬ、物の響きを聞き度いであろう。
 何物かに縋り、何物かをひしと掴みたいであろう。
 だが、彼にはそのどれもが、全く不可能なのである。
 地獄だ。地獄だ。

――芋虫 江戸川乱歩

 診察室の壁際に置かれたベッドに、ひとりの少年が腰掛けていた。彼の瞳は暗く、それでいてなおどんよりとした霧に満ち、一切の感情が窺えない。何物をも見ていないのだ。彼は端から外界との連絡を諦めている。そんなものに価値はないと悟っているのだ。繊細だが梳かした形跡のない、無雑作なまま放置された銀髪が、天井から降る橙の電灯を受け、細やかな煌きを浮かべた。少年から少し離れたところで、一組の男女が向き合って座っている。男のほうは医師だ。女はといえば、飾りけのないいでたちで、何か落ち着かない理由があるらしく、絶えずそわそわとして、膝に置いた手をしきりに組み直している。彼女が忙しなく首を上げたり、下げたりするたび、後頭部で束ねた髪の尾が揺れた。彼女は長い間そうしていたが、やがて意を決した様子で顔を上げ、改めて医師を見向いた。固く噤んでいた唇を開き、チラと少年を一瞥した後、それまでの寡黙さは別人格の仕業であったとでも言いたげに、饒舌に、口早に語りだした。
「ええ、もうすっかり心の準備が出来ました。何もかも先生にお聞かせする所存で御座います。まず、あの少年について少し、といっても話せることはごく限られておりますけど、可能な範囲で事前に打ち明けなければなりませんね。彼の名前はニア。通称ですけれど、それ以上をお知らせすることは出来ませんし、また先生のご診察にも必要ないかと存じます。と申しますのも、彼の生い立ちや生活環境が、彼の根底に巣食う病理に大した影響を与えているとは思えないからです。それに万一先生が必要だと仰って、私にお尋ねになりましても、私はきっとご希望に添うことは出来ません。それだけは予め申し上げておきます。ともあれニアの、あの銀髪で、酷く青白い顔をした少年と私の出会いから、私が彼の病に気づき、ここへ連れてくるまでの経過をお話しなければなりません。少し長い話になりますけれど、どうぞご辛抱なすって、一から十までご傾聴下さいますよう、お願い申し上げます。
 ニアは或るとき、私の勤める養護院に移り住んできたそうです。私は当時養護院におりませんでしたし、管理者に聞けば或いはと存じますが、先程お話したとおり、多くを語ることは出来かねます。どうかご了承下さいませ。彼は大変知能が高く、本来ならずっと長じてから学ぶべき事柄も、幼い内から習得してしまい、周囲の人間を驚かせてしまったそうです。ああ、どうぞ先生、そのように疑わしげなお顔をなさらないで下さい。何も嫌がる彼に、周りの大人たちがこぞって英才教育をほどこしたというわけでは御座いませんの。児童の自主性を尊重し、彼らの望むべき道を進ませてやるのが、私共の教育方針ですもの。ですからその点だけは誤解のないようお願い申し上げます。
 彼、ニアは実に多くの才能を発揮致しました。その全てを先生、貴方様にお聞かせ出来ないのが残念でならないくらいです。しかしもっと残念なことは、ニアの持ちえた才能の中に、対人関係を豊かにし、他者との関係を発展させ、また円滑にしてゆく能力は含まれなかったことです。彼はいつも独りでした。マァ、先生、そのお顔から察しますに、他の児童がニアを迫害していたのではないかとお疑いですね。それは酷い中傷です。断固抗議せねばなりません。私共は格別ニアの周辺には注意を払い、神経を遣っておりましたから、彼が他の児童から一方的な中傷、或いは暴力を受けたことは一度も御座いません。無論、一寸した諍いに端を発する口論は御座いましたけれど、それはどの家庭でも多く見られる事態ですもの。ああ、そのように恐縮なさらないで下さいまし。お分かり頂ければそれで十分です。先生は幾らか誤解なすっているようですが、私共は心から先生の手腕に期待し、その知識にお縋りしているので御座います。ニアをお救いになれるのは先生を置いて他にいらっしゃらないと、そう確信致しておりますゆえ、何卒ご尽力下さいますよう、重ねてお願い申し上げます。
 さて、ニアを取り巻く人間環境についてお話致しましたけれど、実は私、まだ重要な事柄を打ち明けておりませんでした。ここまでは単なる状況説明であって、いわば他に要因がないことをご証明申し上げるための時間で御座いました。アラァ、先生、どうぞそんなにご不快にならないで下さいまし。え、私の思い過ごしで御座いますか。それはそれは、どうも申し訳御座いません。何分、私共も多少神経過敏になっておりますから、いけませんね。
 え、重要な事柄。アァ、然様で御座いました。私はそれをお話するために、養護院の管理者から遣わされたといっても過言では御座いません。ニアにはただひとり、この世でたったひとり、よすがにしていたお人がいらっしゃったので御座います。様とおっしゃる女性ですわ。彼女は既にお亡くなりになっています。ああ、どうぞ早合点なさらないで下さい。先生はただいま、様が冥府へ行かれたのが原因で、残されたニアがあのような状態になり果てたのだとお考えになったでしょう。それは当たらずとも遠からずといった具合ですけれども、とても正鵠を射たとは申せません。なぜ、と申しますれば、何故なら彼女、様は、今から三年前にお亡くなりになったからで御座います。……え、違う。と申しますと、先生は一体、どういった理由で、そのように不安と申しましょうか、疑念をこらえきれないといったお顔をなすったのでしょう。ハァ、ご心配には及ばないと。わかりました。話を続けます。
 申し遅れましたが、私が施設へ入りましたのは、一年と三月前で御座いますから、実は私も様と直接お会いしたことは御座いません。ただ管理者や、養護院の卒業生――彼はこの世でもっとも多忙と申し上げてもけして言い過ぎてはないくらい、分刻み、秒刻みの生活を過ごしておりますから、彼から話をお聞きになることは、たとえ私を通してであっても、不可能である点をまずもってお話しておかなければなりますまい!――の他、メロにマット……ああ、どうかいま私が申し上げました名前は、けして記録なさらないで下さい。どうぞ、先生ご自身もご放念戴きますよう、私、心の底から切に希望致します。え、そうする代わりにいまお話した彼らが何者であるかを説明しろと、そうおっしゃるわけですか。承知致しました。それは容易いことです。ただどうか、今し方私が口を滑らせました名前だけは、先生が棺へお入りになるまで、密やかに、誰にもお話になることなく、施錠に施錠を重ねた金庫の中へお入れ戴きますよう、いま一度お願いを申し上げます。いま私が愚かにも名前をお聞かせ致しました両者は、ニアに勝るとも劣らない知性を備えていた子どもたちです。なんのためにそれほど高度な教育を子どもたちに施すのか、とおたずねで御座いますか。ああ、先生、それは最初の約束を反故になさるお言葉です。お取り消し下さいませ。でなければ私は、今すぐあの少年、何が楽しいのかはわかりませんが、自分の髪をしきりに触って遊んでいる少年を連れて、お暇しなければなりませんもの。おわかり戴けましたでしょうか。ああ、よう御座いました。また別の先生をお訪ねしなくて済みますもの。ええと、どこまでお話致しましたかしら。ああ、然様で御座いました。様についてですね。
 卒業生やニアの学友から聞き及びますところによれば、様、彼女は大変お美しい方だったそうです。ニアが一枚だけ写真を持ち、ロケットペンダントに仕込んであるそうですけれど、見せて貰ったことは御座いませんし、また彼自身それを大変嫌がります――ええ、そうですわ。正体をとうに失い、夢と現を絶えず行き交う体たらくの今でも、ロケットペンダントだけは肌身離さず携帯し、私やどなたか別の人間が触れようとすると、たちどころに身を竦ませ、蹲り、背筋をびくびくと痙攣させ、ついには手のつけようがないほど暴れ出すので御座います――ので、この目で拝見したことは御座いません。いずれにせよ、治療には必要のないことで御座いますから、先生もどうぞご放念なすって結構……あ、お書き留めになるので御座いますか。いえいえ、どうぞご随意に。私のような素人が口を出すことでは御座いませんもの。先生を信頼し、全て――と申しましてもやはり限度が御座いますけれど、それが何より私と先生の緊密な連携を阻害していると指摘せずにはいられないでしょう!――お話する覚悟で参りました。
 では、様のお人柄に話を移しますけれど、それはもう大変お優しいお方だったそうです。加えてご聡明で、なんでも、ニアの質問に答えられるのは彼女だけだったといいますから、彼女が他の――無論、私をふくめてという意味です――職員に比べて、博識であったかは想像に難くないでしょう。ニアは大変様を信頼し、四六時中、場合によっては寝床を共にするほど懐いていたそうです。かような具合で御座いましたから、様がお亡くなりになったときは、さすがのニアも号泣し、様の死を素直に受け入れることの出来ない状態だったと、管理者は申しておりました。神経衰弱の度合いはかなり強かったそうで御座います。え、そのとき医師にはかかったか、で御座いますか。ええ、もちろん、と申し上げたいのは山々ですけれど、不調法ながら、その点につきましては管理者から何も聞いておりません。必要であれば確認してまいりますけれど、もし医師の診察にかかっていたとしても、そのときの医師や医院をお教えすることは、きっと不可能であると思います。たいそう怪訝にお思いのことと存じますが、何卒ご理解下さいますよう、伏してお願い申し上げます。
 え、様の死因について、で御座いますか。サァ、私は重い病だとしか。何分、ごく最近のことですから、結核などということではないと思いますけれど。これも必要でしたら、管理者に確認してまいります。アラァ、ご不要、で御座いますか。かしこまりました。
 さて。いよいよここから私の見た、これまでで一等恐ろしい光景、身の毛のよだつ、ついうっかり地獄を覗いてしまったのではないか、そのように見紛うほど惨絶な体験を詳しくお伝えしなければならないので御座いますけれど、先生におかれましては、何卒、他言無用の四字を胸にお刻みになり、けしてご放念なさらないよう。よろしいですか。ではお話申し上げます。
 事の起こりは私が養護院に勤めだしてまもない時期です。管理者がニアに、ひとつの日本人形を与えたのです。と申しますのも、その人形があまりに様の容貌を宿しておりましたからでして――念のため申し上げますけれど、様のためにつくられただとか、管理者がニアのために特別に職人に命じて拵えさせたというのでは御座いません。全て、偶然の生んだ結果に御座います――ニアはこの贈り物を大変喜び、え、ええ、確かに、何分生来感情の起伏の見えない少年で御座いましたから、歓声をあげたりだとか、そういったことは一切御座いませんでした。私の観察致しましたところをお話しております。ハァ、なるべく客観的に、で御座いますか。かしこまりました。以後気をつけます。ええと、ニアは管理者から貰った人形を、常に自室へ置き、周囲の児童が見せてくれと頼んでも、けして首を縦に振らなかったそうで御座います。私は数度、ニアの様子を見に、彼の部屋へ入ったことが御座いましたが、彼はいつも人形を抱え、櫛で髪を整えたり、着物の乱れを直したりと、それはもう大変なかわいがりようでした。
 それだけでしたら、特になんの問題も御座いません。あ、頭の固い、もとい少々前時代的な方々は、男児が人形に執心するなどけしからんと、そう青筋をたてられることでしょうけれど、私共はそういった考えには与しておりませんでした。ですから、起こった問題は全く別のことです。
 或る日のことでした。児童のひとりが、夜半になると、ニアの部屋から何やら奇妙な声が聞こえてくるため、それが邪魔で、なかなか熟睡出来ないと、私のもとへ苦情を申しに参りました。私はとりあえず機を見てニアをつかまえ、事情をたずねましたが、彼は何も知らないの一点張りです。しかたありませんから、そのときは以後注意するようにと言いつけ、それきりでした。しかし、ニアが夜半に何事か呟いているという苦情は増すばかり、広がるばかりです。結局、管理者の命を受けました私が、該当する時刻にニアの部屋をたずねました。すると、確かに、およそ小さな声では御座いますけれど、何か聞こえてくるのです。何を言っていたのか、最初は全くもってわかりませんでした。けれどドアに耳をあて、ジッと聞き澄ましてみると、だんだんと明らかになっていきました。彼はその変声期を感じさせない声で、、と、そうくりかえし呟いていたので御座います。私は、彼が寝言を言っているのだと思いました。しかし、それにしてはいやに明瞭に発声しています。そのうち名前だけでなく、愛しています、だとか、今日も貴女はきれいですね、だとか、いまの貴女がいちばん綺麗です、だとか、そういったことを呟いておりました。え、確かにそう言っていたので御座います。私は怪訝に思い、予め所持しておりました鍵を開け、そっと中を覗いてみたので御座います。そうしましたら、ああ、いま思い出しても身体が震えるのを止められません。どうぞ、一時、話を中断するご無礼をお許し下さいませ。
 ……ええ、もうすっかり大丈夫です。先を先生にお話出来ると思います。今度こそ最後まで打ち明けなければなりませんね。私の見た、ありのままの光景をお話致します。薄闇の蔓延る部屋の中で、ニアの肌はあの通り石膏のようで御座いますから、ぼんやりと光っているようで御座いました。たとえ真の暗闇の中におりましても、あの子の肌は白く発光し、その輪郭を際立たせることと存じます。
 彼は寝台ではなく、床に臥せっておりました。白い肢体が、まるで引き伸ばされたゴムか、千切れた布切れのように、だらりとだらしなく、関節の存在をまるで感じさせない姿態で横たわっていたので御座います。はい、その通りです。彼は衣服を身につけておりませんでした。見つけたのはずいぶん後になってからのことですけれども、ベッドの脇、一寸した隙間に押し込んでありました。それは置いておくと致しまして、一糸纏わぬ姿の少年が、頬の片側を床に伏せる姿勢で、寝転がっておりまして、それだけでしたらまだ異様とまでは申しませんでしょう。けれど、ああ、彼はその腕の中に例の、あの人形を抱いていたので御座います。ときおり首を伸ばして、人形の顔に唇を押しつけているのが、暗闇の中でもハッキリとわかりました。私はもう仰天し、これは何事かとうろたえ、ついドアを余分に開き、そのため物音を立ててしまいました。瞬間、ニアはこちらを振り向きまして、そのときの表情を、どう先生にお伝えすればよいものか。鼻の根元に深い皺を幾重にもきざみ、目はくっきりと浮き出た血管で真紅に染まり、青ざめた口もとがひとたび開けば、そこに見えたのは石榴の実、あのなんとも気味の悪い色合いだったので御座います。彼は眼底から滲み出た凄烈な光で、血走った目を一層ぎらつかせながら、素早く床にうつ伏せになると、そのまま私のいる戸口まで、四つんばいになって向かってきたのです。そのときの手足の蠢きが、ああ、いま瞼を閉じてもまざまざと甦るほど不気味で御座いました。尖った肘を左右に突き出し、丸くて艶のある膝を床へ押しつけて、そうしながら、手のひらと膝で、ほんの数メートルとは申しますけれど、走り寄ってきたので御座います。本来、人間の手足は四本です。奇形児や、後天性の事故、或るいは病を克服するための手術でも経ない限り、この数が揺らぐことは御座いません。けれどもあのときばかりは、彼の手足の動きがあまりに異様で、ええ、喩えるならば、ムカデの無数の足が、それぞれ独自の意志を持った別の生き物であるかのように、好き勝手に動きまわり、這いまわり、胴体をふたつに切り離され、生物としての意味を失ってもなお、少しも介意することなく、命尽きるまで、でたらめな方向に進み続ける……そんな様相を呈していたので御座います。暗がりに皮膚の色が残像となって焼けついていたために、十とも、二十ともつかない数に見えたことも無関係では御座いませんでしょう。ああ、先生にはけしておわかり戴けないでしょう。いま私の話を平然とお聞きになっているのが何よりの証左で御座います。あのメカニカルと申しましょうか、昆虫のようで、あまりに有機的と申しましょうか、ともあれ、あれほど気味の悪い人間の姿を見たのは、後にも先にも一度きりです。そうして私のもとへ駆け寄ったニアは、立ちすくんでいる私の足首をつかみ――ああ、あのときの指先の感触は、いまもなお私の足首に、皮膚の下に、脳裏に、しっかりと刻み込まれて、ふっとしたときに去来するので御座います――細く、私の腕でも簡単にへし折れそうなほど脆弱な首を目一杯反らして、食い入るように、射るように、私を凝視致しました。ふたつの瞳が、私の姿を閉じ込めたまま、ぎゅう、と縮みあがります。瞳の中央、一際色の暗い部分など、まるで血の池地獄を思わせる陰りようで、私などは覗き込むのも躊躇したほどです。そうして彼は、完全に死人のものとしか思えない、青味の濃い唇で、耳底にまでじっとりと焼きつく、深い怨嗟のこもった声を紡いだのです。彼は私にこう問いました。
「私を、軽蔑するんですか」
 そしてその後すぐ、視線に一層の憎悪を絡ませ、瞬きひとつしないまま、前句を継ぎました。
「そんな権利は貴女にない。いま生きて、その醜い生態活動を繰り返す、一等卑しい存在であるところの貴女に、そんな権利があるとでも思っているんですか。美しいのはです。彼女だけです。いまは呼吸を終え、魂だけをこの人形に移して、夢でもなく、現実でもない時間を泳いでいる」
 私はとにかくその場から逃げ去りました。どうやってニアの手を振り解いたのか、覚えておりません。ともあれ私は管理者のもとへ駆け込み、要領のえない話しぶりで、いま目にしたばかりの光景を説明しました。すると、管理者はそうかと申し、ニアへの部屋へ向かうと、いまだ人形と身を寄せ合っていたニアから、彼のおそらく一等――それは嘘ではありますまい! 彼は自分の命よりもなお、人形を慈しんでいたはずでした――大切なものを取り上げ、彼ひとりを部屋にとじこめてしまいました。管理者はその後、人形を焼却し、二度とニアの手元に還る可能性をなくしました。それは、あのときは正しい判断であったと、私も考えています。ああすることでニアをまっとうに、ごく普通の、というと語弊があるでしょうか、ともあれ誤った道を進ませないようにする手段であると信じていたのです。しかし、結果として、ニアは一晩中震え、怯え続け、錯乱と叫喚の限りを尽くした末、窓から朝日が差し込むころには、この世の人ではなくなっておりました。言葉をかけても返事がなく、また肩を揺すっても、額を突付いても、一切、なんの反応も示しません。それきり、ニアの言葉、意味のある言葉という意味ですけれど、それを聞いたものは私を含めてひとりもおりません。
 さあ、これで全て話し終えました。え、なんですか、先生。様の死因を、やはりお知りになりたいと。わかりました。可能な限り早く、ご連絡差し上げることを、ここにお約束致します。あの、ニアのことですけれど。ああ、それを聞いて安心致しました。ここでお預かり戴ければ安心です。彼が一日も早く、あの黒目勝ちで、水晶のような瞳に、正気の色を取り戻すことを願っております。……まあ、ニアの部屋を、ですか。ニアの部屋を捜索して、所持品を全て列記して、余すことなくご報告するように、と。かしこまりました。ではその通りに致します。では、私は養護院の仕事が御座いますから、これで失礼して構いませんか。あ、はい。では、これで。長らく時間を戴いてしまいました。他の患者さんに、取り分けそのご家族に申し訳なく存じます。ここに定住する方々には、時間などという概念は御座いませんものね。え、それは差別的な物言いであると。オヤ、これは大変、失礼を致しました。何分、世間知らずなものですから、伏してお許しを乞います。では、これにて失礼を」
 女性の立ち去った後の部屋には医師と、病を患った少年だけが残された。その佇まいは、喩えるならば、何百年ものあいだ雨水に晒され、ディテエルは朽ち、凍った月の放つ寒気を一身に浴び続け、陽光との再会を果たすことは永久に叶わぬであろう、孤独を閉じ込めた氷像だ。青白い皮膚はまるで死人のように沈黙し、瞳はただ開いているだけで、視界に映る何物をも見てはいなかった。彼にとって世界はくすんだ灰色の造形物の連なりであり、それ以上の価値を見出せる対象ではない。彼は何事かをぶつぶつと呟いた。それは呪いのようであったし、また、祈りのようでもあった。医師には、免罪を乞う言葉に聞こえた。
「……、私です。ああ、どうか……どうぞ、私を許して下さい。私はただ、貴女を愛しただけです。貴女を慈しむ方法を間違えてしまったのかもしれません。それといいうのも、貴女が余りに美しかったから、その美しさを永遠に、そして完成されたものへと変容させたかった。ああ、私の話をどうか最後まで聞いて下さい。私はどうして貴女を……」
 医師は少年の漏らす声から意識を逸らし、何やら書き物を始めた。一枚のカルテに記入を加える。ニアではなく、別の患者だ。或る少年を愛し、けれど彼が余りに美しく、また無垢であったために、少しでも彼に近づこうとした末、一計を案じ、自分を毒殺するよう仕向けた女性患者について纏めたものだった。この女は辛うじて一命を取り留めたものの、ついに譫妄から覚めることはなく、三年ものあいだ閉鎖病棟を脱け出せずにいる。この病院では、そうした人間は珍しくない。医師のなんの感慨も見られない、極めて無感動な目が、カルテをザッと一通りながめた。

※文頭に掲げた芋虫(著・江戸川乱歩)の”掴み”は原文では旧字体

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